「そうか、あかんか。一緒やで」悲劇の介護殺人事件の詳細とその後 社会

「そうか、あかんか。一緒やで」悲劇の介護殺人事件の詳細とその後

ネット上でしばしば見かける「そうか、あかんか」というフレーズですが、実は介護に纏わる悲しい事件が元ネタになっています。当時大きな反響を呼び、裁判官も涙したこの事件の詳細と、その被告・片桐康晴氏のその後について追っていきます。

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そうかあかんかの元ネタの京都認知症母殺害心中未遂事件とは?

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この事件は、当時54歳無職の男性・片桐康晴氏が、認知症の母親を首を絞めて殺害し、自らも命を絶とうと無理心中を図ったものです。

事件の際、死を覚悟した片桐親子のやり取りが話題となり、現在もコピペとして人々の目に触れるものとなっています。

地裁が泣いた介護殺人と言われている

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裁判では供述の内容から、片桐氏の母親への愛情と献身的な介護の様子、そして経済的・精神的に追い詰められていく過程を窺い知ることができます。

被告である片桐氏本人も裁判中に肩を震わせ、涙を拭う姿が見られましたが、裁判官も目を赤くして言葉を詰まらせる場面がありました。

悪意や恨みではなく、困窮した生活の果てに起きたこの殺人事件。検察側の論告にも「哀切極まりない状況」「心情を察するに余りある」という同情的な言葉が用いられています。

2006年に片桐康晴が認知症の母を殺害し自殺を図るが未遂した事件

事件が起きたのは2006年2月1日未明、京都市伏見区桂川の河川敷。片桐氏は母親を殺害後、自らも首や腹などを刺して心中を図りましたが、通行人に発見されて一命を取り留めたのでした。

殺害の直前、「もう生きられへん。ここで終わりやで」と言う片桐康晴氏に、母親は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えました。

この時の母子のやり取りは、悲しいながらも親子の愛情と絆を感じさせ、人々の胸に深く突き刺さるものとして多くのメディアで報じられました。

現代のネットにおける「そうか、あかんか、いっしょやで」の使い方

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母子の愛情の深さと痛ましい結末のために、人々の心に残った「そうか、あかんか」というこの言葉。

ネット上ではコピペとして各所に貼られるようになりました。現在では、本来の意味合いとは少し違った形で使われていることもあるようです。

どのような時に使用されているのか

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現在では、例えば不人気に終わったアニメやゲームなどのファンが、似たような境遇の別作品のファンに対してこのフレーズを投げかける姿が見られます。

一見、不遇に終わった作品のファンへの同情や慰めに見えますが、実際には揶揄ったり煽ったりする意図で使われることが多いようです。

悲しい事件だっただけにネタとして茶化すことに批判の声も

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元が悲しい事件として話題になっただけに、面白半分に扱うことに不快感を示す人も多くいます。元ネタの詳細を知ったうえで、使いどころは慎重に考えたいネットスラングの一つです。

京都認知症母殺害心中未遂事件の時系列

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多くの人の涙を誘った本事件ですが、その詳細は一体どのようなものだったのでしょう。時系列を追って整理していきます。

1995年父親が亡くなり母親に認知症の症状が現れ始める

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片桐氏の母親に認知症の症状が現れ始めたのは、父親が亡くなった1995年頃からだそうです。それから事件が起こるまでの11年という長い年月、片桐氏は母親の介護を献身的に務めてきました。

2001年に伏見区のアパートに越し家賃半額で生活

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2001年に母子は伏見区のアパートへ引っ越します。4畳半と6畳の部屋で、家賃は本来6万円のところでしたが、親戚の厚意によって半額の3万円で住まわせてもらうことができました。

2005年頃に母親の認知症が悪化

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認知症の症状は2005年4月頃から悪化していきました。母親はおにぎりの包み紙を食べたり、「キツネがいる」と言って天井を叩いたりといった、危なげな行動が目立つようになります。

片桐氏が仕事で出かけている間に徘徊して、警察に保護されたこともあるといいます。母親は真夜中でも起きだすようになり、生活は昼夜が逆転するようになりました。この頃から片桐氏にも疲れが見え始めていました。

介護保険を申請し片桐康晴は仕事を辞める

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夏ごろからは介護保険を申請し、施設のデイケアサービスの利用を始めましたが、昼夜逆転の生活は戻りません。この時、片桐氏は工場に務めていましたが、介護と勤務の両立には限界がきていました。

