船坂弘(不死身の分隊長)の伝説とは?海外の反応や子孫などもまとめ 社会

船坂弘(不死身の分隊長)の伝説とは?海外の反応や子孫などもまとめ

船坂弘は日本の軍人として様々な伝説を残してきました。船坂弘は不死身の分隊長として戦争で活躍した第一人者だったのです。そして、日本に帰国してからも本屋の経営や海外への寄付など、様々な活動をおこなってきました。船坂弘について調べてみました。

目次

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不死身の分隊長、船坂弘の伝説とは?

船坂弘は第2次世界大戦時に旧日本軍陸軍の分隊長として、伝説とも呼ばれる勇姿を見せた人物です。

パラオ諸島アンガウル島での米軍との戦いにおいて、舩坂弘は鬼神の如き活躍を見せ、日本のみならず米軍を始めとする連合軍からも「伝説の男」として畏敬の念を持たれたとされます。

船坂弘は、「生きている英霊」とも在命時には呼ばれていました。そして、戦争中には「不死身の分隊長」として支持されていたのです。

世界に名を轟かせた軍人・船坂弘とはどのような人物だったのか、伝説といわれるエピソードとともに振り返っていきましょう。

船坂弘が伝説を残したアンガウルの戦いとは

アンガウルの戦いとは、第二次世界大戦においてパラオ諸島アンガウル島で発生した旧日本軍とアメリカ軍との戦闘です。この戦いは、旧日本軍が第二次世界大戦で参加した戦争で最大の激戦であったとされます。

日本軍が占拠していたアンガウルに1944年9月11日、アメリカ軍が艦砲射撃を仕掛けました。そして9月16日にはアメリカ軍がアンガウル島に上陸し、陸上での戦いが開始したのです。

当時、パラオの他の島にもアメリカ軍が艦砲射撃や爆撃を行っていたため、アンガウル島を防衛していた旧日本軍の兵士は僅か1200人ほどでした。戦闘機もなく、攻め込んできたアメリカ軍との武力の差は歴然。

15倍以上もの戦力の差を前にアンガウルを防衛していた分隊は洞窟に立てこもって抵抗を続けましたが、9月19日にはアンガウルをアメリカ軍に明け渡すこととなったのです。

この戦いで生き残った兵士は、50人に満たなかったと言われています。多勢に無勢、結果のわかりきった戦いを強いられたことから、アンガウルを「玉砕島」と呼ぶこともあります。

まさに鬼神!アンガウル最前線での船坂弘の戦い

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上陸したアメリカ軍に対して舩坂弘は、擲弾筒で敵襲に応戦しました。そして最前線で米兵数十人を撃退したものの今度は第二軍となる戦車隊が現れ、島東部の洞窟まで後退しながらゲリラ戦を続けたとされます。

ゲリラ戦の中で舩坂弘は左足の太腿と左腕数か所が抉り取られるという重症を負うのですが、それでも戦うことを辞めずに右手で直接砲弾を投げ続けたために、今度は酷使した右腕を捻挫してしまいます。

しかもまさに満身創痍の状態であったにも関わらず、舩坂弘は負傷した部下を見捨てることが出来ずに、部下を背負って洞窟に帰還。さらに洞窟の中でも米兵相手に銃剣で突撃をし、3人の敵兵を撃退したといいます。

伝説①:重傷の傷口から蛆虫がわくのを見て自決を決意するも手榴弾が不発

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洞窟で米兵3人を撃退した後、舩坂弘は怪我の治療を受けることとなりました。しかし彼の怪我を見た軍医は治療は不可能だと判断し、舩坂弘の自決用の手榴弾を渡したのです。

自分は助からないのかと判断した舩坂弘は、最後に空腹の部下たちのために水を汲んできてやり、その後自決しようと心に決めて海に向かっていきました。

しかし海で米兵にみつかり、集中砲火を浴びて弾丸が腹部を貫通。そこから蛆虫が湧いてきたのを見て、船坂弘は自決を図ります。しかし、手榴弾が不発に終わり未遂となったのです。

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自決用の手榴弾を軍医が渡した、と聞くと戦力にならないものは排除する冷血な行動のように見えますが、アンガウル島には治療に使えるような物資もありませんでした。

旧日本軍の兵士たちは1匹のムカデを分け合って食べるほど食料も枯渇しており、死ぬも地獄、生きるも地獄といった有様だったといいます。

伝説②:手榴弾6発を体にくくりつけてアメリカ軍指揮所テントへ突入も驚かれる

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自決未遂となったことで、死なせてももらえないという絶望感から舩坂弘は自身の気持ちを奮い立たせます。このままここで死ぬのを待つ前に、敵に一泡ふかせてやろうと思い立つのです。

船坂弘は一人で、敵地に向かい自身の体に手榴弾を巻きつけて自爆を図りました。手榴弾を6発も体に付け、拳銃を持って敵地まで夜通しで向かったのです。

当然ながらこの時、船坂弘は重症を負ったままの状態であったため敵軍のキャンプ地へは這って進んでいったといいます。飲まず食わずで4日もかけて沿岸部を進み、敵地にたどり着いたのです。

