山形マット死事件の概要!村八分にあっていた?冤罪?真相と犯人の現在

1993年に起きた山形マット死事件は、被害者である有平君の上級生や同級生によるいじめの結果亡くなっていますが、事件の真相解明は長期化し、犯人である当時の少年達は、現在公務員になった人もいます。また事件の背景として地域性による「村八分」があったようです。

山形マット死事件とは

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山形マット死事件とは、1993年に山形県新庄市立明倫中学校で発生した、男子中学のいじめによる死亡事件です。この事件により、学校現場の深刻ないじめが明かになりました。

山形マット死事件の概要

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山形マット死事件は、1993年1月13日夕方、通常帰ってくる時間になっても帰ってこなかった児玉有平君の両親が心配して、部活顧問に連絡したことから内容が分かってきます。

知らせを受けた学校側は、学校に残っていた教師や生徒達によって有平君の遺体を発見することになります。

加害者とみられる7人の児童は、当初犯行を認めていましたが、その後は全面的に否認し、加害者児童の家族や地域住民や弁護団によって、「山形明倫中学裁判・無実の元少年たちを支援する会」が結成されます。

1993年1月13日夕方、児玉有平さんが帰宅しないため両親が部活動顧問に連絡

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 事件の始まりは、1993年1月13日の夕方、明倫中学1年の児玉有平君(13歳)が、英語の塾になっても家に帰ってこないことでした。日頃から几帳面な有平君にとって、それはありえないことでした。

両親は心配して近所を歩いて探しましたが、それでも有平君は見つからず、有平君の所属する卓球部の顧問教師に電話をかけました。「今日、私は部活に出ていないので学校に電話して聞いて見ます」と答えたそうです。

その連絡を受けて、卓球部の顧問教師は学校に残っている教師に連絡し、児玉有平君の行方を捜すことになります。

1993年1月13日午後8時15分頃、児玉さん宅へ中学校の教諭から電話

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電話を待っていた両親は、午後8時15分過ぎに中学の教諭から電話がかかってきました。電話の内容は「見つかりました。有平君が逆さづりになって見つかりました」というものでした。

児玉有平さんがマットに巻かれ、逆さ吊りの状態で発見される

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 有平君は、まだ学校にいた教師と、すぐ隣にある小学校の生徒を中心とするバトミントンのスポーツ少年団と、中学校のバトミントン部の生徒たちによって捜査されました。

体育館のマット用具室に中で、立てかけられてあったマットに巻かれた状態で、逆さづりにされている有平君を見つけました。室内は真っ暗で、暗闇の中を自分でマットに潜り込むのは考えられないような状況でした。

 有平君はマットに巻かれた状態のまま、亡くなっていました。駆けつけた有平君の父親は、無残な息子の遺体と対面しましたが、有平君の顔はうっ血し2倍の大きさに膨れ上がった無残なものでした。

校長はいじめや暴行などはなかったと説明

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有平君の顔は誰なのか判別しにくいほど腫れあがっていましたが、鼻筋や唇にかろうじて有平君である面影を認められました。動転した父親は当時、「だれがやったんだ!おまえか!」と教師に掴みかかりました。

父親は興奮してしまい、そんな異常な行動も父親は覚えていないといいます。それくらい父親は気が動転していたということでしょう。

翌日から同校には多数の報道陣が駆けつけ、いじめの事実を質問しましたが、校長はこの時「いじめや暴行など、教員が介入しなくてはならないことは、まったくありませんでした」と語っています。

児玉有平さんの死因は胸部圧迫による窒息死

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児玉有平さんの死因は、司法解剖の結果、「胸部圧迫による窒息死」だと判明しています。顔面は全体的にうっ血があり、上半身には痣があったそうです。

1月17日に行われた、有平君の葬儀は家族の希望で、有平君が尊敬していた手塚治虫のアニメ「鉄腕アトム」の主題歌が流されたそうです。

以下が検視の記事です。

本件の被害者は検死の結果、死因は窒息死と判断された。また被害者の顔面にはマットに圧迫されたことを示す赤紫色の腫れが見られたものの、顔面に擦過傷の痕跡は認められなかった。このため検視の上では、被害者が暴行を受けマットに押し込まれたとする決定的な証拠は発見されていない。後に本件の公判において、この擦過傷が無かった状況を重要な論拠として被告弁護側が『被害者が自らマットに入っていった』などと無罪を主張した。(引用:NAVERまとめ)

