船坂弘(不死身の分隊長)の伝説とは?海外の反応や子孫などもまとめ

船坂弘さんは日本の軍人として様々な伝説を残してきました。船坂弘さんは不死身の分隊長として戦争で活躍した第一人者だったのです。そして、日本に帰国してからも本屋の経営や海外への寄付など、様々な活動をおこなってきました。船坂弘さんについて調べてみました。

不死身の分隊長、船坂弘の伝説とは?

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船坂弘さんは日本の軍隊の分隊長として、伝説とも呼ばれる勇姿を見せました。パラオ諸島でおきた戦いで、船坂弘さんは伝説の人となったのです。

船坂弘さんがどのような伝説な軍隊だったのか、エピソードとともに振り返っていきましょう。

アンガウルの戦いで活躍した船坂弘

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船坂弘さんは、陸軍の軍人でした。船坂弘さんは軍隊に入隊後に様々な地へ赴き戦場で活躍してきました。戦争の状況の悪化により、船坂弘さんはパラオ諸島のアウガウル島に赴きました。

船坂弘さんはアウガウルの戦いで伝説とも呼ばれる戦い様を見せたのです。これは船坂弘さんの伝説として後世に語られる戦いとなりました。

船坂弘さんは、「生きている英霊」とも在命時には呼ばれていました。そして、戦争中には「不死身の分隊長」として支持されていたのです。

伝説①:重傷の傷口から蛆虫がわくのを見て自決を決意するも手榴弾が不発

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船坂弘さんが伝説と呼ばれているのには、船坂弘さんの生き様があります。船坂弘さんは、戦争で幾度となく傷を負いました。軽傷から重傷まで傷を負いましたが、回復の力も併せ持っていました。

そして、船坂弘さんは米兵から受けた傷が腹部を貫き重傷となっていました。傷を癒せないまま放置していたら、船坂弘さんの傷口からは蛆虫がわいてでてきたのです。

このまま蛆虫に侵されてしまうのなら、いっそのこと死にたいと思った船坂弘さんは自決を図ります。しかし、手榴弾が不発に終わり未遂となったのです。

伝説②:手榴弾6発を体にくくりつけてアメリカ軍指揮所テントへ突入も驚かれる

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船坂弘さんは自決未遂となったことで、死なせてももらえないという絶望感から自身の気持ちを奮い立たせます。船坂弘さんはこのままここで死ぬのを待つ前に、敵に一泡ふかせてやろうと思いたちあがります。

船坂弘さんは一人で、敵地に向かい自身の体に手榴弾を巻きつけて自爆を図りに出るのです。船坂弘さんは手榴弾を6発も体に付け、拳銃を持って敵地まで夜通しで向かったのです。

米軍の指揮官がいるテントに船坂弘さんは突如として現れました。そのため、米兵たちもその船坂弘さんの姿に唖然としてしまったのです。

伝説③:手榴弾を使う直前に頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される

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しかし、船坂弘さんは自身の体に巻きつけた手榴弾を引き抜く前に、頸部を撃たれてしまうのです。船坂弘さんは決死の覚悟を持って、敵地に飛び込んだにも関わらず自爆未遂におわったのです。

そして、船坂弘さんは米軍によって撃たれたあと、その場で倒れます。船坂弘さんはこの時、血まみれとなり戦死と判断されたのです。

伝説④:無駄だと思われつつも病院に搬送され、3日後米軍野戦病院で蘇生

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船坂弘さんは米軍によって撃たれたのですが、米軍の医師は船坂弘さんを米軍野戦病院に運びました。この時、米軍の医師は米兵にむかって、「これが日本のハラキリだ」といい、

「日本の侍だけができる死に方なのだ」と語っていたのです。船坂弘さんの伝説は米軍の中でもあがっていたのです。そして、船坂弘さんはなんと倒れた3日後には蘇生したのです。

そして、船坂弘さんは生き返ったことは情けをかけられたのだと思い込んでしまい、その場で「殺せ!」と暴れまわります。しかし、この船坂弘さんの行為が米兵の間では話題となり伝説として語り継がれています。

ペリリュー島の捕虜収容所でも続く船坂弘の伝説

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船坂弘さんは米軍につかまり収容所に入りましたが、瀕死の状態でも軍隊であることを忘れてはいませんでした。船坂弘さんは脱走を成功させたのです。

