即身仏とは?自らミイラになる僧侶たちの過酷な修行と失敗例エンタメ

即身仏とは?自らミイラになる僧侶たちの過酷な修行と失敗例

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海向寺の円明海上人【山形県】

円明海上人は当初、天台宗系の羽黒山で修行をしたのちに山伏となりましたが、各地で活躍し大変人気のあった鉄門海上人に憧れ弟子入りし、鉄門海上人と共に、諸国を巡り修行を積んだとされます。

円明海上人はその後海向寺の住職も務め、1822年5月8日、55歳で鉄門海上人より7年早い入定を果たします。

最後はたっての希望で海向寺で入定をしたとのことです。同じ海向寺に安置される忠海上人と同様、ロウソクと蓬の芯だけにしたものによる燻製法で乾燥されましたが、円明海上人はその上にかき渋を塗られています。

海向寺の忠海上人【山形県】

忠海上人は本明海上人の甥にあたり、本明海上人に憧れ注連寺に入門したとされます。修行を積み、海向寺を再興させました。1753年湯殿山の仙人沢で木食行に入り、1755年2月21日58歳で入定を果たします。

忠海上人の即身仏は黒ずんでいると言われますが、地下石室における土中入定で遺体が乾いておらず、注連寺で蝋燭と蓬の芯だけにしたものを線香代わりにして、いぶして乾燥されたのです。

注連寺の鉄門海上人【山形県】

鉄門海上人は、武士を殺し、注連寺へ逃げ込んだともいわれています。弟子に円明海上人と天竜海上人がおり、その天竜海上人の弟子が鉄竜海上人になります。

空海と同じく62歳での入定を目標に掲げ、3年間五穀を絶つ修行を行ったのち、1829年12月8日に予定通り息を引き取りました。その後上人の遺体は埋葬されたのち発掘され、即身仏として完成したのです。

悪い眼病が流行っていた当時、自らの左目をえぐり出し、川に捨て竜神に祈願、平癒したという逸話が残っています。学術調査の結果、左目は生前に摘出されていたと判明しています。

蔵高院の光明海上人【山形県】

光明海上人は1854年に入定しましたが、ゆかりの地が廃村になったため、上人の功績などそれ以外の情報は無しに等しいとされています。その後、遺体が発掘されたのは1978年(昭和53年)になってからでした。

100年後に掘り出すようにとの遺言をもとに、予備調査と試掘調査を経て本格的に発掘されますが、江戸時代に入定した即身仏の調査として、全国で初の試みでした。

遺骸は124年という年月のためにミイラ化しているのは一部に過ぎませんでしたが、新潟大学によって化学処理を施されたのち、光明海上人の願い通り即身仏として仕上げられました。

明寿院の明海上人【山形県】

明海上人は眼病により18歳で失明、21歳で出家します。その後湯殿山大日寺に入門し、病気平癒の祈祷が評判となりました。祈祷を続けたのち即身仏になることを決意、1863年44歳の時に入定しました。

明海上人は子孫の松本茂氏宅に安置される日本で唯一の個人蔵の即身仏です。長い間しまわれたままの即身仏でしたが、祈祷師によってこの地で人を助けたいと望んでいると伝えられます。

このことから新潟大学によって補修されたのち、現在の明寿院に安置されました。

南岳寺の鉄龍海上人【山形県】

鉄龍海上人は即身仏を目指し、数々の厳しい修行を成し遂げたものの、途中で病気になり修行を中断、埋葬の3年後に掘り出して即身仏にするよう遺言を残し、1878年62歳の時に没します。

旧刑法が制定された影響で、即身仏作りが法律に触れるため、没年を明治元年と偽り、信者たちが秘密裏に発掘、ミイラ作りを行ったといわれます。

脳や内臓を取り出した後、石灰が詰められるというミイラ方式で作られた即身仏であり、湯殿山系で最後の即身仏になります。

西生寺の弘智法印【新潟県】

現存する即身仏の中では最古のものとなり、入定したのは今から約640年前の鎌倉時代です。写真に写っているのは江戸時代に作成されたレプリカで、出開帳という全国の秘宝を集めたイベントのために作られました。