伝説③:手榴弾を使う直前に頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される

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決死の覚悟で敵地にたどり着いた船坂弘でしたが、自身の体に巻きつけた手榴弾のピンを引き抜く前に、米兵に頸部を撃たれてしまいます。自爆未遂におわったのです。

米軍によって撃たれたあと、舩坂弘はその場で倒れます。そして血まみれとなった姿から、戦死と判断されたのです。

伝説④:無駄だと思われつつも病院に搬送され、3日後米軍野戦病院で蘇生

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船坂弘は米軍によって撃たれたのですが、米軍の医師は彼を米軍野戦病院に運びました。

この時、米軍の医師は米兵にむかって、「これが日本のハラキリだ」「日本の侍だけができる死に方なのだ」と語ったといいます。そして、船坂弘はなんと倒れた3日後には蘇生したのです。

生き返ったことは情けをかけられたのだと思い込んだ船坂弘は、その場で「殺せ!」と暴れまわります。

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当時の考えでは、敵軍に情けをかけられて生き延びたとあれば日本軍全体に恥をかかせることになります。そのため自決を望んだのですが、アメリカ軍は船坂弘を捕虜として監視することにしました。

しかし捕虜として監視下に置かれた船坂弘は、さらにアメリカ軍を驚かせるような行動に出るのです。

伝説⑤:瀕死と思われていた中収容所を脱走し米軍弾薬庫を爆破

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船坂弘はパラオ諸島にあるペリリュー島の収容所に身柄を移され、捕虜として拘束されました。

この時、舩坂弘は自爆未遂によって重傷となっていたため、瀕死の状態だったといいます。そのため警備は甘く作られていたのです。

隙をついて脱走した船坂弘は監視兵から盗み取った拳銃の中の火薬を使い、米軍弾薬庫を爆破させたのです。

伝説⑥:爆破後は収容所へ戻り、翌朝の点呼にいつもどおり参加

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しかも船坂弘は弾薬庫を爆破したあとに収容所に素早く戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼の時にはいつも通りに参加をしていたのです。

そのため、弾薬庫を爆破した事は事故なのか故意なのかもわからないまま、爆破の件は原因不明として記録されることとなりました。

体が動くだけでも奇跡的とされる状態で、ここまで機転を利かせた行動をとって舩坂弘はアメリカ軍の鼻を明かしたのです。

伝説⑦:米軍飛行場へ放火を試みるも、クレンショー伍長に取り押さえられる

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その後、船坂弘は再び収容所を抜け出し、米軍の飛行場に放火することを試みました。しかし米軍のクレンショー伍長に計画を見つけられ、実行する前に取り押さえられてしまいます。

とことが、このクレンショー伍長は船坂弘の事を上に報告しなかったのです。クレンショー伍長は船坂弘に対して真摯に向き合うことで、次第に船坂弘さんも彼に心を許すようになったといいます。

そして、クレンショー伍長は船坂弘さんを励まし、日本に必ず生きて帰り、母国の復興に尽力してくださいと伝えていたそうです。2人は敵対する軍に属しながら、確実に友情を育んでいきました。

伝説⑧:戦死したと思われていた中、帰国

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その後、船坂弘は収容所をグアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと様々な場所に移転しています。そして、1946年についに日本へと帰国したのです。

伝説⑨:海外の反応は?海外でも勇敢な兵士として有名な船坂弘

船坂弘の勇姿は海外でも語られており、伝説の日本兵として海外でも有名な人物となっています。人間とは思えないような勇猛さを見せたことに、米軍からも賞賛の声があがりました。

船坂弘は帰国後、本屋・大盛堂書店を創設

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船坂弘は日本に帰国後に様々な活動を行ってきました。海外の先進国のことをもっと多く学ばなければならないと考えたのです。そして、本屋を設立することを思い立ちました。

その後は海外で起きた戦争や自身の体験を著書にまとめたりもしました。船坂弘が帰国後にしてきた数々の行いをみていきましょう。

船坂弘が故郷に帰って一番最初にしたのはお墓の「舩坂弘之墓」という墓標を抜くこと

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船坂弘は収容所を転々としながらも、無事に日本に帰国することとなりました。その日本では、船坂弘さんは戦死したものと思われていました。

そのため、船坂弘の墓もあったのです。船坂弘はその自身の墓に向かい、「船坂弘之墓」という墓票を抜くことを、まず一番に行ったとされます。

戦後復興の中、本屋経営を思いつく

帰国後、船坂弘は戦時中に見てきたアメリカの先進国のことを学んでいくことこそが、これからの日本には必要なのではないかと考えました。

その結果、本屋を経営していくことを思いつきます。本屋を開くことで、日本を豊かにしていこうと考えていたのです。わずか1坪の土地に本屋を開きました。

そして、その後日本初の本屋のビルとして快挙を達するのです。船坂弘さんは現在ではよく見るビル丸ごと本屋の生みの親であり、大盛堂書店(渋谷センター街入り口に現存)を設立した人物でもあります。

生きている英霊と呼ばれた船坂弘

本屋経営を始めた船坂弘でしたが、その後も活躍をしています。船坂弘さんが戦ったパラオ諸島のアンガウル島に慰霊碑をたてたのです。そして、自身の体験を元に著書を発行しています。

その印税を使い、パラオ諸島の島々にも慰霊碑を建立。その後もたくさんの著書を発行していますが、自分のために使うのではなく、全額を海外の赤十字社に寄付をしていました。

そして、パラオ諸島に対しての援助や戦死した遺族への援助など、様々なことに尽力を尽くしてきました。このような行いから、船坂弘さんは「生きている英霊」と呼ばれたのです。

船坂弘ってどんな人?生い立ちや家族は?