7月頃から休職して介護にあたっていた片桐氏でしたが、「職場に迷惑をかけたくない」という気持ちが強く、9月には退職を決めました。この退職の経緯からも、片桐氏の真面目な性格が窺えます。

失業保険の給付が停まり生活保護も断られる

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退職後、片桐氏は自宅で介護をしながらできる仕事を探しましたが、再就職は難しい状況でした。3か月後(12月)には失業保険の給付もストップしてしまい、行政に助けを求めるも、良い結果は得られませんでした。

せめて生活を立て直すまでの期間だけでも生活保護を受給できないかと、片桐氏は社会福祉事務所へ相談に赴きました。しかし、そこで返されたのは「あなたはまだ働けるから」という断りの言葉でした。

生活が苦しくなるも人に頼らなかった

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行政の支援も受けられず、カードローンの借入も上限の25万円に達し、いよいよ生活は困窮していきます。片桐氏は苦しい生活の中でも母親の食事を優先し、一方で自分の食事は2日に1回にするほどの献身ぶりでした。

これほどまでに追い詰められながらも、片桐氏は親戚や友人にお金を無心したり、頼ることはしませんでした。

亡き父の「人に金を借りに行くくらいやったら、自分の生活をきりつめたらいいのや」「他人に迷惑をかけたらあかん」という教えが彼をそうさせたのでしょう。

2006年1月末に死を決意する

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とうとうアパートの家賃も払えなくなった1月、片桐氏は「命をそぐしかない」と心中を決意しました。この時の手持ちの現金はわずか7000円ほどだったといいます。

部屋をきれいに掃除し、親戚と大家に宛てた遺書と印鑑をテーブルに残して、最期の準備を進める間、片桐氏は何度も母親に「明日で終わりなんやで」と話しかけていました。

車いすの母を連れてアパートを後にするその背に負われていたのは、心中のための道具が詰められたリュックサックでした。

1月31日最後に二人で出掛ける

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アパートを出た片桐氏は、「最後の親孝行に」と母親を京都観光に連れ出しました。「賑やかなところに行きたい」と言う母を三条の繁華街へ連れていき、鴨川の近くを散策するなどして過ごしました。

賑わいを見せる新京極通りに向かうと、片桐氏が子供のころに家族で訪れた思い出の蕎麦屋がありました。しかし所持金が少なかったため、そこで食事はしなかったそうです。

2月1日未明に決行

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最後の夜、母子は戻ることのできないアパートの近く、桂川の河川敷にいました。降り続ける雨の中、日付は変わって2月1日。厳しい冷え込みの中、片桐氏は車椅子の母親に防寒具をかけてやりました。

「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」泣きながら「すまんな」「ごめんよ」と繰り返す片桐氏に、母親は「そうか、もうアカンか、康晴。一緒やで。お前と一緒やで」と答えました。

二人で額を寄せ合う中、「康晴はわしの子や。(殺すのは)わしがやったる」という母の言葉に片桐氏は「自分がやらなければ」と決意を固めました。そしてタオルで母親の首を絞め、ナイフで切って殺害しました。

その後自殺を図るも失敗

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片桐氏は母親の遺体に毛布をかけた後、持っていた刃物で自分の首や腹などを傷つけました。近くにあったクスノキでの首吊りも試みましたが、これは失敗に終わりました。

降りしきる雨の中、虚ろな表情で佇む片桐氏のリュックサックには、「土にかえりたい」という走り書きが残るノートが入っていました。

車いすに座ったまま死亡している母親と、自ら傷を負って倒れている片桐氏を、通行人が発見したのは夜が明けた午前8時ごろのことでした。

初公判について

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事件後の2006年4月に行われた初公判。本来であれば罪状を訴える検察側からも、片桐親子の慈愛に満ちた関係や、経済的に切迫していた状況が述べられる異例の展開となりました。

陳述の中で、片桐氏は介護生活の様子を語りました。夜中に片桐氏の寝間へ来て一緒に寝たり、名前を呼びながら赤ん坊のようにハイハイをして寄ってきたりなど、母親の姿は子供に戻っていくようだったそうです。

その母の姿さえ、片桐氏は「かわいくてなりませんでした」と話しています。決して楽ではない暮らしの中でも母親を恨むようなことはなく、親子の間には温かい愛と絆がありました。

7月21日に生きる約束をして判決が言い渡された

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判決公判が行われたのは同年7月21日。懲役3年という求刑に対し、懲役2年6か月、執行猶予3年という温情判決が下されました。

