帝銀事件の詳細と真相!平沢貞通は冤罪だった?真犯人を考察! 社会

帝銀事件の詳細と真相!平沢貞通は冤罪だった?真犯人を考察!

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毒物に知識のない平沢貞通が12人を同時に殺害は困難?

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帝銀事件の犯人は、これほどの毒薬を一度に数十人に服用させることができたことから、毒物の扱いに精通している人物であることが想像できます。

しかしながらここまでお伝えしてきたように平沢貞通は画家であり、そしてその周辺・身内には誰一人毒物の知識を持つ人物が見当たりません。

平沢貞道は画家だったこともあり「画材の中に毒物があったのでは?」という憶測もありましたが、これはのちに否定されています。

市販の青酸カリは即効性がある

青酸カリには即効性があるため、もし内服した場合にはその場で即死…ということになります。

しかし帝銀事件の場合は被害者が即死ではなかったことから、遅効性(少し時間が経ってから効果が現れる)の有機青酸化合物だった可能性が指摘されています。

平沢貞通は狂犬病、コルサコフ病の欺瞞虚言癖や空想性虚言癖があった

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平沢貞通は33歳の時に狂犬病の予防接種を受けていました。しかしこの狂犬病の予防接種には副作用があり、その副作用は「コルサコフ症候群」と呼ばれています。

コルサコフ症候群の症状として、虚言癖・記憶障害・判断力の鈍化などがあります。また相手が喜びそうな嘘をついてしまうというのも特徴です。

このような症状が出ている状態で供述を行って自白してしまったなら…冤罪の可能性は高くなるでしょう。

微妙な平沢貞通のアリバイ、GHQの軍曹はなぜ突如帰国した?

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現に平沢貞通にはアリバイがありました。しかし事実無根として警察は取り上げませんでした。

事件当日の午後は丸の内にいた娘婿・東日暮里にいた娘に会っていたことが裁判でも証言されていますが、実はもう一人の人物にも会っていたことが分かっています。

それはGHQの軍曹だったのですが、帝銀事件が発生した後でアメリカに突然帰国してしまいます。彼の証言があれば平沢貞通は容疑者として逮捕・起訴されることはなかったのかもしれません。

犯人の目的は金ではなかった?

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犯人の男は犯行後に銀行を去る時に、現金と小切手を持ち去っています。

現金と小切手の被害総額は約18万円ですが、金庫の中にはその倍の金額の大金が保管されていました。また出納係の机の上には約40万円もの大金が置かれていました。

犯行時刻から事件が発覚するまでの間には時間的な余裕もあったはずです。このことからも当初から金目当ての犯行とは考えられなかったのでしょう。

帝銀事件の真犯人は?歯科医が真犯人?

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帝銀事件で逮捕された平沢貞通は冤罪ではないかという疑念を持つ人が多かったこともあり、真犯人についてさまざまな憶測が飛び交いました。

中でも731部隊出身者・陸軍元兵士・歯科医説などが有力でした。

帝銀事件の真犯人?①731部隊出身者説

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帝銀事件で使用された毒物は遅効性の有機青酸化合物です。そのため犯人は当初、旧日本軍の関係者の中にいると推測されていました。

旧日本軍のなかでも特に731部隊では、遅効性の有機青酸化合物を研究していたことが知られています。

731部隊とは

第二次世界大戦時に中国・満州を中心に活動していたのが旧日本軍の731部隊です。正式名称は関東軍防疫球給水部本部といいました。

感染症の予防や水の衛生を保つ任務を与えられていましたが、同時に毒物や細菌兵器の研究・開発を行っていました。中国人を使った人体実験などを行っていたことでも知られています。

GHQが731部隊の捜査を打ち切らせた理由

GHQと731部隊には今でも何らかのつながりがあったと考える人が少なくありません。実際に戦後の裁判においても旧731部隊に所属していた軍人が裁かれることはありませんでした。

実はGHQと731部隊には密約があり「中国で行っていた人体実験の研究結果などのデータをGHQに譲渡していたのではないか?」という見方もあるぐらいです。

こういった背景が事実なのだとしたら、GHQが警察に圧力をかけて捜査を打ち切らせたのも納得できます。

帝銀事件の真犯人?②陸軍元兵士説

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第二次世界大戦中に朝鮮半島に派遣された陸軍兵士ではないかという説もあります。実際に警察の初動捜査の段階で「戦時中に毒殺を担当していた陸軍元兵士」が捜査対象となっていました。

