たこ八郎(伝説のコメディアン)の死因は?ボクサーとしての活躍は? エンタメ

たこ八郎(伝説のコメディアン)の死因は?ボクサーとしての活躍は?

たこ八郎さんの死因は溺死です。葬儀では赤塚不二夫さんタモリさん等芸能界でもトップの方々が早すぎる死を悼みました。「たこ、海で溺死」と紙面でも大きな騒動でした。元プロボクサー日本王者でもあり、あき竹城さんとのロマンスもあった伝説の生涯を追います。

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「たっこでーす!」個性的なルックスとキャラクターで人気だったたこ八郎

いつも呂律が回らないような口ぶりで持ちギャグは「たっこでーす」がほぼ唯一だった人気者のたこ八郎さん。その風貌は大体だらしないコミカルな感じでしたが親しみやすいキャラで大人気でした。

活躍の場は幅広く、バラエティでもよし映画やドラマで役者をやらせてもこれが味があって達者。常に酒に酔ったような振る舞いは憎めない存在で他の誰かで置き換え不可能な特異なキャラクターでした。

この記事ではそんな不思議なコメディアン兼俳優の、たこ八郎さんの活躍ぶりや秀逸なエピソード、そしてその死因などを追っていきたいと思います。

たこ八郎は44歳で急逝、死因は心臓麻痺?

たこ八郎さんは仙台市の海辺に生まれ育ちました。ゆえに海を見ると遊泳したくなる方。この時たこ八郎さんは前夜から酒の飲み通しだったといいます。様子を見た監視員は泳ぐことのないように注意を促したそうです。

しかしたこ八郎さんは誰知らぬうちに海へ泳ぎだしました。100mも泳いだかというところで浜辺に引き返し始めて20m。ここで泳ぎは達者なはずのたこ八郎さんに異変が。心臓発作でした。

陸へ引き揚げたものの彼は泡を吹き全身蒼白。監視員の蘇生処置も虚しく意識が戻ることもなく死亡が確認されました。多量飲酒による心臓麻痺が死因。享年44歳という若さで人気絶頂の時期でした。

葬儀・告別式の葬儀委員長は赤塚不二夫、タモリやビートたけしも出席

たこ八郎さんはとあるローカルのトーク番組でジョーク混じりに「自分が死んだら葬儀委員長をしてほしい」と赤塚不二夫さんに話したそうです。それが現実のこととなりました。

赤塚さんと親交があり、たこ八郎さんを「笑っていいとも」のレギュラーに迎えていたタモリさんは「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と真の悲しみの境地を弔問の際に述べています。

出棺の際「逝きやがったな」と赤塚さんはたこさんの額を叩きました。師匠の由利徹さんは「たこ野郎が好きだった3本締めを」と参列者の3本締めを求め、たこ八郎さんは見送られました。

新聞には「たこ、海で溺死」。最後まで人々を笑わせたたこ八郎

人気絶頂の時期に突然死したたこ八郎さんの訃報を新聞紙面見出しでは「たこ、海で溺死」とブラックユーモアで飾りました。死してなおも人を笑わせるなど並の芸人にできるものではありません。

たこさんの死後テレビ特番で小さめな船に乗り赤塚不二夫さんを筆頭に海へ日本酒を「たっぷり呑ませる」というドキュメントもありました。乗組んだ芸能人のほとんどが笑顔で涙を浮かべながらたこさんを罵倒します。

早すぎた死に、やり過ごせぬ思いと憤りと惜別の念で多くの先輩に見送られてたこ八郎さんは天国へ召されました。のち赤塚不二夫さんは「あいつは現代の妖精だったね」と述懐しています。

たこ八郎はどんな人だった?ボクサーや芸人、俳優としての活躍!

たこ八郎さんの本名は斎藤清作。その名でボクサーとしてリングに上がっていました。フライ級の国内チャンプを2度も防衛する程の強いボクサーでした。ボクシングスタイルも独特でそのあたりを深くみていきます。

たこ八郎の生い立ちは?左目は失明していた?

