ひかりごけ事件の概要と真相!人肉を食べた船長は船員を殺害した?

1944年に起きたひかりごけ事件は、日本ではじめて人肉食によって実刑判決が下された事件です。当時は太平洋戦争中であり、徴用船は小樽に行く途中に知床岬に座礁してしまいます。船長のみが生き残った真相には、人肉を食べていたという事実がありました。

ひかりごけ事件とは

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ひかりごけ事件とは、1944年5月に北海道目梨郡羅臼町で起きた、死体損壊事件です。当時の旧日本陸軍の徴用船が難破し、真冬の知床岬に置かれた船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びていたという事件です。

ひかりごけ事件の概要

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この事件は太平洋戦争中の1944年5月に徴用船が遭難し、知床岬に座礁したことから始まります。

7名の船員のうち船長のみが牡蠣小屋に辿り着き、その後に最年少だった船員も辿り着いたのですが、彼は亡くなります。

その後生き残った船長は、海藻やアザラシを食べて生き延びたと証言していますが、彼が食べていたのはそれだけではなかったそうです。

戦時中にオホーツクの海で船が遭難!

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1943年12月、太平洋戦争の真っ只中にあった日本陸軍の徴用船が、7人の乗組員を乗せて根室港を出港し、船体を修理する為にオホーツク海まわりで、小樽へ向かっていました。

しかし、知床岬沖で時化に遭い徴用船は遭難し、知床岬で座礁します。

船長の供述による遭難した経緯と船長や船員の状況

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船から退避した船員たちは、知床半島のペキンノ鼻に降り立ちましたが、真冬の北海道は雪と氷と吹雪で覆われている地域で、飢餓と寒さのためすぐに5名は死亡しています。

徴用船の船長は当時29歳で、他の船員とははぐれましたが、一軒の牡蠣小屋にたどり着いています。やがて船員の最年少だった当時18歳だった船員も吹雪の中、この牡蠣番屋にたどりついています。

世間では「不死身の神兵」と呼ばれることとなる生き残った船長

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船長が故郷に帰還することが出来た時、「不死身の神兵」としてもてはやされました。ただし、船長はあくまで民間人の立場で徴用されていますから、兵役にはついていません。

船長の供述に疑問を抱いた警察と真相の解明

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船長は最初の供述で、海藻やアザラシを食べて生き延びたということでしたが、現地に暮らしている山口巡査部長は、その供述にあやしい部分があることが分かってきました。

山口巡査部長が抱いた船長の供述の不可解な点

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羅臼町民の間では「不死身の神兵」ともてはやされた船長ですが、山口巡査部長は船長の生還についての話に矛盾点を感じていました。

そもそもこの地域の1月の海は流氷などで凍結しやすく、海藻類は漂流していないはずで、ほとんど採取出来ないから、海藻で食いつないだという船長の話に矛盾がありました。

あざらしも12月から1月には岸には現れないので、捕獲して食べたという船長の話とは合致しない点がありました。他にも現実にはありえないような船長の話や不可解な行動があって、疑いがかかるようになります。

現地消防団3名と現地検分へ

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山口巡査部長は、その点について署長に報告し、2月16日午前5時、地元消防団員3名の応援と共に、現地検分することにしました。

遭難の危険もありましたが、3日間かけて現場に到着した一行は、番屋を調べたところ、ムシロに多数の血痕が付着しているのを確認したものの、小屋の北側で船員のひとり、藤巻久の遺体を発見しただけでした。

現地検分の約3ヶ月後、昆布小屋の所有者がリンゴ箱の中の人骨を発見

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最初の現場検分から3ヶ月経った春に、知床の雪は消えて、流氷も去り漁の季節になった頃、5月14日、番屋の所有者である片山梅太郎はウニ漁のために羅臼港に立ち寄って、食料や水を補給していました。

山口巡査部長は、片山梅太郎に船長の遭難の話をしました。その話を聞いた片山梅太郎は、小屋の中にあるものを見つけることとなります。それはリンゴの木箱の中に人の骨で、山口巡査部長に連絡しました。

山口巡査部長は、直ちに署長に報告し、単独で検証を行うことにしました。

再度現地検分し、船長に殺人・死体損壊・死体遺棄容疑がかかる

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山口巡査部長による再検証の結果、昆布小屋内では床板・壁板・むしろなどから血しぶきが付着していたのを見つけ、その中から血の塊を採取しています。

山口巡査部長は、昆布小屋から27メール離れた海岸にロープで結ばれた古いリンゴの木箱が漂着していたのを見つけます。その中にあったのは、人間の頭部、頸部、脊髄骨、肋骨、人間の皮などが詰め込まれていました。

頭蓋骨は鈍器のようなもので打ち砕かれ、割れていて脳膜は取られて脳は入っていなかったそうです。手足の表皮は先端まで剥がされ、ナイフで切り取った跡があり、皮をむかれた部分の肉は無くなっていました。

日本には食人に対する刑法はない

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日本には、食人に対する刑法が存在しませんから、船長のそうした行為自体には罰する規定はありませんでした。

ひかりごけ事件の真相?船長の逮捕後の供述

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1944年6月、山口巡査部長の現地検分などで、船長は岩内町の自宅で殺人、死体損壊、死体遺棄の疑いで逮捕されました。

人肉を食べたことは認めるも殺人は認めず

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警察の取り調べに対して、船長は、乗組員の1人の遺体を食べたことは認めたましたが、殺人に関しては否認しています。

最年少の船員の死因は餓死だった?