実際に陸軍の軍医少佐だったある人物が捜査線上に浮上しており、犯行現場の近辺に住んでいました。モンタージュ写真に似ていることから通報されたこともあったとのことです。

しかし捜査の手が及ぶと伊豆方面に逃走してしまいます。その後、この人物は某製薬会社の役員として復帰していますが、社内では「帝銀事件の犯人なのでは?」という噂が絶えませんでした。

帝銀事件の真犯人?③歯科医説

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帝銀事件の真犯人として歯科医説が浮上した経緯もあります。なぜなら帝銀事件で行員たちに1つ目の薬を飲ませる際に、「この薬は歯の琺瑯質を痛めるので、舌に包み込むようにして飲むように」と説明しています。

「琺瑯質」とは歯のエナメル質のことですが、琺瑯質という言葉を知っているのは歯科の専門家だけです。さらに歯科医には派閥があって「琺瑯質」という言葉を使用する派閥は限られていました。

このことから帝銀事件の真犯人は歯科医ではないか?と騒がれたのです。

帝銀事件の生き残りについて

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帝銀事件で犠牲になったのは12名です。その中には当時住み込みで働いていた用務員夫婦の子供(8歳)も含まれていました。

しかしそのような状況の中でも4名が生き残っています。

帝銀事件の4人の生き残りとは誰?

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事件現場には当時、犯人の男と行員16名がいました。そのうち10名がその場で死亡、残りの6名は救急車で搬送されましたが、うち2人は死亡し残る4人は一命をとりとめています。

生き残ったのは吉田竹次郎(支店長代理)・村田(竹内)正子・田中徳和・河久沢芳子の4名です。

帝銀事件の4人の生き残りはどうして生き残った?

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生き残りの4名のうちの1人である吉田竹次郎(支店長代理)は、2つ目の薬を服用した後で井戸に行って「うがい」をしています。

他にも同様に2つ目の薬を飲んでから洗面所に向かった人がたくさんいたという供述から、生き残った4人は「うがい」をしていたために一命をとりとめたようです。

帝銀事件の4人の生き残りのその後

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帝銀事件の4人の生き残りのひとりである預金係の村田正子は、ある時平沢貞通の支援者に連れられて容疑者として疑われた歯科医を訪れます。

もちろん本当にこの歯科医が犯人かどうかを確認するためです。実際に歯科医にあった時には震えが止まらなかったといいます。

しかしこのエピソードについては本人が否定したという話もあります。残念ながら他の3名に関する具体的な情報は伝わっていません。

生き残りの証言について

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生き残った4人の証言から、帝銀事件の実行犯の年齢は40~50代ぐらいで鼻立ちの通った男性…といった特徴が判明しました。日本初となったモンタージュ写真が捜査でも重要な役割を果たしています。

しかし生き残った4人は逮捕された平沢貞通と面通しをした際に、平沢貞通を犯人といった者はひとりもいませんでした。先述の村田正子はその後も犯人は平沢貞道ではないと強く否定しています。

帝銀事件のその後

昭和の犯罪史に大きな爪痕をのこした帝銀事件ですが、その後はどのようになっていったのでしょうか?

再審請求、恩赦願は受け入れられず

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当然ながら帝銀事件は多くの人々の関心を集めました。自白を強要されたこと、物的証拠が少ないことなどから平沢貞通は容疑者ではないのでは?という見方が広がります。

「平沢貞通氏を救う会」が創設され、「帝銀事件で逮捕された平沢貞通は冤罪に違いない」という認識が広がる中で、再審請求を求めますが棄却されてしまいます。

さらに恩赦願いも提出されますが受理されていません。

平沢貞通の妻と子供への影響

帝銀事件の影響で、当然ながら平沢貞通の家族に対する風当たりは強いものとなりました。妻は離縁、子供たちは除籍することとなります。

しかし妻は離縁しても夫を信じて献身的に尽くしますが、妻は85歳で死去してしまいます。愛する妻に先立たれ、ひとり残された平沢貞通は心身ともに衰えてしまいます。

松本清張ら支援者が釈放運動

平沢貞通が冤罪であると確信し、作家の松本清張・政治家の小宮山重四郎といった著名人が立ち上がります。

法曹界からも再審や恩赦に向けた活動に加わる人が多数参加します。また帝銀事件の初期の捜査に関わり、当時退職していた成智英雄も釈放運動に加わります。

昭和60年、読売新聞で帝銀事件に関する記事が掲載される

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1985年(昭和60年)に読売新聞がGHQの秘密文書の内容を報じています。

