日本や世界で起きた人食い熊による死亡事件!遭遇した時の対策は?

熊をモチーフにした愛くるしいデザインのキャラクターは多数存在します。しかし、有史以来熊による人食い事件は後を絶ちません。熊出没のニュースを見た事がないと言う人はいないでしょう。今回は国内外問わず熊による死亡事故や万が一遭遇した場合の対策を調査してみました。

日本や世界で起きる人食い熊の事件

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熊による人身被害は日本国内だけの話ではありません。比較的成功したグループであり、アメリカ大陸やアジア、北極にも生息しています。ここでは代表的な熊による人身事件などをあげていきます。

現在も世界で起きているヒグマ事件

日本国内における熊による獣害事件でよくあげられるものとして三毛別羆事件、石狩沼田幌新事件、福岡ワンゲル部ヒグマ事件などがあり、特に三毛別羆事件は熊による日本最悪の獣害事件として知られます。

また2018年には70代男性の飼育していたツキノワグマに襲われ、アルバイト飼育員の男性が死亡すると言う事件もありました。

アメリカでもティモシー・トレッドウェルの事例や生きたたま熊に食べられながらも母親に電話したロシアの事例などが有名です。

ヒグマについて

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ヒグマは世界的に見ても生息地は広く、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸に生息しておりグリズリーの名でおなじみのハイイロヒグマ、北海道に生息するエゾヒグマなど亜種が居ます。

雄で体長2.5-3m、体重250-500kgに達します。雌は一回り小さく1.8~2.5m、100~300kg程度です。しかし生息地域の環境により個体差が大きく500kgを超える個体も確認されています。

ヒグマは火を恐れません。また子連れの雌や冬眠し損ねた個体は殊更危険です。自身の獲物に対し、強い執着心を示す為ヒグマに獲られた物を取り返すのも危険な行動となります。

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)

ここからは実際の人食いい熊事件を紹介していきます。

まずは熊に開拓時代の北海道で発生し、熊の被害としては日本で最大の被害が出た三毛別羆事件を紹介いたします。

1915年に起きた日本史上最大のヒグマ事件

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本事件は1915年12月9日から14日にかけて発生しました。冬眠し損ねた通称「穴知らず」のヒグマが繰返し村を襲撃し、甚大な被害を出しています。

事件の発生日時は前述の通りですが、三毛別羆事件には前日譚と呼べるものあります。事件発生のおよそ1ヶ月前にヒグマは民家付近へと姿を見せており、この時は馬が暴れた為人間への被害はありませんでした。

20日に再度出現したヒグマに備えて2人のマタギを呼び寄せています。そして、30日三度出現したヒグマを銃撃。しかし、仕留めるには至らず、追跡も吹雪により断念しています。

三毛別羆事件の概要

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12月9日、太田家に預けられていた6歳の蓮見幹雄が死亡。また同家三男の嫁マユもヒグマに襲われ、必死の抵抗も虚しくヒグマに連れ去られました。ヒグマ出没の一報に村は大騒ぎとなります。

12月10日、ヒグマ討伐とマユの捜索が開始されます。道中捜索隊は件のヒグマと遭遇するアクシデントに見舞われるも、捜索隊に被害は無く、その後頭部と膝から下以外を食べられたマユの遺体を発見します。

同日夜、被害者2人の通夜の最中にヒグマが襲来しました。場はパニックになりましたが、日露戦争帰りの男が猟銃を発砲。ヒグマは逃げ帰り一旦は事なきを得ています。

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太田家に居た人達は明景家へと避難します。しかし、騒動を受けて明景家は手薄な状態でした。そこにヒグマが襲撃。明景家三男金蔵と斎藤春義を一撃で撲殺、更に身重だった斎藤タケを惨殺します。

ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた

(引用 Wikipedia)

騒ぎに気付いた村人達が明景家に辿り着いた時にはまだ肉と骨を咀嚼する音とタケの呻き声が家の中から聞こえていました。この時も銃を装備しており、射殺を試みましたが失敗に終わっています。

翌11日、もはや自身らの手に負えないと警察へと通報。ヒグマを退治するべく行政に応援を頼みます。12日には討伐隊が編成されます。苦肉の策で犠牲者の遺体を囮に使用しますが、ヒグマは現れませんでした。

13日は陸軍も討伐部隊に加えられます。一方ヒグマは避難により無人になった村で暴れまわっており、保存食を食い荒らした他女性が使用していた枕などに異常なまでに執着を示していました。

14日、かつて鯖裂き包丁1本でヒグマを倒したマタギ山本兵吉も合流。討伐隊と離れ単身山に入った兵吉はヒグマを発見しすると1発目で心臓を撃ち抜き、続く2発目で頭部を撃ち抜きヒグマを仕留めます。

