鈴木ヒロミツの死因は?余命3ヶ月で本まで出版?経歴のまとめ! エンタメ

鈴木ヒロミツの死因は?余命3ヶ月で本まで出版?経歴のまとめ!

鈴木ヒロミツさんはロックバンド、ザ・モップスで、弟の幹治さんも共に活動していました。俳優としても活躍しましたが、2007年に亡くなりました。死因である癌が発見された時には余命3ヶ月の状態でしたが、最期まで愛する妻と息子のそばにいることを選んだ人生でした。

目次

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鈴木ヒロミツの死因は?余命3ヶ月?本も出版?

歌手や俳優として活躍した鈴木ヒロミツさんは、2007年に60歳で亡くなりました。その死因は肝細胞癌で、発見された時にはすでに余命3ヶ月の状態でした。

そして、亡くなった後には病床で家族への思いを綴った手紙を元にした本が出版されることとなりました。

鈴木ヒロミツは2006年に余命3ヶ月と診断

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肝細胞癌が発見された時、すでに病状は進行していて余命3ヶ月という宣告でした。しかし、鈴木ヒロミツさんは冷静に受け止めて家族には笑って伝えたそうです。

そして、入院治療はせずに家族と自宅で過ごすことを選択しました。延命治療はしないと決めて、タバコやお酒も辞めることなく自宅で家族との時間を大切に過ごされたそうです。

2007年3月14日に家族に看取られ死去

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鈴木ヒロミツさんは余命宣告を受けてから、入院治療を行わず家族のそばで療養生活を続けました。しかしながら、2007年3月から体調は次第に悪化していきました。

同年3月13日に東京都千代田区の病院に入院となり、14日午前10時02分に家族に看取られて亡くなりました。亡くなる少し前まで、妻の美恵子さんや息子の雄大さんの名前を呼んでいたそうです。60歳でした。

鈴木ヒロミツの死因は肝細胞癌だった!

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鈴木ヒロミツさんの死因は、肝細胞癌でした。肝臓は「沈黙の臓器」とも言われるように、障害が起こってもなかなか症状が現れません。そのために、余命3ヶ月の状態になるまで癌が見つからなかったのかもしれません。

また、鈴木ヒロミツさんはお酒が好きな方だったそうです。このことも、肝臓に負担をかけた一因だったのかもしれません。

鈴木ヒロミツは生前に戒名を決めていた!

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鈴木ヒロミツさんは生前に自分の戒名を決めていました。戒名は「美雄永満愛大喜善居士」で、自分の名や妻の美恵子さん、息子の雄大さんの名前の漢字が入っていて、家族への愛が込められているのがわかります。

鈴木ヒロミツは妻と子供への手紙を本にしていた

鈴木ヒロミツさんは余命宣告を受けてから、自宅で妻や息子、お世話になった方に向けてたくさんの手紙を書いて過ごしました。応援してくれたファンや知人たちにお別れを伝えるために、本を残すと決めていたそうです。

亡くなる1週間前にはホテルで3日間に渡りインタビューを受けています。このインタビューを書きおこしたものと、病床で綴った手紙とで死後に「余命三ヶ月のラブレター」という本になり出版されました。

鈴木ヒロミツを惜しむ声が続々届いた!

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鈴木ヒロミツさんが亡くなってから、多くの著名人からその死を惜しむ声が届けられました。ザ・モップスのボーカリストとして、俳優としての影響力の大きさだけではなく、その温かな人柄がうかがい知れるものでした。

和田アキ子のコメント

鈴木ヒロミツさんは、和田アキ子さんにとって数少ない同じ所属事務所(ホリプロ)の先輩でした。葬儀の時に和田アキ子さんは「いい先輩を持って誇りに思います」と涙をこらえながらコメントしました。

2008年に発売された和田アキ子さんのCDアルバム「わだ屋」には、鈴木ヒロミツさんがボーカルを務めたザ・モップスの代表曲「たどりついたらいつも雨ふり」が二人のデュエットとして収録されています。

ザ・モップスの星勝のコメント

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ザ・モップスでギター、ボーカルを担当していた星勝さんは、鈴木ヒロミツさんが亡くなる前日に病室を訪れたそうです。

「バンドは解散してもメンバーや関わってきた人たちのことをいつも気に留めているような人でした。対面して、話ができてよかった」と鈴木ヒロミツさんの人柄を振り返りコメントをしています。

音楽評論家の冨澤一誠のコメント

音楽評論家の冨澤一誠さんは「彼は、日本の音楽会においてロックのパイオニアだった。俳優やタレントとしても成功していたが、根本には常にロックがあったと思う」と、ミュージシャンとしての功績をたたえました。

鈴木ヒロミツの家族の現在は?妻や息子や弟は?

