比嘉和子の現在は?関係したアナタハンの女王事件の概要とその後 エンタメ

比嘉和子の現在は?関係したアナタハンの女王事件の概要とその後

戦後日本を騒然とさせた「アナタハンの女王事件」は、南海の孤島にて一人の女性比嘉和子を巡って30人以上の男達が殺し合いをした事件です。和子はその後国内で人気となりブロマイドが売れまくっています。妊娠や子供の噂、事件をモチーフにした映画化なども合わせてまとめます。

目次

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アナタハンの女王事件の比嘉和子とは

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比嘉和子とは、戦後間もない日本で一躍時の人になった女性です。そのきっかけとなったのは1945年の終戦間際から1950年にかけて発生した「アナタハンの女王事件」というミステリアスな事件でした。

今回はこの事件の主役とも言える「アナタハンの女王」比嘉和子に焦点を当ててまとめていきます。

比嘉和子のアナタハンの女王事件の概要

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まずは、戦後に比嘉和子を一躍有名にし一大ブームを巻き起こした「アナタハンの女王事件」の概要についてまとめていきます。

戦時中この島に取り残された32名の男達は、島内でたった一人の女性比嘉和子を巡って凄惨な殺し合いを行なったと言われています。混乱期の孤島での出来事であり、真相は多くの謎に包まれています。

現場となった「アナタハン島」とは

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事件の現場となった「アナハタン島」は北マリアナ諸島に属する、サイパン島から北117キロほどに位置する、東西約9キロ、南北に約3.7キロ、最高地点は海抜788メートルほどの小さな島です。

事件当時の島内にはバナナやタロイモが自生し、椰子の栽培も行われ、ヤシガニや小動物、海には魚など食べられる生き物が豊富に生息していた為、島に残された人々はそれほど食料には困らなかったと言われます。

アナタハンの女王事件が起こった時代背景

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アナタハンの女王事件が発生した戦争末期の1945年頃は、アナタハン島がある北マリアナ諸島は日本軍とアメリカ軍の激戦の真っ只中にありました。

この地域の島々は第一次世界大戦終戦時に日本が敗戦国ドイツから割譲(委任統治権の移譲)された地域で、以降日本人による開拓や入植が行われていました。戦時には軍事利用もされ、米軍の攻撃対象となっていました。

旧日本軍のアナタハン開拓

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アナタハン島もまた、第一次大戦終戦時に日本の植民島となっており、旧日本軍や内地企業によって盛んに開拓が行われていました。

南洋興発株式会社について

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北マリアナ諸島に多くの内地企業が進出しました、その後の世界恐慌の煽りを受けてその多くが倒産し、派遣された社員達1000人近くがマリアナ諸島に取り残され路頭に迷うこととなりました。

彼らを救済すべく内地資本により1922年にサイパン島に設立されたのが「南洋興発株式会社」です。比嘉和子の夫比嘉正一はこの企業に勤め、妻と共にアナタハン開拓事業に参加する事になります。

比嘉和子と32人の男が島に渡った経緯

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比嘉和子は夫の正一の転勤に伴ってアナタハン島へと移住しています。この時正一が下につく事になる上司比嘉菊一郎(姓が同じなのは偶然)とその妻が既に原住民を労働力として椰子畑の経営事業を始めていました。

その後、戦争が激化すると菊一郎は妻と子供達をサイパンへと疎開させ、原住民達はアメリカ軍の船に乗って移住。正一はサイパン島に残した妹を迎えに行ったあと行方不明、和子と菊一郎が島に二人残されます。

1944年6月、マリアナ諸島への輸送任務についていた徴用された漁船3隻が米軍機の攻撃で撃沈され、軍人や関係者からなる31名の男達がアナタハン島へと泳ぎついています。これが事件までの経緯です。

アナタハンの女王事件の関連人物

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最初に、アナタハンの女王事件に関連する主要な人物達を紹介します。

比嘉和子(画像あり)

