帝銀事件の詳細と真相!平沢貞通は冤罪だった?真犯人を考察!

戦後最悪の毒殺事件となった「帝銀事件」は、一人の著名な画家の逮捕で一件落着かのように思われました。しかし「冤罪ではないのか」「事件の背後にはGHQが関わっているのではないか?」など、未だに解明されない謎の部分が存在しています。

帝銀事件とは?銀行の押入りによる毒物殺人事件

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帝銀事件とは、昭和23年に帝国銀行(現在の三井住友銀行)の椎名町支店(統廃合により現存せず)で発生した、戦後最悪の毒物による殺人事件です。

犯人が逮捕されましたが今現在となっても多くの謎が残されており、事件の真相解明が待たれています。

昭和23年1月26日、帝国銀行椎名町支店に男が現れる

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昭和23年1月26日のことです。東京都豊島区長崎の帝国銀行・椎名町支店に一人の男が現れます。男が現れたのは午後3時過ぎ、まだ行内では数人の行員が勤務していました。

目撃者によると、男は40代半ばで東京都防疫班の腕章をはめており、筋が通った顔立ちだったと語っています。

この日、支店長は体調不良のため早退しています。支店長代理が男の対応をし、東京都の衛生課・厚生省の医学博士と書かれた名刺を受け取っています。

男は集団赤痢の予防薬として薬を飲むよう指示

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その男は支店長代理に次の様に伝えています。

「近くの井戸で集団赤痢が発生した」「感染者の1人が今日この椎名町支店に来ていることが分かっている」

そのため一刻も早く「消毒が必要」として、行内にいるすべての人を集めるように指示します。男は本体の消毒班が来る前に消毒薬を飲む必要があることを告げます。

薬を飲んだ行員は倒れ、1人の行員が外の女学生2人に助けを求めて事件発覚

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服用する消毒薬は飲み方が複雑(2種類の薬を2度に分けて服用する)であると男は説明します。そこでまず自分が見本に薬を飲むので、同じように薬を飲むように行員たちに要求します。

男はカバンの中から2種類の薬瓶を取り出し、湯呑茶碗に薬をとりわけて一人一人に渡しました。一つ目の薬を飲むと行員たちは苦みを訴えますが、二つ目の薬を飲んだ直後さらに症状が悪化し次々と倒れていきます。

午後4時過ぎに一人の行員が苦しみもがきながら外に出て、通りを歩いている2人の女学生に助けを求めています。その後、警察が銀行に駆けつけますが行内には想像を絶するような光景が広がっていました。

昭和22年10月14日、安田銀行荏原支店で類似の未遂事件

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実は事件発生前に同様の手口の未遂事件が発生しています。昭和22年10月14日、安田銀行荏原支店に一人の男が訪れ「赤痢の患者がここを訪れたので消毒の必要がある」と支店長に告げています。

支店長は近くの交番に事実確認をするために外出します。支店長の外出中に行員たちが薬を飲まされますが、幸いにも帝国銀行のような惨劇には至っていません。

またこの時にも男は名刺を支店長に渡しています。「厚生技官・医学博士・松井蔚」という名刺ですが、のちにこの名刺が事件解決の大きなポイントになります。

昭和23年1月19日、三菱銀行中井支店で類似の未遂事件

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帝銀事件の約1週間前には、三菱銀行の中井支店でも同じような手口で行員たちに薬を飲ませようとした事件がありました。この時には支店長の機転などによって、最悪の事態は未然に防がれています。

またこの時に男が差し出した名刺には「厚生技師官・医学博士・山口二郎」と記載されていました。

帝銀事件が起こった時代背景

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帝銀事件が発生したのは戦後まもない、GHQが未だに日本を占領している時です。戦後の混乱は下火になりつつある時でしたが、上下水道といったインフラはまだ完全に整備されていない状況でした。

「井戸で赤痢菌が発生した」という情報を耳にすること自体そう珍しいことではありませんでした。こういった背景も事件発生につながっています。。

帝銀事件の捜査

今までに類を見ない殺人事件となった帝銀事件ですが、捜査はどのように展開していったのでしょうか?先ほども少し触れたのですが、銀行の支店長たちに差し出された「名刺」が犯人逮捕の決め手となります。

類似事件の名刺、犯人の似顔絵、小切手をもとに捜査

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帝銀事件では支店長代理が事件発生後に名刺を紛失しています。また未遂事件で使われた2つの名刺のうち、三菱銀行中井支店で差し出された「山口二郎」は架空の人物と判明しました。