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鈴木ヒロミツさんは、最期まで妻と息子と過ごすことを望んでいました。とても家族を大切にしていた方だったようです。また、一緒にバンド活動をしていた弟の幹治さんは、バンド解散後も音楽業界で活躍してきました。

鈴木ヒロミツは妻をとても愛していた

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鈴木ヒロミツさんには恵美子さんという妻がいました。一般の方なのであまり情報がないようですが、結婚する前から恵美子さんにかなり惚れ込んでいたそうです。

「余命三ヶ月のラブレター」に綴られているように、鈴木ヒロミツさんは病床でも妻にたくさんの手紙を書き残しました。そして最期は、愛する妻に看取られて亡くなることとなりました。

息子の鈴木雄大は音楽に興味を持っていた?

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鈴木ヒロミツさんには、雄大さんという一人息子がいます。亡くなる前には、所属していた事務所(ホリプロ)の社長である堀義貴さんに「息子を頼む」と伝えていたそうです。

雄大さんは音楽に興味を持っていて、音楽関係の仕事に関わっていると言われています。ネット検索で出てくる鈴木雄大さんという歌手の方は同姓同名の別人で、息子の雄大さんはあまり表舞台の仕事ではないようです。

鈴木ヒロミツの弟は浜田省吾のプロデューサーとして活躍

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鈴木ヒロミツさんと弟の幹治さんは、一緒にザ・モップスのメンバーとして活動していました。幹治さんはドラムスを担当していましたが、バンドの解散後は音楽プロデューサーとして活躍することとなります。

中でも、浜田省吾さんをマネージャーとして、プロデューサーとして長年にわたり支え続けました。幹治さんがプロデュースしたレコードは数多く、バンドの解散後も長くプロデューサーとして活躍されています。

鈴木ヒロミツの経歴は?生前の動画はある?

鈴木ヒロミツさんは、ザ・モップスというロックバンドのボーカリストとして活躍しました。バンドとしての活動期間は決して長くはありませんが、若者からの支持を受け人々の記憶に残るヒット曲を残してきました。

鈴木ヒロミツの弟がチェックメイツを結成

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鈴木ヒロミツさんの弟の幹治さんは1966年にチェックメイツというバンドを結成しました。メンバーは、ギター・ボーカルの星勝さん、ベースの三幸太郎さん、ベースの村上薫さん、ドラムスの幹治さんの4人でした。

チェックメイツはインストゥルメンタルバンドで、このバンドがザ・モップスの前身となりました。

鈴木ヒロミツもボーカルとして参加

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チェックメイツに、幹治さんの兄である鈴木ヒロミツさんがボーカルとして加わり、本格的にバンド活動を開始することとなりました。次第に曲は、黒っぽいロック(ブルースロック)を目指すように変化していきました。

ホリプロと契約し、ザ・モップスとしてデビュー

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1967年チェックメイツとして都内のゴーゴー喫茶などで活動している時にスカウトされ、ホリプロと契約することとなりました。その年の11月に、ザ・モップスとしてビクターからシングルデビューを果たしました。

ザ・モップスというバンド名の由来について「(メンバーの)頭髪がモップみたいだった」「人々の心を音楽でモップのようにきれいにしてあげたい」と鈴木ヒロミツさんは説明しています。

1967年に「朝まで待てない」でデビュー

1967年11月にザ・モップスはビクターから「朝まで待てない」でデビューを果たしました。当時アイドル的に人気だったグループサウンズとは一線を画しており、ジャズ喫茶や米軍キャンプなどで演奏していました。