当時最年少だった船員の死因は、転落死とも餓死とも言われていますが、未だはっきりしたことは分かっていません。

ひかりごけ事件の裁判の判決

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このひかりごけ事件に対する裁判の判決は、船長による死体損壊罪ということでしか判決を下すしかありませんでした。

釧路地裁での公判で弁護人は船長の緊急避難と心神耗弱状態を主張

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釧路地裁での公判で弁護人は、船長の緊急避難と神経毛弱状態であることを主張し、判決ではそれが認められた形となりました。

緊急避難と心神耗弱状態について

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事件当時、船長は牡蠣小屋への緊急避難と、心身耗弱状態であったことが認められ、船員の殺人についても証拠がなく、本人も否定していることから罪には問われませんでした。

ひかりごけ事件の判決は死体損壊の罪で懲役1年の実刑

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検察は、船長を死体損壊容疑で起訴し、刑法に食人についての規定がなかったため、食人の是非については裁判で問われることはありませんでした。

1944年8月、船長に心身耗弱が認められることで、懲役1年の判決が下りました。

ひかりごけ事件の関連作品

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ひかりごけ事件では、その名前の由来となった事件を基にした小説や、その映画が作成されています。

事件の名前の由来となった小説「ひかりごけ」

このひかりごけ事件の名前の由来となった、武田泰淳が書いた小説「ひかりごけ」は1954年に発表されています。この小説は、読む戯曲として表現され、実際に舞台化、オペラ化されています。

オペラ化作品は1972年に演じられ、舞台化では1955年に劇団四季により、2006年には鐘下辰男さんによって演じられています。

題名のひかりごけは、罪を犯した人間の背後にヒカリゴケのような「当たり方によって輝きが違う」といった意味が含まれています。

「ひかりごけ」は映画化も

ひかりごけ事件の名前の由来にもなった、武田泰淳が書いた小説「ひかりごけ」は熊井啓監督により1992年に映画化されてもいます。

船長役を三國連太郎さんが好演し、奥田瑛二さんと田中邦衛さんが船員を演じています。

ひかりごけ事件のその後

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ひかりごけ事件は、船長による死体損壊罪による1年の実刑判決が下りましたが、その後船長は自らの罪に苛まれ、身体的、精神的に極限状態まで追い詰められていきました。

1945年6月28日に船長は仮出所

1945年6月28日に船長は、1年の実刑を終え仮出所しましたが、亡くなる1989年12月まで、重い罪の意識に責められながら生活していたようです。

船長はその後も重い罪の意識を持ち続けた

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合田一道は、船長が亡くなる1989年12月まで、15年間に及ぶ取材を続けてきましたが、その船長の発言をつなぎ合わせた一冊の本を著すこととなりました。

それによると、船長は身体的、精神的に極限状態まで追い詰められ、なぜ食人にまで至ったかは、事件から数十年経っても自分で理解ができなかったといいます。

船長は死体損壊罪で1年の実刑判決を受けましたが、「人を食べるなどということをしている私が懲役1年という軽い罪で済まされるはずがない」と言い続け、重い罪の意識を背負い続けていたそうです。

その他の同様の人肉食事件:ウルグアイ空軍571便遭難事故

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同様の人肉食事件が、ウルグアイ空軍571便遭難事件でも起こっていました。1972年10月13日にウルグアイ空軍の571便がアンデス山脈に墜落した事故により乗員乗客45名中29名が死亡しています。

墜落した当初は28名の生存者がいて、凍てつくような高山でどうやって凌ぐかが問題でした。雪眼炎を防ぐサングラスもなく、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作って眼を守った人もいました。

防寒着や雪を踏みつける防寒靴などの装備は一切なく、多くの人が墜落直後に足を骨折していました。しかし、医療品もなく生存した医大生2名が航空機の支柱で添え木を作ったりしています。

人肉食事件はどうやって起きたのか

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飛行機墜落から9日経った10月22日、機体内で議論があり、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存し続けることを主張しました。

その時多くの生存者は拒否しましたが、当時ロベルト・カネッサが主導権を握っていました。しかも人肉食する相手のほとんどが親友や級友であったため、簡単には結論がでませんでした。

しかし、12月23日に16名の生存者が救出されると、彼らは遺体を食べることで生き続けていたことが分かりました。以下に当時の状況が書かれた記事がありますので紹介します。

我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった。

(引用:カラパイア)

自分でも理解できない行動だという船長の言葉

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人肉を食して生き延びたという事件は、歴史上ではたびたび見られた出来ごとではありますが、このひかりごけ事件は、そのことによって初めて刑が科せられたという稀な事件です。

というのは、日本の刑法には食人に関する規定がないため、船長がとった行動は死体損壊罪として実刑判決が降りる事となります。船長は過去を振り返って、なぜ人肉を食べたのか自分でも理解できないと言っています。

実刑は1年という短いものでしたが、船長が人肉を食べたことにより、自責の念にとらわれます。「人肉を食した自分がたった1年の実刑ではおかしい」と、ずっと言ってきたという言葉でも分かります。

日本における食人歴史

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食人は風習として、また事件として世界各国で起こっていることですが、日本でも古くは第2代天皇である綏靖(すいぜい)天皇が7人の人を食べたという故事があります。

また「信長公記」によると戦国時代に城の兵たちが草木や牛馬を食べ尽くしたあと、銃撃されて死んだ人間を食い争ったとあります。歴史的に見ても、ある状況下では、食人はあり得ないと言った行為ではなさそうです。

太平洋戦争中のグアム島で、敗走中のある陸軍上等兵が、日本人の親子を殺害してその肉を食べるという事件もあったそうです。この事件では目撃したアメリカ人が密告し、アメリカ軍により処刑されました。