
鉄棒ぬらぬらとは?元ネタは葛飾北斎のペンネーム?画狂老人卍?
FGOにも出てくる「鉄棒ぬらぬら」の元ネタとは、葛飾北斎が春画を描く際のペンネームで、代表的な作品が「蛸と海女」です。彼には他にも「画狂老人卍」と名乗ったりもしています。また、そんな「鉄棒ぬらぬら」に対する海外の反応はどうだったのでしょうか。
目次
[表示]FGOにも出てくる鉄棒ぬらぬらとは?元ネタは葛飾北斎のペンネーム?
FGOとは、「フェイトグランドオーダー」というスマホ専用のRPGのことを指します。
ここではこのFGOにも登場する鉄棒ぬらぬらの元ネタについてまとめてみました。
由来や意味は?元ネタは葛飾北斎のペンネーム?
「鉄棒ぬらぬら」の元ネタは葛飾北斎のペンネームです。葛飾北斎と言えば学生時代に教科書で作品や名前を見かけたことがある人も多いかと思います。
この葛飾北斎は数々のペンネームを持っているのですが、その中の一つに「鉄棒ぬらぬら」というものがあります。この名前は春画を描くときの裏名義として利用していたようです。
FGOでの鉄棒ぬらぬらとは?相棒はアビー?
FGOのイベントで登場した「鉄棒ぬらぬら」とはお栄さん(葛飾北斎の娘の葛飾応為)とその相棒のアビーちゃんのサークル名のようです。
FGOで使用された「鉄棒ぬらぬら」の元ネタについては2chでも話題になっていました。
葛飾北斎はどんな人物?他のペンネームは「画狂老人卍」?
ここでは葛飾北斎がどのような人物だったのかについてまとめてみました。
葛飾北斎は変態すぎる絵師だった?引越しとペンネームの変更回数がすごい?
葛飾北斎は1760年~1849年に生きていた人物で、江戸時代中期の浮世絵師です。葛飾北斎の浮世絵は世界中で評価されています。
フランスの作曲家のクロード・アシル・ドビュッシーが葛飾北斎の浮世絵を見て交響詩「海」を作ったり、オランダの画家のフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが友達に見せてまわったりなどの逸話があります。
葛飾北斎は、かなり変わった性格で引っ越し回数は93回、ペンネームの変更は30回にも及びました。また料理はせず、今で言うコンビニご飯で生活し、その包み紙と失敗作の紙のゴミの中で一日中描いていました。
葛飾北斎は殿様の呼び出しも無視?
葛飾北斎は偉いお殿様に呼ばれたこともあったようですが、呼び出しを無視し、外出せずにコタツに潜り込んだまま家から一歩も出ない生活を送っていました。
そのため、しびれを切らしたお殿様が葛飾北斎の家に迎えに来ても同行を拒否したため、ついに将軍様にまで呼ばれることになりました。
葛飾北斎は将軍様の前でニワトリの足に赤い絵の具を塗り、その場を歩かせて「はい、これモミジ!」と言ってそのまま家に帰宅しました。
葛飾北斎は上昇志向がすごかった?
オランダのライデン国立民族学博物館において、長らく作者不明とされていた日本伝来の水彩画6枚が、シーボルトの目録により葛飾北斎の直筆であることが確認されました。
この水彩画からは葛飾北斎が66歳以降に新しい西洋の文化に触れて興味を持って挑戦したということが分かります。また晩年、ガラス絵や銅版画なども研究し、試みていたようで上昇志向がすごかったようです。
死ぬ88歳まで絵を書き続けた?
そんな葛飾北斎は死ぬまで絵を書き続け、燃え尽きるように亡くなりました。弟子でもあった娘の応為(おうい)も父親の死を見届けたあと消息不明となりました。
葛飾北斎のその他のペンネームは画狂老人卍?時代先取りと話題に
西洋医学を日本へと伝えたドイツ人の医師である、シーボルトが持ち帰ってオランダにあるライデン国立民族学博物館に所蔵されていた絵画6枚が、同博物館の調査で、葛飾北斎の肉筆画であることが分かりました。
このニュースを受けて、葛飾北斎のその他のペンネームでもある「画狂老人卍」に注目が集まりました。そしてペンネームに「卍」と入れてしまう発想が時代の先取りだと話題になりました。
葛飾北斎が生涯に名乗ったペンネームを紹介
絵に記された落款から、葛飾北斎は生涯に30もの絵師名を使っていたことが判明しています。
以下に1778年に勝川春章のもとに弟子入りして初めて使った名前「春朗」から順に、一覧で葛飾北斎が名乗った絵師名を紹介します。
- 春朗(1778年~1793年)
- 宗理(1794年~1798年)
- 北斎(1799年~1819年)
- 為一(1820年~1833年)
- 卍(1834年~1849年)
葛飾北斎が名乗った絵師名と作風から、彼の生涯を上の5つの時代に分けられるとされています。
それぞれの時代に、百琳宗理、北斎宗理、北斎辰政、北斎、画狂人、画狂人北斎、可候、九々蜃、戴斗、月癡老人などの複数の画号が使われており、これを合計すると30にも上るのです。
葛飾北斎は春画用のペンネームをもう1つ持っていた?