船坂弘さんはどんな人物だったのでしょうか?家族についてや子孫がどのくらいいるのでしょうか?船坂弘さんの家族は現在ではどうされているのでしょうか?

船坂弘さんの子孫についても調べてみました。

船坂弘の生い立ちや家族構成

船坂弘さんは1920年10月30日に栃木県の農家の家族として生まれました。船坂弘さんは日本の陸軍として活躍をしたのち、伝説とも呼ばれる人となりました。家族構成は詳しくはわかっていません。

船坂弘さんは軍隊の時の写真が残っていますが、これを見る限り顔が整ったイケメンの風貌をしています。たくましかったという船坂弘さんの身長は不明となっています。

ガキ大将で勉強熱心だった船坂弘

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船坂弘は農業を営む家族の子供として生まれました。小さい頃からやんちゃで暴れん坊だった船坂弘さんは、周囲の子供のトップにたつガキ大将だったそうです。

しかし、学業は真面目で勉強熱心なところもあったそうで、独学で勉強したのち専門学校入学試験に合格し、万豪学校専門部に入学することとなったのです。

剣道と銃剣術の有段者だった船坂弘

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船坂弘は剣道の腕前も相当のもので、剣道は六段まで上り詰めていました。さらには、銃剣術も得意としており、准尉からは銃剣術は三段にも匹敵すると認められていました。

船坂弘の子孫は?子供は大盛堂書店の二代目社長?

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船坂弘の子孫は健在しているようです。船坂弘がいつ結婚して子孫が何人いるのかの詳しい情報はわかっていませんが、息子の舩坂良雄氏が大聖堂書店の二代目の社長となっています。

それ以外の子孫や妻、家族がどのようになっているかまではわかりませんでした。

船坂弘はクレンショー伍長と交流を続けていた

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舩坂良雄氏によると帰国した後も船坂弘は捕虜である自分を励まし、固い友情を育んだクレンショー伍長を大切に思っていたそうで、彼の消息を調べるために米国各地へ問い合わせの手紙を出し続けていたといいます。

その数なんと合計で110通。地道な捜索活動の甲斐あって1966年にはクレンショー伍長と再開を果たし、その後は家族ぐるみの付き合いが続いたそうです。

船坂弘の晩年は?85歳まで生きた?

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船坂弘は、2006年2月11日に85歳にて腎不全によって亡くなっています。この時、家族によって葬儀が執り行われています。

息を引き取る際、船坂弘は「まだアンガルには同志の遺骨が数多く埋まったままだ。全て収骨するまで死ねない」と語ったといいます。帰国した後も生涯、船坂弘は部下や仲間のことを思い続けていたのです。

船坂弘と同様にリアルチートと言われている人物は?

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船坂弘さんはリアルチートと呼ばれている一人です。このリアルチートというのは、普通じゃありえないことをやってのけてしまう伝説的な人物のことをさしているのです。

リアルチートと言われている人物が海外でもいたのです。海外でリアルチートと呼ばれていた人について見ていきましょう。

リアルチート①:シモ・ヘイヘ

リアルチートの一人、フィンランドの軍人であったシモ・ヘイヘは「白い死神」とも呼ばれていた人物です。シモ・ヘイヘは身長が152㎝と小柄な体格ながらも大きな銃を扱うのに優れていました。

シモ・ヘイヘの狙撃術は随一とされており、300m以内なら確実に相手の頭部を打ち抜くという技術を持って、敵からは恐れられていました。狙撃銃による殺害は世界最多として記録されています。

このことより、シモ・ヘイヘはリアルチートと呼ばれたのです。

リアルチート②:ハンス=ウルリッヒ・ルーデル

ドイツの空軍に属していたハンス=ウルリッヒ・ルーデルは空中戦におけるリアルチートです。ルーデルは数々の成績を収めており、一人で戦車500両以上を撃破している記録をも持っています。

ルーデルは自身が撃破した記録を部下の記録として申告させるなど、仲間思いの一面をも見せています。そのため、ルーデルの記録は残されている物よりも多いとされています。

ルーデルの偉業は世界にも知れ渡ることとなり、リアルチートとして名を挙げています。

船坂弘が元になったと言われている作品は?

船坂弘が元となっていると言われている作品があります。船坂弘さんが登場する漫画もあるのです。詳しく見てみましょう。

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