そして、船坂弘さんははれて日本に帰国することができたのです。船坂弘さんは米軍からも賞賛を贈られたのです。

伝説⑤:瀕死と思われていた中収容所を脱走し米軍弾薬庫を爆破

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船坂弘さんはパラオ諸島にあるペリリュー島の収容所に身柄を拘束されたのです。船坂弘さんはこの時、自爆未遂によって重傷となっていたため、瀕死の状態でした。

そのため、船坂弘さんの警備は甘く作られており、船坂弘さんは脱走を成功させます。そして、船坂弘さんは盗み取った拳銃の中の火薬を使い、米軍弾薬庫を爆破させたのです。

伝説⑥:爆破後は収容所へ戻り、翌朝の点呼にいつもどおり参加

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そして、船坂弘さんは爆破したあとに収容所に素早く戻り、誰にも気づかれないように、何食わぬ顔で翌朝の点呼の時にはいつも通りに参加をしていたのです。

そのため、弾薬庫を爆破した事は事故なのか故意なのかもわからないまま、爆破の件は原因不明として記録されているのです。

伝説⑦:米軍飛行場へ放火を試みるも、クレンショー伍長に取り押さえられる

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その後、船坂弘さんは再び収容所を抜け出し、米軍の飛行場に放火することを試みますが、米軍のクレンショー伍長に計画を見つけられ、実行する前に船坂弘さんは取り押さえられるのです。

このクレンショー伍長は船坂弘さんの事を上に報告しなかったのです。クレンショー伍長は船坂弘さんに対して真摯に向き合うことで、次第に船坂弘さんも彼に心を許すようになったといいます。

そして、クレンショー伍長は船坂弘さんを励まし、日本に必ず生きて帰りなさいと伝えていたそうです。

伝説⑧:戦死したと思われていた中、帰国

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船坂弘さんは収容所をグアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと様々な場所に移転しています。そして、1946年に船坂弘さんはついに日本へと帰国したのです。

伝説⑨:海外の反応は?海外でも勇敢な兵士として有名な船坂弘

船坂弘さんの勇姿は海外でも語られており、船坂弘さんは伝説の日本兵として海外でも有名な人物となっていたのです。船坂弘さんが勇敢に立ち向かったことで、米軍からも賞賛の声があがりました。

船坂弘は帰国後、本屋・大盛堂書店を創設

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船坂弘さんは日本に帰国後に様々な活動を行ってきました。海外の先進国のことをもっと多く学ばなければならないと考えたのです。そして、船坂弘さんは本屋を設立することを思い立ちました。

そして、その後は海外で起きた戦争や自身の体験を著書にまとめたりもしました。その印税は自分のためには使わず海外のために使っていたのです。

船坂弘さんの帰国後にしてきた数々の行いをみていきましょう。

船坂弘が故郷に帰って一番最初にしたのはお墓の「舩坂弘之墓」という墓標を抜くこと

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船坂弘さんは収容所を転々としながらも、無事に日本に帰国することとなりました。その日本では、船坂弘さんは戦死したものと思われていました。

そのため、船坂弘さんの墓もあったのです。船坂弘さんはその自身の墓に向かい、「船坂弘之墓」という墓票を抜くことが、まず一番に行ったのです。

戦後復興の中、本屋経営を思いつく

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そして、日本に帰ってきてから船坂弘さんは戦時中に見てきたアメリカの先進国のことを学んでいくことこそが、これからの日本には必要なのではないかと考えたのです。

その結果、船坂弘さんは本屋を経営していくことを思いついたのです。本屋を開くことで、日本を豊かにしていこうと考えていたのです。わずか1坪の土地に本屋を開きました。

そして、その後日本初の本屋のビルとして快挙を達するのです。船坂弘さんは現在ではよく見るビル丸ごと本屋の生みの親だったのです。本屋・大聖堂書店を設立したのです。

生きている英霊と呼ばれた船坂弘

本屋経営を始めた船坂弘さんでしたが、その後も活躍をしています。船坂弘さんが戦ったパラオ諸島のアンガウル島に慰霊碑をたてたのです。そして、自身の体験を元に著書を発行しています。

その印税を使い、パラオ諸島の島々にも慰霊碑を建てたのです。その後もたくさんの著書を発行していますが、自分のために使うのではなく、全額を海外の赤十字社に寄付をしていたのです。

そして、パラオ諸島に対しての援助や戦死した遺族への援助など、様々なことに尽力を尽くしてきました。このため、船坂弘さんは「生きている英霊」と呼んでいたのです。

船坂弘ってどんな人?生い立ちや家族は?

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船坂弘さんはどんな人物だったのでしょうか?家族についてや子孫がどのくらいいるのでしょうか?船坂弘さんの家族は現在ではどうされているのでしょうか?