このレプリカの木像は、本物の代わりに出開帳に出展され、紛失や損傷から守る役割を果たしました。弘智法印の魂を入れ、開眼しているため、こちらへお参りすることで十分ご利益があるとされています。

観音寺の全海上人【新潟県】

全海上人は1627年25歳の時に両親、その後妻子を相次いで失ったことで世の無常を感じ、湯殿山大日坊に出家、仏門に入ります。湯殿山で18年間修行を積み、故郷に戻りました。

全海上人は自ら死期を悟ると即身仏になることを決意し、その後木食の修行に入った後、1687年1月8日85歳で入定します。

観音寺の仏海上人【新潟県】

仏海上人は1903年(明治36年)に76歳で息を引き取った後、土中深くの石室に木棺に納められた状態で埋葬されました。

仏海上人が即身仏を志した時には旧刑法が成立し、即身仏は法に触れるものとして禁止されていたため、死後に埋葬後、発掘という手順を踏んだものです。

死後数年で掘り出すようにとの遺言もありましたが、墳墓発掘禁止令に阻まれ、1961年(昭和36年)に新潟大学の調査研究が入るまで、発掘は為されませんでした。明治に作られた、最後の即身仏になります。

真珠院の秀快上人【新潟県】

秀快上人は1769年に50歳の時に入定を決意し、空海の入定年齢と命日に合わせた1780年3月21日、62歳の時に裏山の石室に入定しました。勉学に励む学問僧の即身仏としては日本で唯一となります。

入定の60年後に開棺が行われた際は良好なミイラ状態でしたが、その後の粗雑な扱いのために急速に状態が悪化、平成3年の学術調査の際にはバラバラの遺骨となっていました。

秀快上人の即身仏は復元補修が為されたのち、ふたたび石棺に納められました。

總持寺の無際大師【神奈川県】

石頭希遷は無際大師の号でも知られる中国の高僧で、曹洞宗など禅宗宗派の始祖の1人です。790年湖南省南岳で91歳で没し、死後に即身仏に作られました。以降、無際大師は数奇な運命をたどることになります。

1911年の辛亥革命で安置されていた寺が焼かれたところを救い出され、日本に運ばれることとなります。その後祀られた青梅市の寺が荒廃したことで、とあるツテから早稲田大学に移されます。

そして、曹洞宗の総本山である総持寺に1970年に安置され、現在に至ります。このように無際大師は幾多の危機に瀕しながらも、即身仏として生き続けています。

阿弥陀寺の弾誓上人【京都府】

弾誓上人は9歳でありながら自ら出家を志願し、20年あまりの修行を積みました。その後、諸国を巡って苦行を重ねた末、古知谷へ赴き念佛の道場、阿弥陀寺を開いたとされます。

弾誓上人は修行中の僧に頼んで岩窟を掘らせ、石龕に入定しました。その後1882年に掘り出し、即身仏となった弾誓上人を現在の石棺に収めたそうです。日本で最南の位置に存在する即身仏となります。

本堂には弾誓上人が自作、自身の髪を埋め込んだとされるご本尊が安置されていますが、現在もその髪が耳の周辺に残っているのを確認できます。

貫秀寺の宥貞法印【福島県】

宥貞上人は疫病に苦しむ人々を救うべく薬師如来の像を作り、その体内の石棺に入定しています。およそ300年前のことです。

即身仏としての状態が非常に良く、石棺に収められていた木棺もそのまま残っているとのことです。そのポーズも相まってか、微笑んでいるかのような愛らしい印象の即身仏です。

妙法寺の舜義上人【茨城県】

舜義上人の即身仏は撮影禁止で、写真は舜義上人が入定した阿弥陀の石仏になります。舜義上人は1686年に没した後、周囲が沼地だったことから、この阿弥陀仏の中に収められました。

その後80年あまりの時を経て、舜義上人が当時の住職の夢枕に立ったことから石棺を開けて見たところ、現れたのは即身仏となった上人の姿だったとのことです。

瑞光院の心宗行順法師【長野県】

心宗行順法師は火災で妻子を亡くしたことにより世の無常を感じ、地元の瑞光院で出家します。その後諸国を巡りますが、その時の出で立ちは頭には銅の笠、鉄下駄を履き鉄の錫杖を携えていたとされます。