アナタハンの女王事件の主人公ともいうべき女性比嘉和子は沖縄出身で1924年8月5日生まれ、1939年16歳の時に兄を頼ってサイパン島へと移住します。

やがて近くのパガン島へと移りカフェで働き、そこで当時25歳の南洋興発社員の比嘉正一と出会って結婚します。1944年正一の転勤に伴ってアナタハン島へと移住します。

比嘉和子の夫・比嘉正一

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比嘉和子の夫である比嘉正一も沖縄出身で南洋興発の社員でした。勤務地パガン島のカフェで女給として働いていた和子と出会って結婚します。1944年に辞令を受けてアナタハン島へと転勤します。

比嘉菊一郎

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比嘉菊一郎もまた沖縄出身の南洋興発の社員でした。1944年に比嘉和子と正一がアナタハンに移住した当時、夫婦でアナタハン島にて原住民を労働力として使い、椰子農園の経営を任されていました。

アナタハンの女王事件の詳細

謎が多いアナタハンの女王事件ですが、生存者らの証言により大まかな出来事は明らかになっています。当時、アナタハン島で一体何が起こったのか、わかっている限りの事を時系列順にまとめていきます。

第二次世界大戦に日本が敗戦した知らせが信じられず島に残留

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1945年8月に日本は連合国に無条件降伏し、第二次世界大戦は終結します。

しかし南海の孤島アナタハンに取り残されていた比嘉和子と30名の男達(この時点で2人が既に行方不明となっていた)は、戦争終結の事実を米軍から勧告されても信じようとせず、島に残留し続けます。

B-29墜落機から拳銃を手に入れた2人の軍人

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終戦からちょうど1年ほどが経過した1946年8月、相変わらず党内で自活を続けていた比嘉和子と男達が、島内に墜落していた米軍の戦略爆撃機B29の残骸を発見します。

その中から缶詰などの食料の他に4丁の拳銃を発見します。拳銃は錆つき既に作動しなくなっていましたが、海軍軍人2名がそれを分解して組み立て直し、2丁の拳銃を手にれます。

この2丁の拳銃はそのまま海軍軍人2名の所有となった事で、この二人の男が島内で絶対の権力を持つようになります。女性の体に飢えていた男達は拳銃で比嘉和子を脅して抱くようになりました。

不慮の事故で一人の男が転落

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拳銃が発見されて以降、島内の雰囲気は殺伐としたものになります。そんな中で、ある男性がジャングルの探索中に木から転落死します。

死亡した男性は、拳銃を所持する海軍軍人のうちの一人と折り合いが悪く普段から敵視しあっていました。その為、この死亡事故の真相は、軍人達が拳銃で男を脅して転落させた殺人なのではないかと疑います。

仲間割れで2人の男が死亡

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疑心暗鬼になった島内の男達の間では、些細な事で揉め事が頻発するようになります。そうした中の1947年秋頃、拳銃を所持する二人の海軍軍人が酒に酔って喧嘩となり、一人がもう一人を射殺してしまいます。

さらには、島内の争いを避けるためとして年長の軍人の提案で和子と婚姻関係にあると見せかけていた菊一郎は、片割れの軍人が射殺された事でパワーバランスが崩れ、自分も危ないのではと感じるようになります。

そこで菊一郎は、先んじて、奪った拳銃を使って夜釣りをしていた軍人を射殺してしまいます。比嘉和子と菊一郎は口裏を合わせて「軍人は釣りの最中に誤まって海に落ちて死んだ」と証言します。

菊一郎が殺害される

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さらに、その数ヶ月後には菊一郎も殺害されます。この時比嘉和子は菊一郎を殺害した元コックの男と口裏を合わせて「夫は食中毒で死んだ」と言っています。

ここで、先の軍人の殺害と、その殺害者である菊一郎の殺害は、共に比嘉和子が裏で男達に殺させる様に仕向けていたのではないか?との疑いが生じます。

元コックの男が行方不明に、海鳳丸の水夫長と曙丸の水夫長も死亡

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それからさらに1年後1949年に入って、今度は菊一郎殺害以降比嘉和子と男女関係になっていた元コックの男が行方不明となります。

