ジムジョーンズの人民寺院900人以上を集団自殺させた教祖の闇

英語で「クールエイドを飲む」という俗語を生んだ事件が、1978年南米ガイアナ、ジョーンズタウンでおきました。ジムジョーンズを教祖とする信者900人以上が自殺、その内約300人が未成年でした。子供らは、シアン化合物を混ぜたブドウ味のジュースを飲まされていました。

カルトの元祖!大量殺人教祖「ジムショーンズ」とは?

 ジムジョーンズは、とても、”ちぐはぐな”人物でした。人種や性の差別を糾弾したのに、黒人を低賃金労働で酷使し、白人ばかりを自らの宗教団体「人民寺院」の幹部とし、女性信者を囲ってハーレムをつくりました。

子供時代は宗教に親しみ、後は聖書の保守性を軽蔑しつつ、一部を取り上げ称賛して利用しました。その生涯を通じ信奉したのは共産主義でしたが、平等を謳いながら、薬物に耽溺して、人を人と思わぬ処遇を行いました。

いったいどこまで無邪気な本気で、どこまで打算による計算で、どこまでが悪意や欲望に基づく邪念なのか、よく分からない人物でした。

宗教団体・人民寺院の最高指導者

若かりし頃、ジムジョーンズが惹かれたのは共産主義でした。当時、アメリカでは共産主義への風当たりが強く、彼は憤っていました。自らの伝記録音で次のようにいっています。

「私は決意した、どうやって私のマルキシズムを実証するのかを。その考えとは、教会に潜入するということだ。だから私は意識的に、その展望を調査する決断をしたのだ。」(引用:Wikipedia)

彼の活動は、プロテスタントのメジスト派の宣教師から始まります。1950年頃、インディアナポリスのホールで集会を開催、人民寺院という宗教団体を創始しました。人種間融和を掲げた伝道団体という表向きでした。

ジョーンズタウンを設立し信者と共同生活

ジョーンズタウンは、資本主義の魔の手とマスコミからの追求から逃れる「聖域」として、南米ガイアナの地に開拓されました。

それは、博愛主義的な共産主義のコミュニティモデルである「社会主義者の楽園」だと彼は語りました。しかし、実際は、彼の性欲と薬物癖を強めただけでしたが。

900人以上の信者と集団自殺

上記の場において、マスコミにその運営実体がバレた時、彼は信者もろとも自殺を図りました。「昇天」と称し予行演習をしていたので、スムーズに事が運んでしまいました。

事件全体の死者数は918人。死亡した信者の数は900人以上で、その内の未成年者数は約300人でした。現場は凄惨を極めました。

ジムジョーンズの生い立ちと人柄

1931年、ジムジョーンズはインディアナ州郊外クレテに生まれました。1934年には世界恐慌の煽りを受け、同州リンに移住しました。そこで水道のない小屋で育ちました。

なぜか、母方にインディアンのチェロキー族の血筋があると、不確かな話を吹聴していました。これ以外にも、チョクトー族の血を引くという文献もありますが、定かではありません。

父親は人種差別主義者

ジェームズ・サーマン・ジョーンズは第一次世界大戦の従軍歴があり、アイリッシュとされます。当時において黒人蔑視は珍しくありませんが、クー・クラックス・クランと関係があったそうです。

ジョーンズの友人の証言では、アルコール中毒者だったともされます。ジョーンズの語った所によると、黒人の友人が家に入ることを父が拒否したことが発端となり、「本当に長い間」一言も話さなかったと言います。

しかし、この話が本当か、彼がどこまで黒人に同情的だったかは疑問です。彼の生涯の行動をみれば、自ずと疑念が過らずにはおれないからです。

母親はボランティア活動家

母親のリネッタ・プットナムは、ウェールズ系とされます。一人っ子の彼を溺愛していました。聖書原理主義者の多い土地で、息子は「生まれながらの聖職者」と、まわりに自慢気に語っていました。

