瀬戸内シージャック事件の動機は?犯人の川藤展久の生い立ちや性格

瀬戸内シージャック事件は戦後初めて犯人を射殺し人質を救った事件で、弁護士が告発するなどのちに物議を醸すこととなりました。犯人である川藤展久が犯行に及んだ動機とは?瀬戸内シージャック事件の真相、動機について詳しく調査しました。

瀬戸内シージャック事件の概要

瀬戸内シージャック事件は瀬戸内で起こった旅客船乗っ取り事件です。事件発生により重軽傷を負ったものはいましたが死亡者は犯人のみ、最後に射殺されています。

射殺シーンが放送されたことで印象深い事件となりました。また、犯人の川藤展久が射殺されるという結果がその後議論を呼んだのです。

1970年に発生した旅客船乗っ取り事件

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瀬戸内シージャック事件とは1970年5月12日~5月13日にかけて起こった旅客船乗っ取り事件です。広島県と愛媛県の間の瀬戸内海で起こったため、瀬戸内シージャック事件と呼ばれるようになりました。

事件の犯人川藤展久に乗っ取られた船の名前が「ぷりんす号」だったため、「ぷりんす号シージャック事件」とも呼ばれています。

戦後初の犯人狙撃による人質救出事件だった

瀬戸内シージャック事件は犯人を狙撃、射殺することで人質が解放された事件として知られています。射殺シーンが映像として放送されたため視聴者に強烈な印象を与えました。

シージャックとは?ハイジャックやバスジャックより珍しい?

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シージャック(Seajack)とは、運航中の船舶を乗っ取る行為。狭義では、積荷の略奪が目的である海賊行為とは区別される。「海」(sea)と「ハイジャック」(hijack)から合成されたカバン語である。

(引用:Wikipedia)

シージャックは亡命目的、政治的な目的のためなど明確な動機がある場合もあれば、精神的に錯乱した状態や異常な心理状態のためなど様々な理由で行われます。

しかし日本では政治的な目的、いわゆるテロリズムのために船を乗っ取るという例はありませんでした。これはハイジャックやバスジャックに比べて船を乗っ取るという行為自体が困難だからです。

よって、日本での代表的なシージャック事件は瀬戸内シージャック事件のみとなっています。

ハイジャックといえば「よど号ハイジャック事件」です。関連する日本赤軍については以下の記事をお読みください。

瀬戸内シージャック事件の時系列

瀬戸内シージャック事件の始まりは、犯人含む3人が乗用車を盗んだところから始まります。

最終的に民間人5人が重軽傷、流れ弾に当たった警察官が半身不随になるという被害が出ました。

1970年5月11日犯人の川藤展久ら3名が乗用車を盗む

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1970年5月11日、福岡市内で盗んだ乗用車に乗って、瀬戸内シージャック事件の主犯川藤展久と2人の少年が広島方面へ向かっていました。川藤展久と少年2人はパチンコで知り合ったといいます。

交通違反で逮捕されるも警官を刺し逃亡

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しかし同日、1970年5月11日の午前12時20分頃に検問にあい、追い越し禁止区間で追い越しをした交通違反で停車命令をされました。場所は山口県厚狭郡山陽町の国道2号でした。

そこで盗難車であることが発覚、逮捕されます。川藤展久と2人の少年は盗難車とパトカーに分乗し小野田警察署に連行されることとなりました。

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しかし盗難車に乗っていた川藤展久と1人の少年は、警察官に隠し持っていた猟銃を突きつけます。警察官は少年に胸を刺されて、全治2週間の怪我を負いました。

パトカーに乗っていた少年は拘束されましたが、盗難車に乗り警察官を刺した少年と川藤展久は逃走します。軽四輪車を盗んで乗り換え、宇部市まで逃げました。そこで服装を変えています。

郵便局襲撃を企てるも非常線が張られていたため野宿

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川藤展久と少年は当時国鉄広島駅前にあった郵便局、広島中央郵便局を襲撃することを目論見ます。2人は土地勘のある広島市で一稼ぎしてから大阪に向かうことを相談していたのです。

川藤展久と少年は山陽本線で向かいます。広島駅の一つ手前である横川駅で2人は下車するものの、すでに非常線が張られていました。

2人は身を隠すために山の中に入りました。そしてその日は広島駅の近くにある二葉山仏舎利塔で野宿することにしたのです。

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5月12日の昼頃、市民から警察に通報が入りました。山中に猟銃を持つ2人組がいるという通報を受けて警察官が急ぎ現場に駆け付けます。けれど現場は住宅密集地で捜索は難航しました。

