ディアトロフ峠事件の不可解な点!真相・仮説について!自然災害は嘘?

ソ連の死の山と呼ばれる場所で起きたディアトロフ峠事件。9人の男女が不可解な死を遂げました。原因は、原住民やイエティ、放射能や大気物理学など、さまざまな仮説が立てられました。謎に包まれたディアトロフ峠事件の噓や真相について迫っていきます。

ディアトロフ峠事件の概要

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1959年にソ連の死の山と呼ばれる場所で起きたディアトロフ峠事件。9名の男女が不可解な死を遂げました。大気物理学が関係するとも言われるこの事件の真相は、今なお謎に包まれたままです。

1959年に起きた男女9名怪死事件

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1959年2月2日の夜、ソ連の死の山と呼ばれているホラート・シャフイル山でスノートレッキングをしていた9名の男女が不可解な死を遂げているのが発見されました。

9名の遺体の死因や周辺の状況などに不可解な点が多く、イエティなどの未確認生物や放射線といったような、さまざまな仮説が立てられました。

現在もなお謎が多く残されている

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ディアトロフ峠事件には男女9名全員が死亡しており生還者はいません。その結果、完全に事件は迷宮入りし、現在でも多くの謎が残されており、真相は闇の中です。

大気物理学とは

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ディアトロフ峠事件は、そのほとんどが謎に包まれた事件です。真相はほとんど解明されていませんが、この事件の原因の一つに大気物理学が仮説として立てられています。

この事件で提唱されている大気物理学には、障害物による気流の流れが、さまざまな問題を引き起こします。日本でも風車の稼働時に気流が発生し、その間のみ住人全員が集中力不足や不眠などの症状が出たとのことです。

事件現場はこの大気物理学の影響が最も受ける場所であり、この現象により9名全員が一晩中不快感などを味わい続けパニックになり、このような不可解な事件を引き起こしたのではないかという説があります。

ディアトロフ峠事件の詳細

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1959年2月2日、旧ソ連の死の山と言われる場所で、スノートレッキング中の9名の男女が遺体で発見されました。この事件にはさまざまな不可解な点があり、生存者がいないため真相は不明です。

旧ソ連のウラル山脈北部でスノートレッキングを企てる

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男性8名女性2名の一行は、旧ソ連のウラル山脈北部でのスキーによるトレッキングを企てていました。グループの多くは現在のウラル工科大学の生徒、もしくは卒業生でした。

最終目的地は、事件現場から北に約10kmの地点にあるオトルテン山に設定されました。事件当時の季節を考慮すれば、かなり難易度の高いルートだったと言えます。

グループ全員が、山岳遠征や長距離のスキー旅行の経験を有しており、この計画に反対するものはいませんでした。

1月25日イヴデリへ その後ユーディンが途中離脱

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1月25日、グループの一行が乗った列車はイヴデリに到着しました。その後、彼らはトラックでさらに奥地へと入ります。そして、イヴデリから約80km北に向かい最後の有人の集落であるヴィジャイに着きました。

1月27日、一行はヴィジャイからオトルテン山へ向け出発します。しかし翌28日に、メンバーの一人であるユーリー・ユーディンが持病であるリウマチの悪化が原因で途中離脱しました。

残りの9名でオトルテン山に向かいます。このときのユーリー・ユーディンと別れたのを最後に、生前の一行を見た人はいませんでした。

2月1日ルートを外れホラート・シャフイル山(死に山)へ

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1月31日、一行はオトルテン山の麓に到着しました。そして、本格的な登山の準備を行います。食料や物資を取り分けたり、帰路に備えて残置をしていたとのことです。

2月1日、一行はオトルテン山へと続く渓谷に入ります。渓谷を北に越えた場所でキャンプを張る予定にしていましたが、悪天候や吹雪による視界不良にて方向を見失い、ルートが西に逸れてしまいます。

そして彼らは、死の山と呼ばれるホラート・シャフイル山を登り始めます。途中で一行は方向の誤りに気づきましたが、その山の斜面でキャンプを張ることを決断しました。

電報が来ず2月20日捜索開始

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グループは登山を終えヴィジャイに戻ると電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報がくるだろうと予想されていました。

事前にメンバーが途中離脱したユーリー・ユーディンに対して、少し遠征が長引くかもしれないと伝えられていたため、2月12日になってもいまだ電報がこないことに対しては、誰も気にとめていませんでした。

2月20日、グループの親族たちからの要請で、ボランティアの学生や教師たちからなる最初の救助隊が派遣されます。その後、軍や警察も捜索に加わり、ヘリコプターや航空機を使用した大規模な捜索となりました。

2月26日五人の遺体が発見される

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2月26日、死の山で損傷の酷いテントが発見されます。その近辺の森で5名の遺体が見つかりました。テントは内側から切り裂かれており、足跡が遺体発見現場の森へと続いていたとのことです。

森のはずれに大きなヒマラヤスギの木があり、その下に2名の遺体と焚き火の跡が発見されます。木の枝が5mの高さで折れていたこともあり、1人が木に登ったと想定されています。

そして、残り3名の遺体もそれぞれ離れた位置で別々に見つかり、遺体の姿勢からテントに戻ろうとして死亡したと考えられています。

5月に残り四人の遺体が発見された

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5名の遺体を発見してから2ヶ月後、残り4名の遺体が発見されました。場所は、最初の遺体発見現場のヒマラヤスギの木がある場所から、さらに75mほど奥の渓谷にある雪の下でした。

この4名の遺体は、最初に発見された5名の遺体にくらべ服装がしっかりとしていました。また最初に発見されたメンバーの衣服を一部着用していたことから、残りのものたちに衣服を譲ったと推測されます。

発見時のテントや遺体の様子が悲惨だった

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テントは内側から大きく半分に引き裂かれており、荷物はそのままだったとのことです。また、最初に発見された5名の遺体は、ほぼ下着姿の状態で死因は低体温症でした。

後日発見された4名の遺体が特に悲惨な様子です。そのうちの3名は致命傷を負っていました。1名は頭部に大きな怪我を、2名は肋骨が骨折していたとのことです。

不可解なことに、この骨折は交通事故の衝撃に匹敵するぐらいの強いものであるにも関わらず、外傷を負っていませんでした。またその2名は舌を失っており、うち1名は眼球もなかったそうです。

ディアトロフ峠事件の不可解な点

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死の山で起きたこの事件には、さまざまな不可解な点が挙げられます。残されたテントの状態や遺体から検出された放射線。遺体の肌の色など、今なお真相は解明されておりません。

テントの痕跡

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当時、死の山には他の者がいた形跡はありませんでした。

テントに残された痕跡を調査した結果、一行はテントを内側から切り裂き、極寒の中を自ら進んで離れていったことが判明しました。

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