自身も貧しいはずなのに、なぜかボランティア活動にのめり込んでいました。彼女の願いは、息子が立派な聖職者になることで、まさしくジムジョーンズは母親の期待通り、その道を歩むこととなります。

12歳から近所の子供達に対してカルト活動

母親の望みと教育どおり、彼は8歳にして聖書をそらんじ、12歳で近所の子らに「怒りの説教」をアジっていました。友達づくりがヘタなわりに、習わぬ経を読み、洗礼を授けていました。

それでせしめた布施なのか、ポケットの中は、いつも小銭でパンパンに膨らんでいました。

客観的カリスマ崇拝者

少年時代は、カール・マルクス、ヨシフ・スターリン、アドルフ・ヒトラー、マハトマ・ガンジー、毛沢東らに惹かれていました。

書物の中の彼らから、各人の強みと弱点を見つけ出す。そんな奇妙な研究に憑りつかれた子供時代を過ごしていました。

幼いころから周囲に異様さを放ち、その生まれ持った独裁的傾向を胸に秘め、人心掌握術を学ぶことは、彼にとって、ごく自然な行為だったのかもしれません。

ペットが不審死?異常な「動物好き」

ジムジョーンズの子供時代を知る者は「本当に異様な子供だった」「宗教に憑りつかれ、死にも憑りつかれていた」と漏らしています。また、猫を刺殺したと断言する者さえいます。

友達のいない彼には、宗教が唯一の慰みだったのか、強く惹かれていたようでした。同時に、尋常でないほどの動物好きで、いつも猫や犬を拾ってきました。(成人後、猿の訪問販売をしていた時期があります)

それらの動物は、しばらくすると不審な突然死を遂げました。その度、彼は涙を流して手厚く死骸を埋葬しました。うやうやしく聖職者のマネゴトをして、葬儀を取り行いました。

宣教師の娘と結婚し牧師になる

高校卒業後の翌年、1949年、ジョーンズは牧師の娘でナースのマルセリーヌ・バルドウィンと結婚しました。インディアナ州ブルーミントに移住し、インディアナポリスで学生牧師となって、教会に勤めました。

ジムジョーンズと人民寺院の活動まとめ

何時の頃からか知り得ませんが、彼にとって最も大事な思想は、マルキシズムに取って代わりました。しかし、赤狩りの吹き荒れる当時のこと、彼はメジスト派の宣教師になり、それを隠れ蓑(みの)としました。

「どうやったら、私のマルキシズムを証明できる? 結論は、教会に潜入することだ」(引用:Wikipedia)

アメリカ共産党集会に参加していた彼を、メジスト派の教区長は学生牧師として所属できるよう骨を折り、彼を驚かせました。しかし、教会のリーダーから自身の集会への黒人参加を禁止され、彼は牧師を辞めています。

1956年インディアナにて教会創設

ジムジョーンズの人民寺院(Peoples Temple of the Disciples of Christ)は人種の平等を訴えつつ、キリスト教、社会主義を、共産主義、をないまぜにしたものでした。

本心では、従来のキリスト教を「軽薄な宗教」と軽蔑しなから、それを利用して、彼の思い描く共産主義に染める手段として設立されたものでした。

宗教団体として次第に拡大

一時は低迷していましたが、アフリカ系の聖職者アーチー・イジェムズを採用したり、黒人や貧者への奉仕活動などで、爆発的に信者を獲得していきました。

その手段の中には、平等主義の他に、社会保障番号を使ったトリックや、心霊療法など、いかがわしいものも含まれていました。

変化していくジョーンズの思想「宗教的共同体主義」

人民寺院は当初穏やかな宗教に偽装しながらも、じょじょに本性を現していきました。財産と家族との繋がりを放棄する共産主義への移行、無神論と自身をキリスト的カリスマとみなす過激思想へと変貌していきました。