1940年11月23日、たこ八郎さんは宮城県仙台市の農家に8人兄弟の次男として生を受けました。家は裕福とはとても言えるものではなかったと伝えられています。

彼はは幼少時から左目を失明していたことが知られています。友達と泥の投げ合いの際それが左目に入りそのまま放置したせいだそうです。すぐに医療機関にかかっていれば失明は避けられたということです。

しかし当時は家が貧しくたこさんは病院に行けばお金がかかり親に迷惑をかけるので黙っていたと告白しています。この大きすぎる「ハンディ」が後のボクサー人生でのボクシングスタイルに大きな影響を及ぼします。

たこ八郎の名前の由来は居酒屋?

たこ八郎さんの自宅近くの行きつけの居酒屋の名前が「たこきゅう」。ボクサーを引退し由利徹さんに弟子入りした頃にこのお店の名前から命名されたということです。

大の酒好きであったたこさんの決めセリフ「たっこでーす!」が何となく酩酊しているような口調だったのは後年「あれは完璧な演技だった」という証言が多く寄せられています。

それはコメディアンとしての自分の立ち位置を体現するものであって一たび「役者」の顔になるとプロボクサー時代の軽妙なフットワークを逐次見せていたことに基づきます。エピソードは後述します。

たこ八郎は日本フライ級のチャンピオンを二度防衛したプロボクサーだった

本名「斎藤清作」はそのままリングネームでした。また通称「河童の清作」と異名をとったのは、彼が頭を早く冷やすために頭頂部だけ髪を薄くしていた風貌から来ています。

プロテスト合格ののち彼は派手なKO劇は少なかったものの、持ち前の粘るボクシングで判定勝利をもぎ取り続けました。そしてデビューから2年と数か月、1962年に王者野口添とタイトルマッチを迎えます。

この試合は判定にもつれ込み結果は斎藤の10回判定勝ちで国内チャンプに。その後日本フライ級王座を二度も防衛しました。驚異的な精神力の持ち主で、極めて打たれ強いボクサーと語り継がれています。

たこ八郎は「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈のモデルになった?

上述の通り斎藤清作は左目を失明していたので距離感が生命線であるボクシングでは非常に不利です。しかし斎藤は相手にわざと殴らせる「ノーガード戦法」を選び超接近戦をスタイルとするボクシングをします。

打たせるだけ打たせ相手が疲れたところに一撃を刺す。この戦法が「あしたのジョー」矢吹丈のモデルになったといわれています。

打たれても打たれても対戦相手に「効いてない効いてない」と呟き続け、恐怖に陥れて戦意を喪失させそこに打ち込む。正に典型的なブルファイターの手本のようなボクシング。それが斎藤のボクシングでした。

たこ八郎はパンチドランカーとなり、ボクシングを引退

しかしこの打たせるボクシングスタイルは選手生命も同時に奪っていきました。手数多く打ち込まれた顔面・頭部へのダメージの蓄積は日本チャンプ斎藤の身にじわじわと浸透していたのです。

いわゆる「パンチドランカー」です。直訳すればパンチに酔うということです。タイトル奪取後3度めの防衛戦で判定負けをし彼は引退の覚悟を決めました。プロデビュー1960年から4年後のことでした。

「笑っていいとも」や映画「幸せの黄色いハンカチ」などに出演

たこ八郎さんのマルチぶりはバラエティに映画にと広がっていました。フジテレビのお昼のモンスター級番組「笑っていいとも」にはレギュラーで出演。共演者のイジリには天然でボケ続け人気は絶頂を極めました。

一方で俳優としてもいい味を出す演技で定評がありました。大ヒットした高倉健主演の映画「幸せの黄色いハンカチ」では主演の健さんとの喧嘩シーンが印象的です。

この映画に大抜擢された武田鉄矢さんは当時を振返り述べています。「撮影の合間にチンピラが絡んで来たんです。そこへフラーっとたこさんが現れてフっと動いた次の瞬間チンピラ全員が倒れていたんです!」

たこ八郎の伝説や逸話まとめ

前述したチンピラ瞬殺の逸話の他にもたこ八郎さんならではの強烈なエピソードは満載です。それらはもはや「伝説」と化して、どこまで真実なのかわからないほどでもあります。

「たこ八郎伝説」をいくつか紹介しましょう。

伝説・逸話①:たこ八郎の右耳がないのは犬に噛みちぎられた?