葛飾北斎は鉄棒ぬらぬらの他に、「紫色雁高(ししきがんこう)」という名前でも春画を描いていました。
鉄棒ぬらぬらに比べてまともな名前に見えますが、雁高とは男性器の亀頭部分が立派なことを指す江戸時代の隠語で、紫色雁高という名前は明らかに下ネタです。
江戸時代後期に活躍した浮世絵師の渓斎英泉はこの紫色雁高という名前を譲り受け、自分が春画を描く時にはこの画号を使ったとされます。
葛飾北斎が書いたその他の春画の作品もすごい?
葛飾北斎は74歳になっても春画を手掛けていました。「萬福和合神」という本の表紙を手掛けたりなどもしています。二人が手を取り合い仲がよさそうで微笑ましい雰囲気の作品です。
この絵のモチーフは、江戸時代においてもしばしば画題となっていた「寒山拾得図」というもので、古代中国の変わり者の隠者であった寒山と拾得を描いています。
他にも漁師と海女のカップルを描いた「富久寿楚宇」(ふくじゅそう)という作品もあります。こちらも背景にセリフがびっしり書かれています。海女の黒い髪・漁師の着物のデザインなど色彩が鮮やかな作品です。
葛飾北斎の娘もやばかった?葛飾応為?共同作品は?
葛飾北斎には娘がおり、葛飾北斎の弟子となっていました。この娘も相当に変わっていた為、葛飾北斎と一緒にゴミの中で生活していました。
彼女も家事を一切せずに、お茶が必要な時は、近所の子供に入れさせてまで絵を描いていたそうです。葛飾北斎は自分の娘を「おい!アゴ!」と呼び続けていたため、そのうち娘は名前を葛飾応為(おうい)としました。
そんな共同作品が上記のものです。中央部分が葛飾北斎、周りの花の絵が葛飾応為だと言われています。
江戸のレンブラントとも呼ばれた葛飾北斎の娘
葛飾北斎の娘、応為の代表作とされているのが上の画像にある「吉原格子先之図」です。
当時の浮世絵には光と陰を表現するという技術がなく、明暗をわけて絵に奥行きを持たせるという応為の技術は独特のものでした。
応為は海外の油画などを研究して画法を勉強していたといい、「夜警」で知られるレンブラントの影響を受けたそうです。このことから、応為は「江戸のレンブラント」と称されることもあります。
葛飾北斎が描いた春画「蛸と海女」とは?
ここでは葛飾北斎が描いた春画である「蛸と海女」とはどのような作品だったのかについてまとめました。
「蛸と海女」は、鉄棒ぬらぬら先生だった時に描いた絵?
「蛸と海女」という作品は、「鉄棒ぬらぬら」の名義を使用している時に描いた絵です。
前の項目でも少し紹介しましたが、1820年頃に書かれた「喜能会之故真通」(きのえのこまつ)という艶本に掲載された葛飾北斎による木版画の一つです。2匹のタコと海女が描かれています。
この作品に先行して発表されている類似作品として、勝川春潮の艶本である「艶本千夜多女志」(えほんちよのためし)や北尾重政の艶本である「謡曲色番組」(ようきょくいろばんぐみ)などが知られています。
葛飾北斎が描いた「蛸と海女」のタコはメスだった?
「蛸と海女」という作品に出てくるタコは実はメスなのです。タコの吸盤について見てみると、オスは吸盤の大きさが不揃いなのに対して、メスは大きさが揃っていて綺麗に並んでいます。
絵のタコの吸盤に注目してみると吸盤が均一に配置されていることが分かります。このことからメスのタコが描かれていることが判明しています。
またこの作品はグッズもいくつか作られており、絵葉書・エコバック・手ぬぐいなどがあります。
葛飾北斎が書いた絵の後ろのセリフもやばい?