こうして一連の事件は収束を迎えたのでした。

被害者数

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三毛別羆事件の被害者数は以下の通りです。

  • 死者7名
  • 重症者3名

ただし、11日の襲撃の際に負傷した明景梅吉と言う子供は後遺症に苦しめられ2年8ヶ月後に死亡しています。その為彼を含めて死者8名とする場合もあります。

ヒグマの大きさやその後

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仕留められたヒグマの身の丈2.7m、体重は340kgもありました。また頭部が異常に大きく、特徴的な見た目をしていたとされます。件のヒグマの肉は供養の為食べられましたが、美味しくはありませんでした。

事件発声の原因は冬眠に失敗し、空腹によって狂暴化した為と言われる一方でこの説には疑問も呈されており、開拓などによって人間とヒグマの生息区域が重なった事が原因とも言われています。

また当時の区長大河与三郎の息子春義は後にマタギとなり、犠牲者1人につき10頭のヒグマを仕留める誓いを立て102頭のヒグマを打ち取っています。

三毛別羆事件に関する記事はこちら

石狩沼田幌新事件

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続いては北海道雨竜郡沼田町、幌新地区にて発生した事件を紹介致します。

1923年に起きた日本史上2番目のヒグマ事件

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石狩沼田幌新事件は日本で史上2番目の被害が出ています。1923年8月21日、同町内の恵比北地区で行われた祭には多くの観客が詰めかけていました。惨劇はその祭りの帰り道からスタートします。

石狩沼田幌新事件の概要

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午後11時半頃、祭りも終わり幌新地区から祭に出向いていた一団も帰路についていました。小用にて約50mほど後方を歩いていた林謙三郎を背後を突如として出現したヒグマが襲撃します。

必死の抵抗もあり一命を取り止めた謙三郎は前方の一団へとヒグマが出没した事を伝えます。しかし、ヒグマは狡猾でした。先回りしたヒグマの一撃により先頭の村田幸次郎が死亡しました。

傍に居た兄与四郎も重傷を負った上に、生きたまま地中に埋められています。

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一団はパニックに陥り、付近の民家に逃げ込みます。凡そ30分後、身を隠しながらも襲撃に備える一団の元へと幸次郎の内臓を食らいながらヒグマが現れました。

幸次郎の父三太郎がスコップを手に立ち向かいましたがヒグマは意にも介しません。容易く三太郎を退けたヒグマは母ウメを咥えると、彼女を引き摺りながら闇の中に姿を消しました。

暗闇からはウメの助けを求める声が聞こえ、やがて念仏に変わりましたが程無くして途絶えました。翌日下半身を食べ尽くされたウメの遺体とまだ息のある与四郎を発見。彼は病院に送られましたが後日死亡しています。

23日に3人の狩人が応援に駆け付けるも、内1人である長江政太郎が単独で入山。数発の銃声が響き渡るも、行方不明となります。24日には討伐隊が結成されました。

討伐隊が入山して間もなくヒグマが出現し最後尾の上野由松を撲殺、折谷徳次も重傷を負わせます。尚も踊りかかろうとするヒグマに対し、軍を除隊して間も無い男は怯む事無く発砲しました。

見事に命中したその1発を口火とし、ヒグマに一斉射撃が浴びせかけられ、人食いヒグマはヒグマは倒されました。

被害者数

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ヒグマ討伐後、23日に単身山に入った政太郎の遺体が、頭部以外全て食い尽くされた状態で発見されています。

石狩沼田幌新事件は後に死亡する与四郎を含め5名の使者、3名の重症者を出しました。

ヒグマの大きさやその後

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仕留められたヒグマの大きさは体長2m、体重200kgの雄熊でした。解剖の結果、胃袋から大量の人骨が発見されています。

ヒグマの毛皮は1942年まで幌新小学校に保存され、廃校を機に幌新会館へと移されました。現在では沼田町郷土資料館に展示されています。

最初にヒグマの襲撃は受けた付近には、馬の死体が埋められていました。件のヒグマは数日間これを食料といた為、そこを通り掛かった一同を獲物を奪う敵とみなしたのが原因とされます。

札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)

続いての熊による獣害事件は、札幌丘珠事件です。こちらの事件は史上4番目の被害の大きさとなっています。

1878年日本で起きたヒグマ事件

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事件は現在の札幌市東区丘珠町で発生しました。冬眠していたヒグマを、理不尽な形目覚めさせたが故に起きた事件です。

札幌丘珠事件の概要

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1878年1月11日、冬眠中のヒグマを発見した猟師蛭子勝太郎は早速狩猟を試みるも失敗。ヒグマの反撃によって蛭子は死亡しました。ヒグマが札幌市街地を駆け抜けた為、当日中に討伐隊が編成されます。