ただし安田銀行荏原支店で使われた「松井蔚」の名刺は本物で実在人物でした。松井蔚は事件のアリバイも成立していることから、松井蔚が名刺を渡した人物の中に犯人がいると推測されました。

さらに目撃者の証言による犯人の似顔絵から、日本では初めてとなるモンタージュ写真が作られ注目されました。また紛失した小切手の行方についても捜査の焦点となりました。

遺体から青酸化合物が検出されたことから旧陸軍731部隊を中心に捜査

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また事件で使用された毒物を特定する作業も進められ、最終的に青酸化合物であることが判明しました。

毒物に詳しい人物の犯行であると推測し、犯人は衛生予防の専門家や医療に従事する者、さらに軍の関係者という線で捜査を進めていきます。

昭和23年6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示

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目撃者の証言などから、犯人は青酸化合物の取り扱いに慣れている人物と推測されました。

さらに陸軍の第9研究所から有力情報が得られ、旧日本軍の731部隊に所属していた人間ではないかという結論に至ります。モンタージュ写真とも相違がありませんでした。

そのため藤田刑事部長は捜査対象を軍関係者とし、配下の成智警視が容疑者の追跡を始めました。

GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられる

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しかし当時の日本はGHQの支配下に置かれ、政府はもちろんのこと警察・検察もGHQの指令に従わざるを得ない状況でした。

そのGHQから帝銀事件の旧陸軍関係への捜査中止を命じられてしまいます。さらに事件を追及していた読売新聞の記者も、これ以降事件の取材を中止しています。

類似事件で悪用された松井蔚さんの名刺による捜査

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安田銀行荏原支店で使用された「医学博士・松井蔚」の名刺は本物でした。そして松井本人もアリバイが完璧に成立するため、犯人は松井蔚が名刺を渡した相手の中に犯人がいると断定します。

松井は名刺を100枚発注し、そのうちの約90枚の名刺を渡していました。警察はこの約90枚の行方を徹底的に調べます。

するとあるひとりの男の存在が浮かび上がります。それは松井蔚が北海道に行った帰りに青函連絡船で知り合った男に名刺を渡していました。それが画家の平沢貞通だったのです。

昭和23年8月21日、テンペラ画家の平沢貞通が逮捕された

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平沢貞通(雅号は大暲)は当時権威ある有名な画家として知られていた人物です。有名な画家ということもあって当初は容疑者候補から外されていました。

しかしモンタージュ写真に似ていることなどから再び焦点が向けられて、ついには逮捕に至ります。

平沢貞通逮捕に至った理由

平沢貞通がモンタージュ写真に似ているという理由もあるのですが、それ以外にも平沢貞通が事件の容疑者であることを証明するような点がいくつか見受けられます。

逮捕理由①松井蔚さんと名刺交換していたが、名刺を持っていなかった

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平沢貞通は松井蔚と実際に名刺交換を行っています。ただし松井蔚から渡された名刺を所持していなかったことから、事件への関与が濃厚とみなされてしまいます。

実は名刺を入れた財布は盗難に遭っており、その際に警察に被害届を提出しています。

しかしこの事実は全く取り上げられませんでした。

逮捕理由②事件発生時刻のアリバイが証明できなかった

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実は平沢貞通は事件発生当時にアリバイがありました。事件の発生する約1時間前には娘婿のいる丸の内におり、複数の人が平沢貞通を目撃しています。

その後東日暮里の娘の元を訪れ、午後3時半すぎまで滞在しています。

裁判ではこれらの証言が取り上げられましたが、警察側からは証拠が不十分ということで認められませんでした。

逮捕理由③事件直後に被害総額とほぼ同額を預金していた

平沢貞通が容疑者として疑われた理由の1つに、帝銀事件で被害に遭った金額とほぼ同額のお金を事件後に預金していた事実があります。

平沢貞通がこのお金の出所について語ることはついにありませんでした。この事件について深く関心を寄せた作家の松本清張は「春画の取引」によって得たお金ではないかと推測しています。

実際に後になって平沢貞通が描いたものではないかと思われる春画が見つかりますが、本人のサインなどが入っていないために断定することができていません。

平沢貞通逮捕後の取り調べと裁判の判決

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事件発生から約7か月後、帝銀事件の犯人として画家の平沢貞通が逮捕されます。当時平沢貞通は北海道の小樽に滞在していました。