山形マット死事件の犯人

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山形マット死事件の加害者は、当時中学2年と3年だった7人だったことが分かりましたが、その供述に一貫性はありませんでした。

加害者の少年Aが自白

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新庄署内での事情聴取では、同校2年のA(当時14歳)が事件の一部始終を告白していました。それによると、Aと仲間数人で有平君に暴行を加え、マットの中に押し込んでいたことが判明しました。

そのAの自白によって、暴行を加えたという仲間に捜査官が事情を聞いたところ、ほかの少年達も相次いで自白したといいます。翌日にAのほか6人の少年が逮捕・補導されています。

加害者Aの自白内容とは

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加害者Aは、有平君の事を知ったのは「一発芸をしてみんなを笑わせる奴」というのを聞いたからだと話しました。Aは中学校の昇降口などで、他の2年生が有平君に一発芸をさせているのを見ていたそうです。

有平君は、標準語を話す金持ちの家の子であったことが、いじめへとエスカレートすることとなり、性格もおとなしく、無理やり一発芸をさせても断らなかったそうです。Aはそんな有平君に目をつけるようになりました。

Aたちは93年9月頃から、有平君をいじめるようになり、Aと友人の2人は、有平君を呼び出して、ほほの肉を指でつまんで「たこ焼き」の一発芸を無理にさせ、Aは有平君の肩を、Aの友人は背中を殴っています。

 加害者Aによる事件当日のはなし

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加害者であるAは以前、体育館のマット用具室にあるマットに頭から入って遊んだことがありました。Aはマットの中が思った以上に窮屈で、呼吸が難しくなったことで、友達に必死で呼びかけて救助してもらっています。

Aはその時の恐怖を覚えていて、その事が有平君の死因につながることとなります。事件のあった93年1月13日、体育館のマット用具室の前に、Aを含めサッカー部やバトミントン部、野球部などの7人がいました。

7人は有平君をマット用具室に押し込み、顔面を殴ったり、足をけり上げたりを繰り返しました。そして有平君が一発芸を断った事でさらにいじめはエスカレートし、Aがむりやり有平君をマットの中に入れたといいます。

以下にマット死事件直後の様子の記事を紹介します。

「許してください。助けてください」
マットの中から叫び声が聞こえても、7人の少年達は聞く耳を持たず、マット用具室を出ていった。Aはそのままマット室の前でBとEでバスケットをして、午後5時頃学校を出て、恋人とデートを楽しんでいた。有平さんをそのままにしておいては危険だとAは知っていたが、「他の誰かが引き上げるだろう」と自ら救出に行くことはしなかった。(引用:NAVERまとめ)

Aによる最初の供述とは

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最初の供述を翻した裏にはどんな事が起きていたのか、それはマット室で暴行があった翌朝、Aは母親から有平君が亡くなった事を知らされています。そして登校したAは同じクラスだったDに口止めしています。

 この日の昼には、警察から前日からの行動について聞かれていますが、「体育館には行っていない」「児玉君には会わなかった」という供述を一貫しています。聴取後はEにも口裏を合わせようとしていました。

また、その日の夜9時頃にBとの電話でも、お互いに嘘をつき通すことを確認しています。翌日15日の朝にはCに対して電話をして口止めをしています。Aは1年生だったFやGには口止め工作をしていませんでした。

Aに対する2度目の事情聴取

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1月17日にAは2度目の事情聴取を受けています。その事情聴取を終えた午後6時頃、Aに1人の婦警が声をかけています。この婦警は防犯課勤務のベテランで、Aはバイク盗難事件でこの婦警に補導されています。

この婦警はAにとって、母親のような存在だということで、新庄市内の非行少年も一目置く存在だったようです。「どうしたのA君?」という質問に、Aはあっさりと婦警に犯行を自供し始めました。