たこ八郎さんの顔を見るとやはり目立つのは右の耳の一部がないことです。これに関して犬に噛みちぎられた、という説がありました。しかし真実はそうではなかったようです。

彼はビートたけしさんの番組の中でその経緯を話しました。犬ではなく友人と噛みつき合いしていて失ったというのです。直後病院へ行き縫ってもらったそうですが消毒をサボったら取れてしまったと。

これでは聞き手役の大御所たけしさんもボケも突っ込みも難しかったと想像できます。本人の談話ですから真実なのだと思いますがどうなのか気になる告白ですね。

伝説・逸話②:日焼けで顔や腕が2倍に腫れ上がった?

これは親しい付き合いのあった、あき竹城さんからのエピソードです。あるとき二人はサイパン島で休暇を楽しんだとのことです。

この時たこさんは、毎日南国の強烈な日差しの中、昼寝ばかりしていて気が付くと腕も顔も「2倍」に腫れ上がったというから驚きです。これもネタのようで真実として伝えられたエピソードの一つです。

伝説・逸話③:視力表を暗記してボクシングのプロテストに合格していた?

これはもう仰天な逸話ですが、たこ八郎さんはボクシングのプロテストの際必須な視力検査で一計を案じたそうです。それは視力表を丸暗記して失明している左目も見えているようにとぼけきったことです。

当時のプロテストがそうのんびりしていたはずはないですが試験官も「まさか」と思うような話ですよね。しかし実際彼はそれをクリアしプロデビューから2年と少しで王座を射止めたのですから正に伝説です。

伝説・逸話④:プロボクサーなのに酒を飲んでいた?

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これは同門の同期ファイティング原田さんが証言しています。日本人ではただ一人世界のボクシングの殿堂入りを果たした偉大なチャンピオンをして次のように言わしめています。

「彼はボクサー時代から酒を飲んでましたね。そんなボクサーなんか他にはいないんですよ。しかしそれでも国内チャンプにまで登りつめたんだから彼こそは天才と呼ぶにふさわしいんじゃないかと。」

「ブルファイターとしてミドル級クラスともスパーリングをしていたんです。そんな重いパンチ受けてその上酒まで飲むんだからパンチドランカーにもなりますよね」と述懐しています。

伝説・逸話⑤:コメディアンになりたくてボクシングチャンピオンになった?

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これは「話が逆でしょう」と突っ込みたくなる逸話です。たこ八郎さんは同郷宮城出身の由利徹さんにボクサー時代入門を希望していたそうです。しかし由利徹さんは端から弟子は取らない主義でした。

そこで由利徹さんはこう言いました。「チャンピオンになったら弟子入りを認めるよ」と。これはお断りの口実に過ぎない言葉だったのです。

しかしたこ八郎さんはこれを実現してしまいます。まさかチャンピオンにまでなるとは思っていなかった由利徹さんもこれに脱帽。弟子入りを許可しました。

伝説・逸話⑥:新人王戦でファイティング原田と同門対決となり対戦を辞退

ボクサー斎藤清作の所属ジムには日本が誇る最強のボクサー「ファイティング原田」氏が同期生にいました。彼らは同年新人王戦を連破し続けそのまま進むと同門での準決勝を迎える事態に直面します。

ここで斎藤は自ら戦線離脱を表明しました。結果は順当に原田氏の新人王に落ち着きのちのフライ級世界王者への道筋となります。しかし「カッパの清作」こと斎藤清作もまた2か月遅れで国内チャンプに輝きました。

のちにファイティング原田氏は「少なくとも私の前では、ただの一度すらも恨み言は言わなかった」と尊敬の念を語りました。「もしも」でしかありませんが二人が戦っていたらと思うファンは今でもいます。

たこ八郎とあき竹城との関係は?息子がいる?

あき竹城さんとたこ八郎さんは恋人の関係ではと報道されたことがあります。実際それはどうだったのでしょう。

恋人であったとしても別におかしくはないのですが、あき竹城さんのたこさんへの思いはもっと違うところにありました。

たこ八郎とあき竹城は恋人だったの?

二人が親密な関係であることは周知のことでした。二人が大人の関係にあったとしても不思議ではないことです。

しかしたこ八郎さんの死後、あき竹城さんは「情報フライデー」というテレビ番組で関係を否定しました。そういうことではなくパンチドランカー症状に悩むたこさんを必死に看病し続けたのだそうです。

寝小便が続いたり、一向に酒をやめず食事をきちんととらないなど放っておける状態ではなかったそうです。

たこ八郎には息子はいない?