「蛸と海女」は絵の後ろにびっしりと文字が書いてあるのですが、これは葛飾北斎自らが考案したタコと海女のセリフです。以下にセリフの詳細を載せておきますので読まれる際はご注意ください。
大蛸:いつぞハいつぞハとねらいすましてゐたかいがあつて、けふといふけふ、とうとうとらまへたア。てもむつくりとしたいいぼぼだ。いもよりハなをこうぶつだ。サアサア、すつてすつてすいつくして、たんのふさせてから、いつそりうぐうへつれていつてかこつておこうか。
女:アレにくいたこだのう。エエ、いつそ、アレアレ、おくのこつぼのくちをすハれるので、いきがはずんで、アエエモイツク、いぼで、エエウウ、いぼで、アウアウ、そらわれをいろいろと、アレアレ、こりやどうするのだ。ヨウヨウアレアレ、いい、いい。いままでわたしをば人が、アアフフウアアフウ、たこだたこだといったがの、もうもうどふして、どふして、エエ、この、ずずず
大蛸:ぐちやぐちやズウズウ、なんと八ほんのあしのからミあんばいハどうだどうだ。あれあれ、なかがふくれあがつて、ゆのやうないんすいぬらぬらどくどく
女:アアモウくすぐつたくなつて、ぞろぞろとこしにおぼへがなくなつて、きりもさかひもなく、のそのそといきつづけだな。アア、アア
小蛸:おやかたがしまふと、またおれがこのいぼでさねがしらからけもとのあなまでこすつてこすつてきをやらせたうへですいだしてやる
(引用:ニコニコ大百科(仮))
鉄棒ぬらぬら先生の「蛸と海女」はたくさんの芸術家に模倣されている?
「蛸と海女」という作品は、江戸時代における代表的な春画として著名です。そして、その印象深い作風から何人もの芸術家によって模倣されています。以下に模倣された作品を挙げます。
- 北斎の一生を描いた田中裕子さん・緒形拳さん主演・新藤兼人さん監督の1981年の映画『北斎漫画』において、この絵が実写で再現されています。
- 寺岡政美さんは、2001年の彼の画集「Waves and Plagues」の中の一枚 「Sarah and Octopus/Seventh Heaven – ウェイバックマシン」に蛸と海女を描きました。
- デイヴィット・レイティさんは同じ英題(The Dream of the Fisherman’s Wife – ウェイバックマシン)で絵を模倣しました。彼によると実際の絵の題名は「Dancing With Katsushika Hokusai」だったと主張しています。
- 芸術家であるNiklas Janssonさんによって空飛ぶスパゲッティ・モンスターをフィーチャーしたパロディー画像が作られました。
- 漫画雑誌であるCommies from Mars: The Red Planetの中にはジョン・パウンドさんにより描かれた、火星人の襲来に対したパロディーの絵があります。
- 1990年に製作されたアメリカの映画「ヘンリー&ジューン/私が愛した男と女」において、この画像が最初に登場します。この映画には性的な表現があるため、アメリカ合衆国において、17歳未満お断りのレーティングとされた最初の映画となりました。
- 会田誠さんの「地球防衛少女イコちゃんvsキングギドラ」(The member of the giant Ico Chan vs. King Gidora)と、「巨大フジ隊員vsキングギドラ」(The Giant Member Fuji Versus King Gidora)
鉄棒ぬらぬらは漫画にも登場していた?葛飾北斎への海外の反応は?
ここでは漫画「磯部磯兵衛物語~浮世はつらいよ~」にも登場する「鉄棒ぬらぬら」についてと、「鉄棒ぬらぬら」こと葛飾北斎に対する海外の反応はどのようなものかについてまとめました。
鉄棒ぬらぬらは漫画「磯部磯兵衛物語~浮世はつらいよ~」にも登場する?
「磯部磯兵衛物語~浮世はつらいよ~」とは、仲間りょうさんによって、「週刊少年ジャンプ」で連載されていたギャグ漫画です。
この漫画での「鉄棒ぬらぬら」は、世界的な浮世絵師が春画を描く際のペンネームです。
葛飾北斎は「神の春画」への道半ばにして帰らぬ人となりました。しかしその後、「神の春画」への夢を諦めきれなかったため、お北ちゃんという孫の体を乗っ取りました。
鉄棒ぬらぬら師匠、葛飾北斎に対する海外の反応は?
葛飾北斎は「略画早指南」(りゃくがはやおしえ)という絵を簡単に描くための手引き書も残しており、この指南書をみた海外の方たちはとても感動しているようです。以下にコメントをいくつか挙げます。
- まさか北斎が絵の書き方の指南書を残していたとは! 台湾
- 素晴らしい情報を紹介してくれてありがとう。
見てるだけで楽しいし、本当に参考になる! ドイツ- ホクサイの作品には緻密な幾何学的要素があるんだね。イタリア
- ウォー、こんなクールな指南書が存在してたのかー! イタリア
(引用:パンドラの憂鬱)
FGOにおける葛飾北斎
FGOにおける葛飾北斎のプロフィールをまとめました。かわいい女の子の姿で登場します。
- イラスト 黒星紅白
- 担当声優 ゆかな
- キャラクター詳細
とてもじゃねえが北斎には見えねぇって?
めんこい姿で悪かったなァ、事情を知りたきゃ
おれの話しに付き合いナ!(引用:Game With)