その時に、Aは加害者の他の6名の名前を挙げています。その後の山形県警の事情聴取では、7人の生徒はこの時点で犯行を認めています。

当時14歳の生徒3人が逮捕、13歳の生徒4人が補導される

 この山形マット死事件によって、山形県警は障害、監禁致死の容疑で、死亡した児玉有平君をいじめていた、当時14歳の上級生3人を逮捕し、当時13歳だった同級生の4人を補導しています。

一時は犯行を認めるも、供述が反転

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 最初の供述で7人とも犯行を認めていましたが、1月25日には供述を翻す少年が出てくるようになります。「児玉有平君のいじめでは、まずEが最初に殴っていた」ということでした。

しかしEは「今まで言った事は全て嘘です。実は児玉君の顔もよくわかりません」「僕は児玉君に何もしていません。あの日、Bコートの方には1歩も入っていません」などEは全面否定に転じています。

 Eが否認してことで、他の少年達も次々に供述を翻すようになりました。加害少年の弁護団は、「児玉有平君は、ひとりで遊びをしていて自分からマットに入って死んだ」という事故説をたてました。

「山形明倫中裁判・無実の元少年たちを支援する会」の結成

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 日弁連の「子供の権利委員会」に所属していた人権派弁護士が乗り出し、その後、「山形明倫中学裁判・無実の元少年たちを支援する会」が結成され、いじめ・暴行事件と冤罪との間でこの後争われることとなります。

体育館で児玉有平君と少年達を目撃していた生徒達の中には「あれは嘘でした」と言い始める人まで出てきました。当時体育館にいた50人近くの生徒達ほとんどが「知らない。見ていない」などと言いだしました。

結局、1人の少年を除いた6人は犯行を否認した形となりました。

いじめ・暴行事件と冤罪との争いへ

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加害者と見られる少年6人が、犯行を認めないことで、事件の真相はなかなか解明されず、また「山形明倫中学裁判・無実の元少年たちを支援する会」が結成されるなどの後ろ盾もあって、事件解明は難航しました。

学校側が事故直後に実施した無記名アンケートでは「有平君をいじめているところを見たことがありますか」という問いに、300名以上の生徒のうち17名が「見たことがある」と回答しています。

ただ、「暴行があった」と答えた生徒は1人もいませんでした。

加害者の実名は報道されず

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残酷な事件の加害者でもありますが、未成年という少年法もあって、報道では加害者の実名は報道されていません。

事件から2ヶ月後の93年3月9日、校長は事件の管理責任を問われ、20日の停職処分を受けています。また、事件直後から体調を崩し、休みがちだった校長は退職し、教頭と有平君のクラブ顧問は転出しています。

山形マット死事件の裁判と事件の真相

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 1993年8月の山形地裁では、「7人全員の関与」としましたが、2002年3月の損害賠償請求では、事件性は全くないものとし、無罪を言い渡しています。

しかし、損害賠償請求での2005年9月の最高裁では、少年側の上告を棄却し、賠償判決が確定しました。

1993年8月、山形家裁が3人を不処分、3人を保護処分へ

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 1993年8月の山形家裁では、3人を監護措置、3人を不処分としていましたが、監護措置となった3人がすぐに抗告しています。仙台地裁は一審で棄却し、今度は「7人全員の関与」と判断しました。

93年9月に、加害者とされる同級生2名を少年院送致し、1名に救護員送致の保護処分が下されています。あとの1名の同級生は児童相談所へ送致されました。

1994年、7人全員に保護処分確定

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 また、一審に対して上告がありましたが94年3月、最高裁でも二審判決が正当とし、7人全員の事件関与が確定しました。このことで、3人の少年の処分は有罪と確定しました。

加害者達は「被害者の少年は事故死」として提訴していましたが、翌年に提訴を取り下げています。

1995年、児玉有平さんの両親が少年7人と新庄市に対し損害賠償請求

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 少年側は、「無実」を訴え、再審請求を申し立てましたが、山形地裁、仙台高裁がこれを棄却し、95年の最高裁も棄却したため、刑事裁判は決着しました。

児玉有平君の遺族は、これとは別に95年に7人の少年と新庄市(中学側)に対して総額1億9千万円の損害賠償を請求しました。

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