それによると帝銀事件の犯行の手口が軍科学研究所の作成した指導書と同じものであること、犯行に使用された道具などが軍科学研究所で使われていたものと同じものだというのです。

またこの文書の中では、GHQが旧731部隊への捜査を打ち切るように命令したことにも言及されていました。

昭和62年5月10日、平沢貞通が病死

再審請求・恩赦願いも通らず、昭和37年には宮城刑務所に移送されます。一部の報道機関は環境の悪い所へ移すことで死を早めようとしているのではないかとも報じています。

しかし当時の東京拘置所には死刑執行の設備がなく、死刑囚はみな宮城刑務所に送られていました。しかし歴代の法務大臣は誰1人として平沢貞通の死刑執行のサインすることはありませんでした。

肺炎だった平沢貞通は昭和62年5月に八王子医療刑務所で死去、95歳でした。

養子・武彦の死亡

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平沢貞通が病死した後も、養子であった武彦と冤罪運動の支援者たちが再審請求を続けました。

しかし平成元年、武彦は自宅にて孤独死の状態で発見されています。武彦の死後も遺族屋支援者によって再審請求は続けられています。

事件の捜査を行った刑事やその関係者は犯人は元陸軍関係者と主張

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事件発生直後から旧日本軍が事件に関与しているのではないか?と疑われていました。

中でも帝銀事件の初期の捜査関係者の1人である成智英雄は、旧日本軍731部隊で青酸カリが使用されていたこと、犯人が青酸カリの扱いに慣れていたことなどから、犯人は元陸軍関係者であることを証言しています。

実は旧731部隊に所属していたある人物が最も有力な容疑者として浮上していましたが、平沢貞通が逮捕されたことで容疑者から外れたのです。

帝銀の跡地は今どうなっている?

気になるのが帝銀の椎名町支店のあった場所が、今どうなっているか?という点ではないでしょうか。帝国銀行椎名町支店自体は銀行の統廃合のためなくなってしまいます。

事件のあった場所は西武池袋線の椎名町駅から歩いて数分の所にある長崎神社の近くになります。事件後、飲食店・不動産屋などを経て現在はマンションになっています。

実際にこのマンションに住んでいる人がいるとのことですが、心霊現象が起こるといった話は聞かれません。

帝銀事件の関連作品

戦後最悪の犯罪となった帝銀事件ですが、当然のことながら小説や映画・テレビドラマでも大きく取り上げられました。特に注目された作品は以下の3つになります。

小説:小説帝銀事件

「小説帝銀事件」(角川文庫)は、平沢貞通の冤罪を主張し続けた作家の松本清張の小説です。

社会派推理小説家として知られる松本清張ですが、この小説は当時の裁判を批判するものと受け止められています。

「小説帝銀事件」は1959年に第16回文藝春秋読者賞を受賞しています。

映画:帝銀事件死刑囚

昭和36年、熊井啓監督による映画「帝銀事件死刑囚」が公開され、帝銀事件に一層スポットライトが当たるようになります。実際に熊井監督は宮城刑務所にいる平沢貞通を訪ねています。

この「帝銀事件死刑囚」は真犯人を追求しようという趣旨の映画だったことから、平沢貞通は映画の公開を喜んでいたそうです。

ドラマ:帝銀事件・大量殺人獄中32年の死刑囚

ドキュメンタリードラマ「帝銀事件・大量殺人獄中32年の死刑囚」は、昭和55年にテレビ朝日系で放映されました。画家の平沢貞通を仲谷昇が、古志田警部補を田中邦衛が演じています。

ちなみにこのドラマが放映されたのは帝銀事件が発生した1月26日です。

帝銀事件はまだ解決していない

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帝銀事件は戦後最大の毒殺殺人として人々の記憶に刻まれました。同時に「冤罪」についても深く考えさせられる事件でもあります。

しかし事件発生から70年以上も経過した今も再審請求が続けられており、完全な解決に至っていません。一日も早い事件の真相究明、そして完全解決が望まれます。

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