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検索で「たこ八郎 息子」と調べると検索ヒットはするのですが実際に息子がいる、という情報は皆無です。

たこさん縁のごく親しい人の証言でも、彼に息子がいたという情報は全くありません。これはネット検索の結果のほうが誤りであるということでしょう。

あき竹城はたこ八郎の死に号泣

看病、日常の世話などまるで母のようにたこさんを見守ったあき竹城さんでしたが思い残すことがあるようです。それは彼から「サイパンに行こう」と誘われたのを断ってしまったことなのです。

「忙しいから」と誘いを断った矢先にたこ八郎さんが海で溺死したことをあき竹城さんは知りました。そのことを「あの時私が誘いを断らなければ・・・」と自責の念に駆られる日々が続いたといいます。

彼の死が自分のせいだと思い詰め続けあき竹城さんは一度もたこさんのお墓参りをすることはありませんでした。しかし27年経過し墓前で「生まれ変わったらまたサイパン行こうね」と号泣したそうです。

たこ八郎の名言は?

たこ八郎さんはほぼ唯一決定的な名言を遺しています。その言葉は最初に違和感や間違った日本語の印象を与えるものですが、改めて噛み締めると人柄がにじみ出た「詩」のような美しい言葉です。

座右の銘は「迷惑かけてありがとう」

座右の銘というと普通は過去の偉人の遺した言葉を引用しがちですがたこ八郎さんのものは完全オリジナルです。その言葉とは「迷惑かけてありがとう」です。

通常の文法でいえば迷惑をかけたら「ごめんなさい」など謝罪の言葉が続くのが基本です。しかしたこさんはここに「ありがとう」を持ってきました。その真意はどんなものなのでしょう?

きっと彼は周囲の人みなに迷惑をかけたことを強く自覚していました。そしていつも暖かく手を差し伸べてくれた友や先輩に謝罪よりも強く「感謝」を表明したかったのでしょう。何ともほのぼのした名言です。

たこ八郎の地蔵が建立され、地蔵にも「めいわくかけてありがとう」

たこ八郎さんの死後、師匠の由利徹さんや赤塚不二夫さん、映画監督の山本晋也さんたちが発起人となり東京は下谷の「法昌寺」にたこ八郎さんを形取った「たこ地蔵」が建立されました。

その地蔵の体の真ん中には大きく彼の直筆のまま、座右の銘「めいわくかけてありがとう」の名言が刻印されています。今でも「たこ地蔵」をお参りする人は絶えることがありません。

たこ八郎にいか八郎、宅八郎、東八郎はどういう関係なの?

たこ八郎さんと「芸名」が酷似した人が何人かいます。彼らはたこさんとどういった関係なのでしょうか?

いか八郎はたこ八郎に似ていたことから芸名を変更?

いか八郎さんは本名「近藤覚悟」。2018年5月に亡くなっています。大元は浅草松竹の芸人としてスタート。デビュー当時はコント東京ギャラントメンの一員として本名で出演していました。

その後作曲家へと転身し俳優としても29歳でデビュー。しかし何といっても彼の代表作は「テルマエ・ロマエ」での平たい顔族の老人役でしょう。この配役は本映画のファンなら強く印象に残っているはず。

芸名に関してたこさんと何か関わりがあったかというとそれは全然なかったそうです。その風貌がなんとなく似ているというところから命名したとされています。

宅八郎もたこ八郎を文字って芸名をつけた?

宅八郎さんは「オタク評論家」として世に登場。自身いかにもオタクな服装を着用しテレビ出演などでは異彩を放つ変わり者でした。彼の芸名の由来はどこからのものなのでしょうか?

一説にはアニメ「エイトマン」の主人公「東八郎」から取ったとも言われていますが、音の響きからすればたこ八郎さんの名前も意識していたことはありそうですね。

東八郎はどんな人?

東八郎というと大きく2つが浮上します。ひとつは上述の「エイトマン」の主人公名。そしてもっと著名なのは昭和を代表する大物コメディアンの東八郎さんです。

浅草フランス座では同時期の出演者に渥美清さん伊東四朗さんなど錚々たるビッグネームが名を連ねています。しかし彼は52歳という若さで逝去してしまいます。東貴博通称アズマックスは次男。

「訛りギャグ」でぼくらの「なまか」は後年まで使われ続けた鉄板ギャグです。しかしたこ八郎さんとは直接の関係はないようですね。

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