湯口事件(湯口敏彦投手が急逝)の真相!事件の詳細や死因まとめ

湯口敏彦さんが巨人に入団し2年目に急逝しました。これは湯口事件として大きく取り上げられることとなったのです。湯口敏彦さんはなぜ亡くなってしまったのでしょうか?湯口敏彦さんが亡くなる前までの経緯とともに詳しく調べてみました。

湯口敏彦が急逝した湯口事件

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読売ジャイアンツに所属していたプロ野球選手の湯口敏彦さんが急逝しました。湯口敏彦さんは若干20歳という若さで亡くなってしまったのです。

湯口敏彦さんは高校を卒業と同時に読売ジャイアンツに入団しました。念願のプロ入りを果たして、わずか2年という短い期間で帰らぬ人となってしまったのです。

そんな湯口敏彦さんについて調べてみました。

湯口敏彦のプロフィール

湯口敏彦さんは1952年6月3日生まれの岐阜県出身です。現在の岐阜第一高等学校のエースとして、甲子園にて活躍しました。高校時代にはノーヒットノーランをも達成する活躍をみせました。

高校卒業後は、ドラフト1位指名の読売ジャイアンツに入団しました。野口敏彦さんの持ち味は、ストレートの球でした。カーブも得意としており、そのスピードは一級品だったと言われています。

湯口敏彦のプロ入りまでの経歴

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野口敏彦さんは、高校卒業してからプロとして読売ジャイアンツに入団しました。高校時代はスピードある速球で話題の選手として活躍していました。

高校時代には甲子園にも出場しており、春の甲子園ではベスト8にあがり、夏の甲子園ではベスト4にまで勝ち上がりました。

高校時代の成績は28勝4敗という好成績をおさめているのです。さらには、完全試合を1回達成しており、ノーヒットノーランは3回もおさめているのです。

湯口敏彦の性格は

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湯口敏彦さんは真面目な性格ゆえに、おとなしく人見知りであったと言われています。そのため、家族からはプロに入団することは、性格上厳しいのではないかと言われていたそうです。

さらに、読売ジャイアンツという大手の球団ということもあり、家族の不安は大きかったといいます。湯口敏彦さんは地元である、中日ドラゴンズへの入団を希望していたそうです。

しかし、読売ジャイアンツからの誘いに魅力を感じ、本人の意思のもと入団を決意したそうです。練習は誰よりも真面目に張り切って行っていたそうです。

湯口事件の経緯

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当時20歳だった湯口敏彦さんが入団2年目に亡くなりました。この湯口敏彦さんの亡くなったことを湯口事件として語られています。

湯口敏彦さんはどのような経緯で入団し、亡くなってしまったのでしょうか?湯口事件を時系列で詳しく見ていきましょう。

1970年のドラフト1位指名で巨人に入団

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1970年の秋に、湯口敏彦さんはドラフト1位指名を受けた読売ジャイアンツに入団しました。湯口敏彦さんはピッチャーとしての実力を買われ、巨人から1位指名を受けたのです。

性格から湯口のプロ入りを懸念する声も

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湯口敏彦さんの温厚な性格から、プロ向きではないのではと言われ、周囲からは懸念する声もあがっていたと言います。湯口敏彦さんの両親も、快くは思っていなかったそうです。

しかし、湯口敏彦さんは自身のプロで活躍したいという強い思いから、プロに入る決意をし、巨人へと入団を決めたのです。

1年目は練習過多・肘の故障で二軍戦に出場、17試合5勝6敗76四死球

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入団して1年目の1971年は公式での一軍の登板はありませんでした。真面目な性格ゆえに、練習でも手を抜くことをしておらず、もくもくと練習をこなしていたそうです。

この練習が不幸を招き、肘を故障してしまったのです。そのため、一軍には出られず二軍としてスタートしました。二軍では好成績を収めることができず、17試合に登板しましたが、5勝6敗の成績でした。

さらに、76四死球となってしまう結果におわりました。

2年目、フォーム改造を受けるも湯口に異変が現れ始める

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1972年の2年目には、湯口敏彦さんはコントロールの不安定さから、フォームの改造に取り組むこととなります。しかし、湯口敏彦さんの持ち味が消えることとなり調子を崩します。

二軍の投手コーチからの助言により、元のフォームに戻すこととなりました。その結果、湯口敏彦さんは調子を戻し、好成績をおさめるまでとなったのです。

二軍コーチやマネージャーが気づいた湯口の異変

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湯口敏彦さんは一軍になかなか登板できないことを悩んでおり、父親に電話で相談していたそうです。父親も湯口敏彦さんの覇気のなさに気になっていたそうです。

さらには、二軍コーチも休みの日に若手を連れて遊びに出かけた時も、湯口敏彦さんが仲間と話さなくなったことや、波を怖がるようなおかしな行動に気づいていたそうです。

2年目も2勝3敗、シリーズの後半で首脳陣から評価され年俸上昇

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1972年の2年目にも一軍に登板することはありませんでした。二軍で湯口敏彦さんは2勝3敗という結果に終わりましたが、ピッチングも良くなっていることから、評価されていました。

その結果に、1年目からは年俸も15%ちかくもあがっていたのです。さらには、湯口敏彦さんは翌年には一軍での登板も約束されていたのです。

1972年11月23日、湯口はファン感謝デーの紅白戦に出場

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そして、1972年11月23日にファン感謝デーが行われました。この前日には毎年恒例の寮生による無礼講の飲み会があったのです。この飲み会は首脳陣も公認の飲み会でした。

湯口敏彦さんもこの時ばかりは、明るさを取り戻しており、仲間たちと浴びるようにお酒を飲んで宴会を楽しんでいたそうです。そして、翌日のファン感謝デーでは二日酔いのまま参加となりました。