その後地元に戻り妻子の17回忌を営むと、人々の安全を祈願し、新栄山に入定しました。

心宗行順法師は現在日本に残る即身仏の中で唯一、禅宗で修行した即身仏であり、長野県で唯一の即身仏でもあります。地元では大変信仰が厚く、博覧会の出展や調査団の申し入れなどに抗議があるほどだといわれます。

横蔵寺の妙心法師【岐阜県】

妙心法師は横蔵寺がある地元で生まれ、諸国を巡り修行をしたのち、現在の山梨県都留市で1817年に入定しました。

当初は入定した山梨県に安置されていましたが、1817年、遺族の要望で横蔵寺に移されたとのことです。

妙心法師が入定したのは36歳で、即身仏としては最年少となります。

海外のモンゴルで新しい即身仏が発見された

2015年1月、モンゴルで新たにチベット僧の即身仏が発見されました。入定したのが最新なのではなく、即身仏として発見されたのが最新ということになります。蓮華座で足を組んだ瞑想時の状態での発見でした。

この僧は死後200年が経過していると調査の結果が出ていますが、仏教の専門家の主張によると、この僧は未だ生きており、深い瞑想状態にあるとのことです。確かに、静かに瞑想しているかのような姿です。

この即身仏は、ある男が売りさばこうと持ち出したところを発見されました。寒冷で乾燥したモンゴルの気候はミイラ化に最適なのでしょう。保存状態も良好で、まるで生きているかのような状態でした。

即身仏の他にも捨身の修行があった

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厳しい修行を行うことで人々の幸せを願った即身仏ですが、世のあらゆる苦悩から人々を救いたいという強い意志のもと、我が身を捧げた究極の捨身行といえます。

仏教では即身仏の他にも人々を救わんと自己を差し出す捨身行が存在します。捨身行とはどのようなものなのでしょうか。

捨身行とは?

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自らの身体を犠牲にして供養を行ったり、他の生き物を救うために身を布施する修行を行うことを意味します。これは自己犠牲の精神を説いたものであり、自らを捧げることは最上であり、究極の布施にあたるといいます。

釈迦の前世、薩埵王子が飢えた虎に身を投げ出して命を救った捨身飼虎の話や、尸毘王が自身の肉を与え、鳩の命を救ったという話、薬王菩薩が仏の供養に際し、自らの身を焼く焼身供養を行った話などが代表的です。

捨身の方法として、焚身(焼身)、入水、投身、断食、頸縊(首を吊る)などがあげられ、これらを行うことで仏道を求めたといわれます。

単身海に渡る修行も

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補陀落渡海とは、補陀落浄土を目指し、小船で単身渡海する修行を指します。補陀落とはインドの南部にあるという山で、観世音菩薩が住むと伝えられています。

観音信仰では補陀落山での往生を願うことから行われた修行だといわれます。自ら身を投げ出すことで、人々を救うという捨身行のひとつとされます。

その方法とは、修行者を一人箱に入れ、出られないよう釘を打ちます。それを船に乗せ、30日分の食糧を積んで出発します。その後、伴走船によって二度と戻ることが無いよう綱を切り、死出の旅へと出るのです。

選ばれし者のみに許された究極の修行

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これらの即身仏をはじめとする捨身行は壮絶なもので、大変な強い意志と決意が必要になり、並大抵の気持ちでは出来ないものなのです。

自らの身体や命を投げうって他の者の救済を願う心は、同情などとは比較にならず、深い信仰心と慈悲を持つ高い志を持った者しか許されない究極の修行の形と言えるのです。

即身仏のこれから

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即身仏になることとは、修行者が想像を絶する数多の苦行を経たのちに成し得る究極の修行の形なのです。そこに至るにはたくさんの失敗もあり、願いを成し遂げることが出来なかった者もいます。

即身仏とエジプトのミイラでは、ともに干からびた人間の遺体という共通点はありますが、本人や周囲の人々の思いに違いがあります。

衆生を世の中の苦しみから救いたいと願い、自らの身を捧げた即身仏は人々にとって意味のあることだったのです。これからも多くの人たちの信仰を集め、心のお守りとして永遠に生き続けることでしょう。

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