1971年「月光仮面」が大ヒット

デビュー以来、なかなかヒット曲に恵まれなかったザ・モップスでしたが、1971年に発売した「月光仮面」は大ヒットとなり、ザ・モップスの代表曲のひとつとなりました。

元々はステージの時間つぶしのように演奏していた曲でしたが、コミカルな曲調が評判となり、「月光仮面」でザ・モップスの名を多くの人が知ることとなりました。

1974年5月に解散

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「月光仮面」のヒット以降も、ザ・モップスは日本のロックの草分けとして若者から支持を受けてきました。しかし、当時のフォークブームの影響もあり、ロックバンドとしての活動に限界を感じるようになりました。

そして、1974年5月にザ・モップスは解散しました。解散後、星勝さんはTV番組などの音楽で、鈴木ヒロミツさんは俳優やタレントとしてそれぞれ活躍するようになっていきました。

鈴木ヒロミツの現役時代の動画、歌

鈴木ヒロミツさんの現役時代の歌声は、今でも動画等で聴くことができます。ザ・モップス時代の曲は現在でも海外のロックリスナーから人気があるというくらい、時代を超えても色褪せない魅力を持っています。

また、鈴木ヒロミツさんがソロで歌った曲はドラマなどでも使われていたこともあり、多くの方の記憶に残る名曲となりました。

ザ・モップス最大のヒット「たどりついたらいつも雨ふり」

「たどりついたらいつも雨ふり」は、1972年に発売されたザ・モップスの12枚目のシングルです。この曲は吉田拓郎の提供で、約14万枚を売り上げ、ザ・モップス最大のヒット曲となりました。

その後、吉田拓郎がセルフカバーで歌った他、多数のアーティストがカバーして、多くの方に愛された曲となりました。

鈴木ヒロミツのソロデビュー曲「でも、何かが違う」

この曲は1975年に発売された、鈴木ヒロミツさんのソロデビュー曲となりました。ドラマ「夜明けの刑事」の主題歌となった曲ですので、ドラマと合わせて記憶に残っている方も多いかもしれません。

鈴木ヒロミツは俳優やソロ活動など様々な所で活躍していた!

ザ・モップスのボーカリストとして活躍した鈴木ヒロミツさんでしたが、バンドの解散後は個人としての活動を行ってきました。俳優業やソロでの歌手活動などで多くの人の記憶に残ることとなりました。

ドラマ「夜明けの刑事」で刑事役として出演!

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鈴木ヒロミツさんは俳優としてもテレビドラマや映画に出演しています。中でも1974年から1977年に放送されたドラマ「夜明けの刑事」に出演したことで、俳優として有名になりました。

「夜明けの刑事」の中では三枚目のムードメーカー的存在の刑事を演じ、坂上二郎さん、石立鉄男さん、石橋正次さんらと共演しています。

ドラマの主題歌「でも、何かが違う」も担当

鈴木ヒロミツさんは、ドラマ「夜明けの刑事」の主題歌である「でも、何かが違う」を歌いました。マチ・ロジャースさんが作詞作曲したこの曲は、ドラマでの演技とともに人々に印象づけられることとなりました。

アニメ「ヤットデタマン」のエンディングも担当

1981年から1982年に放送されたアニメ「タイムボカンシリーズ・ヤットデタマン」では、エンディングテーマである「ヤットデタマン・ブギウギ・レディ」を担当しました。

この歌のレコーディングの時には鈴木ヒロミツさんはなかなか上手く歌うことができず、ライブの時のようにハンドマイクを使ってOKを出したという話が残っています。

「モービル石油」のCMでは「のんびりいこうよ」が流行語に!

俳優としての鈴木ヒロミツさんの代表的な出演作品として、1971年に放送された「モービル石油」のCMが挙げられます。このCMで鈴木ヒロミツさんは、ガス欠のクラシックカーを手で押す青年の役を演じています。

CMで使われた「のんびり行こうよ」という言葉が流行語となったこともあり、多くの人に記憶されることとなりました。

鈴木ヒロミツは食通家だった!本も出版していた!

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鈴木ヒロミツさんは、芸能界きっての美食家としての一面を持っていました。紀行番組のグルメリポーターとしても活躍したこともありました。

酒豪としても知られており、食への好奇心が旺盛な方だったようです。2002年には日本と世界各地の珍味・逸品を紹介した単行本「食わずに死ねるか!」を出版しています。

余命宣告を受けた後も、お酒や美味しい食べ物を楽しんでいたそうですので、鈴木ヒロミツさんにとって食は大切なものだったのかもしれません。

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