件のヒグマが発見されたのは現在の札幌市中区でしたが、討伐隊の追跡を振り切り逃走を重ねて事件現場となった現丘珠町に辿り着きます。そして、17の日深夜、堺倉吉一家を襲撃しました。

まずは倉吉がヒグマの一撃により昏倒。妻リツは逃走を試みるも、攻撃を受けて息子留吉を落としてしまいました。リツは重症を負いながらも、他の村民の元に辿り着き一命を取り止めています。

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翌18日、ヒグマを発見した討伐隊によって射殺され事態は収束を見せました。功労者の3名には日当の他特別手当が支払われています。

被害者数

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ヒグマは討伐されたものの、夫倉吉と息子留吉は食い殺されました。リツ本人も頭皮がはがれる程の重症を負っています。また倉吉家の雇女も同じく重傷を負いました。

これにより札幌丘珠事件は被害者は死者3名、重傷者2名となります。

ヒグマの大きさやその後

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仕留められたのは体長1.9mの雄の成獣でした。遺体はしばし晒し物にされ、札幌農学校で解剖されています。解剖は生徒の手によって行われており、その中に新渡戸稲造も含まれています。

この時の様子が「クラーク先生とその弟子たち」の中で記されています。またヒグマの剥製は開拓博物館に展示され、明治天皇も見学しました。

福岡大学ワンダーフォーゲル同好会羆襲撃事件

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続いては福岡大学ワンダーフォーゲル同好会羆襲撃事件の紹介となります。ワンダーフォーゲルを略して、福岡大学ワンゲル同好会羆襲撃事件や福岡大学ゲル部羆襲撃事件などの呼び方もあります。

1970年に日本で起きたヒグマ事件

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1970年に北海道の日高山脈カムイエクウチカウシ山にて事件は発生しました。被害者は福岡大学のワンダーフォーゲル同好会のメンバーであり、多くの教訓が指摘されています。

ワンダーフォーゲル(ドイツ語: Wandervogel)は、戦前期ドイツにおいてカール・フィッシャー(ドイツ語版)らがはじめた青少年による野外活動である。また、それを元にする野外活動を率先して行おうとする運動。

(引用 Wikipedia)

福岡大学ワンダーフォーゲル同好会羆襲撃事件の概要

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7月14日午後2時半、リーダーのA、サブリーダーのBにC、D、Fの計5名で日高山脈を縦断する為に芽室岳へと入山。25日にはカムイエクウチカウシ山でテントを張ります。ここでヒグマが出没しました。

その時は恐れず眺めていましたが荷物を漁り始めたのを見て、物音を立てるなどしてヒグマを追い払いました。荷物を取り返す事に成功するも、21時頃に再度ヒグマが出現し拳大の穴をテントにあけています。

恐怖を感じた彼らは交代で見張りを立てました。そして、午前4時半頃、三度出没したヒグマはテントを執拗に引っ張り、メンバーはテント外へ退避。ヒグマはテントを引き倒して荷物を漁りました。

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Aの指示でBとEが救助要請の為に下山を開始します。途中、同じ理由で下山する北海学園大学のメンバーに出会い、救助要請を伝言し物資を譲り受けて残された3人の元へと戻りました。

途中で鳥取大のメンバーとも出会った2人は正午頃3人と合流。テントを修繕、設置し夕食取りました。その後、眠ろうとした午後4時半頃、またもヒグマが出没し約1時間ほどもその場にヒグマは留まり続けました。

そこで鳥取大メンバーのテントへと避難するためその場を後にするも、既に鳥取大メンバーは下山していました。この為、彼らは仕方なく夜通し歩く事となります。

しかし、そんな彼らをヒグマが追跡します。そして、先ずはEが襲われて死亡。Cはメンバーからはぐれ、鳥取大メンバーの残したテントに逃げ込み一夜を明かします。

翌日早朝、霧で視界の悪い中下山を続けるメンバーをヒグマが襲います。標的となったAは死亡、B、Dは下山を果たしました。一方のCは同日午前8時頃、ヒグマに襲われ死亡しています。

彼は死の直前まで、その様子や心境をメモに書いていた。

(引用 Wikipedia)

生き延びたB、Dの通報による救助隊が編成され、29日にAとEの遺体が発見されました。また同日午後4時頃、ハンター10人による一斉射撃で件のヒグマは射殺されています。

またCの遺体は翌30日に発見されました。

被害者数

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福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件においては、同大学のワンゲル部メンバー3名の死者が発生しました。

八の沢カールには追悼のプレートが掛けられ、そのプレートには「高山に眠れる御霊安かれと晩歌も悲し八の沢」と追悼の句が記されている。

(引用 Wikipedia)

ヒグマの大きさやその後

射殺されたヒグマは3歳の雌熊であり、大きさはそれほど大きくなかったとされます。またヒグマの解剖も行われましたが、胃袋からは人体などは確認されませんでした。

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