病的な核戦争に対する恐怖心

1961年、ジムジョーンズはシカゴが核攻撃に曝されるビジョンを見たと発言しました。イリノイ州シカゴに近いインディアナポリスも壊滅するとし、彼は新天地を探す必要があると補佐官たちを説得しました。

ブラジル視察

1962年、エクスファイア誌が、核戦争がおきた時の安全な場所9つを発表しました。ブラジルのミナスジェライス州、ペロオリゾンテが一番安全な都市とあり、彼は1962年~63年にかけ視察旅行を行いました。

核戦争を恐れカリフォルニアに移住

1963年、インディアナに戻りキリスト教と社会主義をまぜた「使徒社会主義」を喧伝しました。1967年の核攻撃を予言し、同時に、社会主義の楽園となるレッドウッドバレーへの移転の必要性も説かれました。

拡大の一途をたどる教団

予言により、カリフォルニア州レッドバレーへ移転するも、拡大のために1970にサンフランシスコとロサンゼルスでの奉仕活動を始めました。その1後と2年後に、それぞれに拠点となる建物を建設しました。

華やかなりしサンフランシスコ

レッドウッドバレーを母体としたロサンゼルスとサンフランシスコへの旅行は、交通の便の良いバス停と施設の獲得成功により、特に黒人の信者を増やしました。1970年代中頃までには3000人近い信者を得ました。

公的資金を得る

1975年のサンフランシスコ市長選で、人民寺院はジョージ・モスコーニの当選に尽力しました。モスコーニはジョーンズをサンフランシスコ住宅公社委員会の委員長に指名しました。

また、インディアナポリス市長チャールズ・ボズウェルは、彼に対し人権委員会への参加を依頼しました。

華やかな著名人との交流ジムジョーンズの絶頂期

合衆国副大統領候補ウォルター・モンデール、ファーストレディ・ロザリン・カーター、カリフォルニア州下院議員ウィリー・ブラウン、同知事ジェリー・ブラウン、文化人ハーヴェイ・ミルクらから称賛されました。

団体が拡大すると共に内部事情も露呈されていく

サンフランシスコ移転は、メディアとの接触を生みました。宣伝は、人民寺院への監視を高める結果にもなりました。

サンフランシスコ・クロニクルの記者マーシャル・キルダフはジョーンズ側からの妨害に合い、自社ではなくニュー・ウェスト誌に暴露記事を持ち込みました。

ニュー・ウェスト誌はジョーンズへ電話をかけ、出版前に記事を彼に読み聞かせました。聞き終わると書付を書き、彼は言いました。「我々は今夜発たねばならない。ジョージタウンへと」

社会主義者の楽園「ジョーンズタウン」設立

記事の出る前から計画は進んでいました。その目的は「社会主義者の楽園」の設立と、マスコミからの「聖域」のためでした。博愛的な共産主義モデルでしたが、実際の共産主義国と同様に移動制限が課せられていました。

1977年の始めの頃は、50人ほどの人口でした。暴露記事の後、彼に続くよう信者達へ呼びかけた、1978年の終わり頃までには900人を超していました。

下院議員レオライアンがジョーンズタウンを視察

1978年、レオ・ライアンは、人権蹂躙告発の調査のためジョーンズタウンへ赴きました。始めの内は、案内に従って見せられた、のどかで平和な様に構えを解きつつありましたが、事態は翌朝、一変しました。

リポーターの一人が、辺りを散歩している途中、厳重に施錠された小屋を発見したのです。病気を患った老人が、ぎちぎちに詰め込まれ、悪臭を放っていました。その夜、脱会希望者たちが名乗りを上げ始めました。

ライアンは帰途、ドン・”ウラジャ”・スライにナイフで襲われました。事なきを得ましたが、ジョーンズに刑事告訴を同意させました。代表団は帰国希望者15名を連れていましたが、ジョーンズ黙認していました。

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