船坂弘さんの子孫についても調べてみました。

船坂弘のプロフィールは?身長は不明?顔がイケメン?(画像あり)

船坂弘さんは1920年10月30日に栃木県の農家の家族として生まれました。船坂弘さんは日本の陸軍として活躍をしたのち、伝説とも呼ばれる人となりました。家族構成は詳しくはわかっていません。

船坂弘さんは軍隊の時の写真が残っていますが、これを見る限り顔が整ったイケメンの風貌をしています。たくましかったという船坂弘さんの身長は不明となっています。

ガキ大将で勉強熱心だった船坂弘

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船坂弘さんは農業を営む家族の子供として生まれました。小さい頃からやんちゃで暴れん坊だった船坂弘さんは、周囲の子供のトップにたつガキ大将だったそうです。

しかし、学業は真面目で勉強熱心なところもあったそうで、独学で勉強したのち専門学校入学試験に合格し、万豪学校専門部に入学することとなったのです。

剣道と銃剣術の有段者だった船坂弘

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船坂弘さんは剣道の腕前も相当のものだったのです。剣道は六段まで上り詰めていました。さらには、銃剣術も得意としており、准尉からは銃剣術は三段にも匹敵すると認められていました。

船坂弘の子孫は?子供は大盛堂書店の二代目社長?

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船坂弘さんの子孫は健在しているようです。船坂弘さんがいつ結婚して子孫が何人いるのかの詳しい情報はわかっていません。しかし、船坂弘さんの子孫である息子が大聖堂書店の二代目の社長となっているようです。

船坂弘さんの子孫として、息子さんが書店の経営を引き継いでいることがわかりました。それ以外の子孫や家族がどのようになっているかまではわかりませんでした。

船坂弘の晩年は?85歳まで生きた?

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船坂弘さんは、2006年2月11日に85歳にて腎不全によって亡くなっているのです。この時、家族によって葬儀が執り行われています。

船坂弘と同様にリアルチートと言われている人物は?

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船坂弘さんはリアルチートと呼ばれている一人です。このリアルチートというのは、普通じゃありえないことをやってのけてしまう伝説的な人物のことをさしているのです。

リアルチートと言われている人物が海外でもいたのです。海外でリアルチートと呼ばれていた人について見ていきましょう。

リアルチート①:シモ・ヘイヘ

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リアルチートの一人、フィンランドの軍人であったシモ・ヘイヘさんは「白い死神」とも呼ばれていたのです。シモ・ヘイヘさんは身長が152㎝と小柄な体格ながらも大きな銃を扱うのに優れていました。

シモ・ヘイヘさんの狙撃術は随一とされており、300m以内なら確実に相手の頭部を打ち抜くという技術を持って、敵からは恐れられていました。狙撃銃による殺害は世界最多として記録されています。

このことより、シモ・ヘイヘさんはリアルチートと呼ばれたのです。

リアルチート②:ルーデル

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ドイツの空軍に属していたルーデルさんは空中戦におけるリアルチートです。ルーデルさんは数々の成績を収めており、一人で戦車500両以上を撃破している記録をも持っています。

ルーデルさんは自身が撃破した記録を部下の記録として申告させるなど、仲間思いの一面をも見せています。そのため、ルーデルさんの記録は残されている物よりも多いとされています。

ルーデルさんの偉業は世界にも知れ渡ることとなり、リアルチートとして名を挙げています。

船坂弘が元になったと言われている作品は?

船坂弘さんが元となっていると言われている作品があります。船坂弘さんが登場する漫画もあるのです。詳しく見てみましょう。

映画:「かつては敵だった」

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2013年に放送された映画「かつては敵だった」というドキュメンタリーの映画は船坂弘さんが元になっていると言われています。船坂弘さんの著書である「英雄の絶叫」が元になっているそうです。

この映画はパラオ諸島のペリリュー島で行いました。かつては敵同士だった米兵と日本の軍人とが再開して、60年ぶりに当時の想いを語る映画となっています。

漫画:「リィンカーネーションの花弁」

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2014年から連載された漫画「リィンカーネーションの花弁」は、自分の首を斬ることで前世の才能を持つことが出来、様々な戦いの場に巻き込まれていく漫画となっています。

この中で、船坂弘さんは不死身の軍人としてえがかれています。そして、銃や手榴弾をも駆使して戦いに参加しています。

船坂弘のその他の話題は?

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船坂弘さんはこれ以外にも様々な話題をもっているのです。その中で、船坂弘さんが話題となっていることを挙げてみましょう。

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