平沢貞通は東京まで護送されましたが、犯人を一目見ようと上野駅は大勢のやじ馬でごった返したほどです。

平沢貞通は容疑を否認

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逮捕された平沢貞通は最初は帝銀事件の容疑を否認します。平沢貞通が逮捕された当初は、警察内でも「平沢貞通はシロ」という見方が多かったといいます。

証拠不十分ですぐに釈放されるという見方が強かったのも事実です。

ただし実際に取り調べが始まると、平沢貞通にとって不利な状況になっていきます。

警視庁は平沢を被害者に面通しするも、被害者は犯人と断言せず

警察は平沢貞通を事件の被害者に面通ししますが、被害者たちは平沢貞通を犯人であると誰ひとり断言しませんでした。

面通しの結果、平沢貞通がシロであるのは間違いなかったはずです。しかし警察側は平沢貞通を逮捕した以上は後に引けない状況だったのでしょう。

当時平沢貞通の弁護士を務めていた人物も、逮捕したからには自白に持っていかざるを得なかったのではないか…と振り返っています。

昭和23年9月23日、平沢貞通は自供を始める

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平沢貞通は逮捕後に事件への関与を頑なに否定していました。しかしその後の警察の調べで複数の詐欺事件に関与していることが判明し、平沢貞通は関与を認め起訴されることになります。

さらに警察側はこの別件に関する事情聴取を重ね(約60回)、ついに平沢貞通は帝銀事件についての関与も認めてしまいます。

しかし実際に犯行に関しての供述はあいまいで、供述内容と実際の犯行では大きな食い違いがみられます。

平沢貞通の取り調べを行った平塚八兵衛

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帝銀事件で平沢貞通の取り調べを行ったのは平塚八兵衛でした。平塚八兵衛は当時「オトシの八兵衛」という異名を持つ凄腕の刑事として知られていました。

平塚八兵衛は昭和38年に発生した「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の捜査を担当し、容疑者の自供を引き出したことで有名な刑事でした。

10月12日、平沢貞通は帝銀事件と2件の類似事件で起訴される

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平沢貞通は自供の中で湯呑茶碗をコップ、青酸化合物なのに濃塩酸と供述するなど、事実と異なる点がいくつもあります。さらに決め手となる物的証拠も極めて少ない状況です。

しかし、先ほどもお伝えしたように警察も一度逮捕してしまったからには、後には引けない状況です。

警察側は平沢貞通の自白だけを根拠に帝銀事件と類似の2つの事件で起訴することになります。

12月20日、東京地裁の公判で平沢貞通は自白を翻し無罪を主張

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警察の取り調べでは自白したものの、公判の席で平沢貞通はひるがえって無罪を主張します。

そして次のように述べています。「自分は犯行は行っていない、しかしなぜ自白に至ったのかはご想像できるでしょう。」つまり自白の強要があったということを示しているのです。

1950年7月24日死刑判決、その後控訴・上告棄却で死刑確定

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10月には帝銀事件とその他2つの同様の事件で起訴され、東京地方裁判所での第一審判決で死刑の判決が下ります。

その後、東京高等裁判所に控訴するも棄却、最高裁判所でも上告が棄却されて死刑判決が確定します。

平沢貞通は逮捕後自殺を図っていた

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また、平沢貞通は逮捕後に数回拘置所内で自殺を図っていました。最初は逮捕されてから4日後に、その後も2回の自殺未遂をしています。

それだけ「オトシの八兵衛」こと平塚八兵衛の取り調べは、非常に厳しいものであったと推測できるでしょう。

帝銀事件の真相に迫る謎、平沢貞通は冤罪だった?

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これまでのいきさつを見てみると、自白内容と事件の状況が一致しないなど「本当に平沢貞通は犯人なのか?」という疑問を持つでしょう。

実際に平沢貞通は冤罪だったのではないかと考える人は少なくありません。

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毒物に知識のない平沢貞通が12人を同時に殺害は困難?

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帝銀事件の犯人は、これほどの毒薬を一度に数十人に服用させることができたことから、毒物の扱いに精通している人物であることが想像できます。

しかしながらここまでお伝えしてきたように平沢貞通は画家であり、そしてその周辺・身内には誰一人毒物の知識を持つ人物が見当たりません。

平沢貞道は画家だったこともあり「画材の中に毒物があったのでは?」という憶測もありましたが、これはのちに否定されています。

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