「自分で自分をあやめることのないように、お母さんのためにも幸せに生きてほしい」という裁判官の言葉を受け、片桐氏は「母の年まで生きる」と約束しました。

痛ましい事件に同情を示す一方で、裁判官は行政の対応に苦言も呈しています。事件後に片桐氏が零した唯一の恨み言も、生活保護を断られたことについてでした。

片桐康晴のその後について

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多くの人からの同情と励ましを受け、再起を誓った片桐康晴氏。新たな人生のスタートに、希望を見出すことはできたのでしょうか。

事件後は滋賀に転居し再スタート

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片桐氏は事件後、木材加工会社に就職し、20万円前後の月収を得て暮らしていました。休日には趣味の渓流釣りに出かけるなどしていたようです。

月2万2,500円の家賃で暮らしていたアパートでは、自治会にも顔を出していました。当時の自治会長は「明るい社交的な方だ」という印象を持っていたそうです。

また、知人も片桐氏に会った際に「だいぶ性格も明るくなったという印象を受けた」と話しており、周りに見守られながら片桐氏は新たな生活を歩みだしていました。

前向きに生きる姿勢を見せていたが母の話はせず

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事件から一年が経ったころ、片桐氏は支援者へ宛てた手紙の中で「少し生活も落ち着いてきました。元気に生きています」と綴っており、前向きに生きようとしていた様子が覗えます。

しかし、周囲の人に事件や母の話をすることは一切ありませんでした。親戚が水を向けても話に乗ってくることはなく、会話はそこで途切れてしまったそうです。

やはり自らの手で母親を殺害してしまったという事実は、片桐氏の心に暗い影として残り続けたのでしょう。

2013年会社をクビになり仕事に就けず

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順調に思えた片桐氏の新たな人生でしたが、それは長くは続きませんでした。務めていた会社が雇用整理を行ったため、再び職を探すこととなります。

その後、片桐氏は一度は金属加工の会社に就職することができました。しかし老化で弱った視力では手元の細かい作業が思うようにできず、短期間で退職を余儀なくされました。

親戚も再就職できるように励ましていましたが、思うように行かず、片桐氏は再び追い詰められていくことになります。

貯金で生活するも苦しくなる一方

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木材加工会社を辞めた時点で、片桐氏の所持金は30万円足らず。その後は苦しい生活が続き、亡くなる3か月前には6万円まで減っていました。

それでも、毎月の家賃は一度も滞納されることはなく、当時のアパートの管理人は片桐氏のことを「最後まで礼儀正しかった」と話しています。

こうした周囲の人たちの発言からも、片桐氏が最後まで誠実な人柄であったことを窺い知ることができます。

スーパーで見かけられたのが最期

亡くなる直前、片桐氏を最期に目撃したのは、スーパーの前で偶然会った知人でした。その時の片桐氏の様子については、「普段よりもちょっと弱弱しい声でしゃべっていた」と言います。

この時には既に自殺することを心に決めていたのでしょう。

2014年8月に琵琶湖周辺で後追い投身自殺

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2014年8月1日、片桐氏は琵琶湖大橋から身を投げ、母の後追い自殺という形で62年の生涯を閉じました。

前向きに生きようとしながらも、「母の年まで生きる」という誓いを果たすことができずに終わり、さぞ無念であったことでしょう。

遺された親戚も「身内として、なぜここまでになる前に言ってくれなかったのか」と片桐氏の死を悔やみました。

亡くなる際に持っていたもの

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発見された片桐氏の鞄の中には、数百円の小銭と、母親と自分をつないでいたへその緒、そして「一緒に焼いてください」という走り書きが残されていました。

自らが命を奪っていしまいながらも、母への愛情を忘れず抱き続けた片桐氏の想いが込められているようです。

あまりにも悲しい結末にネットも反響

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温情判決を受け、再起を願われた片桐氏の「自殺」というあまりにも悲しい結末。ネット上でも掲示板やSNSで多くの人が彼の死を悼みました。

報道後ネットで悲しみに声が溢れる

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片桐氏の死が広く知られるようになったのは、自殺から1年半後でした。ニュースサイトや新聞記事で片桐氏の自殺が報じられたのは2016年1月。NHKでも特集番組が放送されました(2016年4月放送)。

報道を受けて、ネット上では「やるせなさすぎる」「心が痛い」など、悲しみに満ちた声が溢れました。

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