午後2時50分頃、川藤展久は国鉄芸備線の踏切にいたところを警察官に発見されます。警察官はプロパンガス販売事業の配達用である軽トラックに便乗していたところでした。

警察官は川藤展久に対して威嚇発砲しましたが川藤展久は動じませんでした。それどころか猟銃で軽トラック運転手を撃ち殺すと脅してきたのです。

そのため警察官は拳銃と実弾を軽トラックの荷台に投げました。そうするほかに手はないと考えたのです。

けれど野宿の際、薬莢が雨に濡れてしまったため猟銃の発射は不可能でした。川藤展久は軽トラック運転手を脅して市の中心部に向かいます。

5月12日少年Aが確保される

川藤展久に拳銃を奪われてしまった警察官は、近くに身を潜めていた少年を発見、格闘したのちに逮捕しました。

銃砲店で強奪し警察官を負傷させ「ぷりんす号」を乗っ取る

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行動をともにしていた少年が逮捕され1人となった川藤展久は、午後4時頃に広島県警本部のすぐ近くにある立町の銃砲店で銃を強奪します。

店員、客を休憩室に押し入れ、ライフル銃等を3丁、弾丸を80発、散弾250発を奪いタクシーに乗りました。検問を突破して宇品港に向かったのです。

川藤展久は待合室で銃を乱射しつつ桟橋に向かいました。船舶に乗船しようとしましたが警戒中だった警察官に阻止されて発砲、負傷させます。

停泊していた船舶は愛媛県今治市行きの定期旅客船の「ぷりんす号」でした。川藤展久は船に乗り込み、「どこでもいい、大きな街に行け」と船長を脅します。

そして午後5時15分、「ぷりんす号」は出航しました。この時「ぷりんす号」に乗船していたのは9人の乗員と37人の乗客です。彼等は人質となりました。

しかし、「ぷりんす号」の乗船券を所持していたのは18人だったといいます。残る15人は桟橋に居合わせていた見送り客などで巻き添えとして乗客となりました。

川藤展久の傍若無人な行い

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川藤展久はその後「ぷりんす号」で瀬戸内海を逃走し続けます。この際、川藤展久は傍若無人な行いを見せていました。

元宇品沖にて「こがね」という広島県警の警備艇の操舵室を狙って撃ったのです。この狙撃により同乗していた警部補が貫通銃創の重傷を胸に負いました。

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さらに、たまたまモーターボートで遊んでいた2人の一般人を狙撃、そして地元の中国新聞、中国放送が借り切っていたセスナ機も銃撃しました。

銃弾はセスナ機の燃料タンクを貫通、燃料が漏れ出てしまい墜落しかけたといいます。

「よど号ハイジャック事件」と近い規模の警察官と報道合戦

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この事態を受けて広島県の沿岸各地には警察官が配置されました。広島県警在籍の3715人の警察官のうち1256人が動員されることとなったのです。なお、海上保安庁の巡視艇も警戒しました。

瀬戸内シージャック事件での犯人逃走で動員された船舶は広島県警の警備艇5隻、海上保安庁15隻とチャーター船1隻、海上自衛隊の掃海艇と支援艇が派遣され、警察官が4号魚雷艇に乗船、追尾しています。

近隣の県警本部からの応援もありヘリコプターが多数出動、警察庁は最悪の事態に備え川藤展久の射殺もやむを得ないだろうと大阪府警察のライフル銃を装備した狙撃手5人を派遣、海上自衛隊機で現場に向かいました。

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愛媛県警察は強行突破に備えて催涙ガスを用意、福岡県警察はライフル銃を装備した狙撃手を待機させています。

大々的に報道されており、報道各社の航空機も飛んでいました。現場から生中継するなどして報道合戦が展開されたのです。

これは瀬戸内シージャック事件が発生する前の月に起きた「よど号ハイジャック事件」と似たような規模でした。

乗客解放

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午後9時40分、愛媛県の松山観光港に「ぷりんす号」は入港しました。その時川藤展久は船長を交渉役にします。

代わりの船を用意するか給油させることを要求、従った場合は乗客を降ろすことを伝えます。

愛媛県警は代わりの船を用意することはしませんでしたが、給油は行いました。愛媛県警は給油の際に係員へ変装した2人の警察官を船に乗せようとしていたのです。

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そして犯人を取り押さえるという計画を立てていたのですが、川藤展久は油をつむのはいいが人間はつむなと要求してきたため断念しました。