さらに漁船海鳳丸の水夫長が崖から転落して死亡。曙丸の水夫長も食中毒で死亡するなど不審な死が相次いで起こります。この時点でアナタハンにいる男は23名にまで減ってしまいました。

比嘉和子が次第に疎まれる存在へ

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比嘉和子は男達から性の対象として見られ奪い合いの対象となっていましたが、和子の相手となった男が相次いで死亡していく事に男達は慄き、次第に和子がいるとこれからも死亡者が出ると考え和子を疎む様になります。

比嘉和子がアナタハン島から脱出した理由

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1950年6月、比嘉和子はアメリカ軍の船に救助される事でアナタハン島からの脱出に成功します。比嘉和子が男達に先んじて島から脱出した理由についてはいくつかの説が存在します。

脱出理由①処刑会議説

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比嘉和子の相手となる男達が次々と殺害される事に恐怖を感じた残りの男達は、和子が島にいる限りこの後も被害者が続出すると考え、集まって会議し比嘉和子を処刑してしまう事を決めたと言われています。

しかし、男達の中の一人がこの計画をこっそりと和子に伝え、それを聞いて驚いた和子は脱出を決意、密林の中に分け入って逃亡して海岸にたどり着き、沖にアメリカ軍の船を見つけて救助を求めたとされます。

脱出理由②男の暴力説

比嘉和子の島内での最後の相手だった25歳の男が、和子に対して激しい暴力を振るっており、それにたまりかねた和子が脱走したという説もあります。

その他にも和子は菊一郎からも暴行を受けていたとの情報もあり、男達に代わる代わる性の対象とされた和子の立場を考えると信ぴょう性のある説だと言えるでしょう。

比嘉和子がアナハタン島から脱出

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比嘉和子は逃亡するために密林に分け入り、その後33日間に渡って逃走を続けたと言います。そんな中、沖にアメリカ軍の船を見つけた和子は木に登ってパラシュートの布を広げて振り救助を求めました。

こうして1950年6月、ついに比嘉和子は救出され6年以上に及ぶアナタハン島でのサバイバル生活は幕を閉じる事になりました。

アナタハンの女王事件のその後

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アナタハンの女王事件のその後、日本にようやく帰還できた比嘉和子と生き残った男達のその後の顛末についても見ていきましょう。

「曙丸」の船長と比嘉和子の最後の夫が死亡

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比嘉和子が米軍船に救助された後も、生き残りの男達はしばらくの間島内でのサバイバル生活を続けています。

そんな中で漁船「曙丸」の船長が怪我が元で命を落とし、和子の最後の相手であった25歳の男も病死したとされます。リンチにあって死んだとの噂もありますが真偽は不明です。

19名が投降を決め、全員が救助される

比嘉和子救出からちょうど1年が経過した1951年6月、残された19名の男達も救助されます。

長らく米軍からの説得に応じようとしなかった男達でしたが、男の一人が米軍によって届けられた家族からの手紙を本物だと確信して一人先んじて投降。この男の説得に応じて残りの男達も投降し、救助されます。

比嘉和子が女優になり、ブロマイドが爆発的に売れる

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比嘉和子や他の男達によってアナタハン島での出来事が語られると、和子は一躍時の人となって「アナタハンブーム」を巻き起こします。

島をテーマにした芝居なども多く作られ、その中の一作に比嘉和子本人も出演します。和子のブロマイドは爆発的に売れ、久しぶりにあった時の挨拶がわりとして「アナタハン」という言葉が使われる程だったそうです。

その後比嘉和子はストリッパーを経てカフェ・アナタハンを開業

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アナタハンブームが落ち着きを見せ始めると、人々の好奇の目に晒されながら比嘉和子は場末のストリップ劇場に出演するようになります。

そのあとは、故郷の沖縄に帰り「アナタハン」という名前の小さな食堂を開いています。

1958年、比嘉和子は子連れ男性と再婚

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沖縄に戻って数年が経った1958年、比嘉和子は34歳になっていました。この頃に二人の子供がいる男性と知り合って結婚、たこ焼き屋を営むなどし、1974年に亡くなるまで幸せな余生を送ったとされています。

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