二軍選手には出番がないと思っていた湯口敏彦さんでしたが、突然紅白戦での登板を命じられたのです。

前日の無礼講の飲み会の影響もあり不調、監督から叱責

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しかし、湯口敏彦さんは前日の飲み会のお酒が残っており、不調な結果となってしまったのです。2死をとっただけで、打者が一巡するという散々な結果になりました。

そのため、ベンチに戻ると川上監督と中尾二軍監督から叱責されたのです。湯口敏彦さんは激しく怒られたことに憔悴してしまいました。

コーチが慰労会を開くも湯口は寮に戻らず、二軍監督が殴る

紅白戦が終わり中村二軍投手コーチが選手を自宅に呼んで、慰労会を行いました。そこで、湯口敏彦さんの異変に気付いたのです。見るからに憔悴しきった表情でうつろな目をしていたそうです。

その夜、慰労会の解散の後に選手たちは寮に戻りましたが、湯口敏彦さんは戻らなかったそうです。そして、次の日に中尾二軍監督は湯口敏彦さんを怒鳴り殴ったのです。

11月27日、納会で調子がおかしく、翌日うつ病と診断を受ける

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湯口敏彦さんはそこから本格的に湯口敏彦さんの様子はおかしくなったのです。仲間から話しかけられても、返事をしなかったり、終始無言だったりとしていたそうです。

11月27日の恒例の熱海での納会でも湯口敏彦さんの様子はおかしく、何人かがその様子の異変に気づいていたのです。そして、中尾二軍監督はすぐに実家に連絡をいれました。

その翌日に球団のかかりつけの医師より、うつ病であるという診断をうけたのです。

11月29日、湯口は緊急入院へ

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11月29日に湯口敏彦さんは専門病院への入院が決まりました。この湯口敏彦さんの入院は極秘としており、球団外への告知はされていませんでした。

その後、湯口敏彦さんは2度も入退院を繰り返し、少しずつ病状は落ち着いてきました。この時、湯口敏彦さんは紅白戦での結果を悔やんでいたそうです。

1973年2月15日、復帰するも同室の淡口憲治が異変に気づき報告

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1973年2月15日に湯口敏彦さんは医師の診断のもと、練習へと復帰しました。そのまま二軍のキャンプに参加となったのですが、初日にまた異変がおきたのです。

湯口敏彦さんと同室だった淡口憲治さんが、湯口敏彦さんの様子がおかしいと藤本マネージャーのところに報告します。

2月20日、湯口を強制送還

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湯口敏彦さんは壁にむかって微動だにせず座っていたり、夜中に叫んだりと異変が続いたため、キャンプ地から東京に強制送還されたのです。

湯口敏彦さんは「野球をやらせてくれ」と大声で叫んだりと暴れまわりました。その後、病院へと直行しそのまま緊急入院となったのです。

3月22日、湯口は病院のベッドで変死

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湯口敏彦さんは精神科の病院での入院となり面会謝絶となりました。この時、マスコミ向けには「風邪が悪化し肺炎のための入院」となっていました。

そして、3月22日に湯口敏彦さんは入院先の病院で亡くなったのです。

湯口事件が起こった時代背景

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この悲しい湯口事件が起きた時代は1970年代でした。この湯口事件が起きた当時の時代背景にもさまざまな誤解があったと言われています。

精神病はタブー

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当時、1970年代には精神病という病気はタブーとされ隠す時代でした。精神病というだけで、世間からは白い目で見られるという時代だったのです。

うつ病に対する誤解

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そのため、うつ病に対しての誤解も多くありました。当時はうつ病というのは、感染するとも言われていたのです。そのため、本人や家族に対しても差別的な扱いを受けることも度々あったと言われています。

湯口事件の真相、急死した湯口敏彦の死因とは

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湯口事件の真相はどうなっているのでしょうか?湯口敏彦さんの死因は何だったのでしょうか?

球団・病院は「心臓麻痺」と発表

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球団と病院の医師からは「心臓麻痺」によるものと発表されました。湯口敏彦さんは夕飯を食べた後に、心臓発作を起こしパジャマのまま倒れたとされています。

マスコミは自殺だったと報道

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しかし、マスコミは湯口敏彦さんは自殺だったと報道したのです。この湯口敏彦さんの死を受けて週刊ポストがいち早く、これは事件だと報じたのです。

川上監督の湯口死去時の発言がバッシングへ繋がる

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そして、川上監督が湯口敏彦さんの死を受けてコメントを発表しました。この時の発言がひどいとバッシングを受けることとなるのです。

「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」と発言した。

(引用元:wikipedea)

湯口事件のその後

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湯口事件を受けて、巨人のイメージは下がる一方でした。この湯口事件がもたらした影響は大きなものだったのです。

巨人のイメージ低下、1973年のドラフトで指名した7人中4人が入団拒否

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この湯口事件を受けて、巨人へのイメージは低下の一方をたどりました。川上監督の発言からも、監督や球団に対してのバッシングはやまず連日、湯口事件が報道されました。

さらには、湯口事件が起きた1973年にはドラフトにた指名した7人中4人が入団を拒否する事態となったのです。選手の中には、湯口事件があったからという理由をこぼした選手もいたのです。

キャンプ中に変死した野球選手は他にもいた!

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2007年に大学卒業と同時にドラフト指名されて、オリックス・バファローズに入団した小瀬浩之さんは、2010年にキャンプ地の沖縄県宮古島のホテルで休止していたのです。

2010年2月5日の春キャンプで沖縄県宮古島を訪れていました。そんな中、小瀬浩之さんは宮古島のホテルの10階の自分の部屋から転落死しているところを発見されました。

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