その後「ぷりんす号」の乗客は全員解放されました。しかし乗員は解放されないまま、翌日の午前0時50分に「ぷりんす号」は松山観光港を出ます。

「ぷりんす号」は来島海峡に向かい今治市の沖に到達。そののち針路を変更し宇品港に8時50分に戻りました。

父親の説得も叶わず逮捕された少年A,Bを要求

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戻ってきた川藤展久は逮捕された少年たちを連れてくるように要求します。そして岡山県に住んでいた川藤展久の父親(この時58歳)と川藤展久の姉が投降するように呼びかけました。

けれど川藤展久は応じません。それどころかライフル銃を乱射して警察官1人が撃たれてしまいます。

撃たれた警察官は重傷を負い、また、強行偵察中だった警察のヘリコプターも撃たれてしまいました。墜落寸前となってしまいます。

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瀬戸内シージャック事件で川藤展久は殺人未遂と強盗罪、公務執行妨害罪に逮捕監禁罪、強要罪と器物損壊罪、艦船損壊罪の容疑のほか暴力行為など多数の法律違反と航空法違反がありました。

瀬戸内シージャック事件では散弾64発、ライフル銃弾50発が使用されています。

13日午前9時51分狙撃隊員が川藤展久を狙撃

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「ぷりんす号」の船長は一度船外に出ました。犯人川藤展久の要求を伝えたのです。それと同時に川藤展久が警察との撃ち合いで死にたいと考えていることを伝えました。

そして川藤展久が再度「ぷりんす号」を出航させるつもりであることもわかり、広島県警は被害が拡大することを恐れます。

県警本部長は現場で確認を行い、そのうえで緊急避難措置のため川藤展久を射殺することを許可しました。

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急所は外すように指示を出したことを県警本部長がのちに語っています。9時52分、川藤展久は銃の乱射を中断します。武器を持たずにデッキに出て警察官になにかを叫びました。

その隙に船から40mほどの距離にあった防波堤で待機中の狙撃手が川藤展久に一斉射撃します。川藤展久はその場で倒れました。

船長が聞いたXの最期の言葉は「死んでたまるか、もういっぺん」であったという(銃を取ろうとしながら力尽きる様子が映像からわかる)。

(引用:Wikipedia)

広島テレビ放送のカメラにより狙撃に瞬間が残された

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射殺された瞬間はテレビで生中継されていました。広島テレビ放送のカメラが撮影していたのです。

血まみれになりつつ逮捕された様子も新聞に掲載されています。

射殺という衝撃的なシーンですが以前は加工されていない状態で放映されていました。その後顔がぼかされたり射撃の瞬間の映像を流さないようにと配慮されています。

川藤展久の生い立ち

川藤展久の人生はストップをかける存在を欠いた人生であったと言えるでしょう。善悪の判断力を養う大切な時期にはすでに親の監視の目がなかったのです。

生まれと家族

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川藤展久は1949年生まれ、岡山県児島市下津井町(現在は倉敷市下津井町)出身です。6人兄弟の三男でした。

父親は船員、母親は新興宗教の信者でした。そのため頻繁に家を留守にしていたと言われています。

新興宗教に浸かる母により小学生で問題児に

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母親が家庭を顧みなかったので、川藤展久は幼少期から自由に育ちました。

小学校に通っていた頃から悪童として名を知られており、授業を抜け出したり電車に無銭乗車したりしていました。

それにくわえて窃盗等の軽犯罪も犯していたと言われています。そのため小学校の教師からは問題児として見られていました。

中学は不登校の後家出で放浪生活へ

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中学校に入ってからはさらに素行が悪くなったといいます。

中学校は半年通って不登校になりました。その後家出をして広島や東京など広範囲を転々と放浪していたのです。

その間はパチンコ店やそば屋でアルバイトをしていました。暴力団の下っ端のようなことも行っていたといいます。

事件を起こすまで何度も警察の厄介になっていた

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瀬戸内シージャック事件が起こる3年ほど前には広島で工員をしていましたが、20件以上の窃盗事件を起こして逮捕されています。1969年の春に出所、以降定職に就きませんでした。

小学校で分析された川藤展久の性格

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川藤展久が小学校に通っていた当時、川藤展久の内面を分析した教師の記録がありました。

記録によると川藤展久は自己統率力が非常に低い、誘惑には大変弱い、善悪の判断力が極端に乏しい、人の顔色を窺うのは得意で欺く気質があるとのことです。

自分が気に入ったことしかしない性格で非行、不良化する素質があることは見て充分にわかると記録されていました。

瀬戸内シージャック事件のその後・現在は?

瀬戸内シージャック事件はその後も話題となりました。射殺は対処として正しかったのか間違っていたのか議論されるようになったのです。

多くの人間はやむを得ない処置だったと感じましたが、弁護士が告発する事態にまで発展しました。

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