石狩沼田幌新事件の概要と現場について!人食い羆事件は海外の事例もある!

石狩沼田幌新事件をご存知でしょうか。ヒグマが次々と人を襲う、食うなどをした、日本で記録されているものの中で2番目に被害が大きかった獣害事件です。恐ろしいヒグマによって起きた石狩沼田幌新事件の概要及び事件発生のきっかけ、その後などを調査しました。

石狩沼田幌新事件の概要

北海道雨竜郡沼田町にある幌新地区で獣害事件が起きました。5人が死亡、3人が重傷を負いのちに石狩沼田幌新事件と呼ばれたこの事件の犯人はヒグマです。人食い羆に人間が襲われたのです。

1923年に起きた日本史上2番目のクマ被害

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1923年(大正12年)の8月21日の夜中から8月24日まで、北海道雨竜郡沼田町にある幌新地区でヒグマによる獣害事件が起きました。

この事件は日本史上で2番目に被害が大きかった獣害事件だと言われています。1番に数えられているのは三毛別羆事件でこちらも羆による事件でした。

北海道雨竜郡沼田町について

現在では質の良い米を多く生産することで有名な地ですが、事件現場となった北海道雨竜郡沼田町は当時開拓地でした。そのため娯楽が少なかったといいます。

開拓する前は面積の8割が原生林に覆われていました。ヒグマにとって生活しやすい地だったのです。

太子講の祭りについて

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太子講の祭りとは聖徳太子を奉讃する講です。石狩沼田幌新事件ではこの太子講の祭りが行われ、祭り帰りの一行がヒグマに襲われました。

大工,左官,鍛冶(かじ)屋などの職人仲間で聖徳太子を守護神として行う職業講。太子が寺院建築史上大きな存在であったことに由来する。祭日は所により一定でないが,年に1〜2度集まって太子をまつる。

(引用:コトバンク)

ヒグマとは?

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ヒグマ(羆、緋熊、樋熊、学名:Ursus arctos)はクマ科に属する哺乳類である。ホッキョクグマと並びクマ科では最大の体長を誇る。また、日本に生息する陸棲哺乳類(草食獣を含む)でも最大の種である。

(引用:Wikipedia)

ヒグマは主に雑食ですが同じクマ科であるツキノワグマと比べると肉食の傾向が強いと言われています。シカやイノシシやネズミなどの哺乳類からサケなどの魚類、果実も食します。

最近の研究ではトラ、オオカミなどの肉食獣が殺して得た獲物を盗むことが明らかとなっています。

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また、稀ですが人を食すこともあります。そして1度人を食べたヒグマは再び人を襲うようになる傾向があるため非常に危険だと言われてきました。

自分が得た獲物に対しての執着心が強いため、ヒグマに物を奪われた際、取り返そうとするのは危険な行為です。

北海道でのヒグマと人間との接触事故は以前から問題になっていました。近年でもヒグマと遭遇する事故は年々増加してきているといいます。

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なお、北海道からは代表的な俳優安田顕さんと大泉洋さんが誕生しています。詳細は以下からご覧ください。

石狩沼田幌新事件の時系列

石狩沼田幌新事件の始まりは祭りでした。開拓地で行われた祭りは盛り上がり、8月21日の夜中頃にお開きとなります。

その際祭り帰りの少年をヒグマが襲いました。これをきっかけにヒグマは次々と人を襲います。

死者、怪我人が続出し、討伐に成功したのは3日後の24日でした。

8月21日沼田町内の恵比島地区で祭りが開催

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1923年(大正12年)の8月21日、太子講の祭りが北海道雨竜郡沼田町内の恵比島地区で行われました。

娯楽の少ない開拓地なため、祭りの余興で演じられる浪花節、人情芝居などを目的に近隣の村からも多くの人が参加しました。

ヒグマがお祭り帰りの少年を襲う

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祭りは大いに盛り上がり、お開きとなったのは午後11時半頃です。祭りに参加した幌新地区の支線の沢、本通筋からきた一団も山道を歩き帰路についていました。

幌新本通りの沢に通りかかった頃のことです。途中、尿意を催し小便を済ませていたため一行より50m程度遅れて歩いた林謙三郎(19歳)は背後から物音がしたことに気が付きました。

謙三郎が振り返ると藪の中から飛び出たヒグマが襲い掛かってきたのです。まだ若かった謙三郎はヒグマから逃れようと暴れました。

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着物や帯を裂かれてしまいましたがなんとか脱出することに成功した謙三郎。前方を歩いていた一団の最後尾まで追いつき、ヒグマが襲ってきたことを皆に知らせます。

しかしヒグマは一団の先頭まで先回りしていました。ヒグマは先頭集団にいた一人、村田幸次郎(15歳)を撲殺します。

続いて幸次郎の兄である与四郎(18歳)にも襲い掛かり、重傷を負わせて生きたまま保存食として土の中に埋めました。そして撲殺した幸次郎の遺体を腹から食べ始めたのです。

農家に逃げ込むが暗闇から襲撃される

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パニック状態になった一団はその場から300mほど離れた場所に木造平屋建ての農家を見つけます。一団はそこに逃げ込んで屋根裏や押し入れなどに身を隠しました。

ヒグマを追い払うために火も焚き、立ち向かおうとしたのです。そうして30分程経った頃、ヒグマが幸次郎の内臓を食べながら現れます。

ヒグマはガラス窓の外から屋内の様子を窺い始めました。家人はヒグマを追い払おうと座布団などを手当たり次第投げつけます。しかし効果はなく、ヒグマは玄関に回りました。

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村田兄弟の父親である三太郎(54歳)はヒグマを家に入れないように必死に戸を押さえました。けれどヒグマの力には敵わず、ヒグマは三太郎ごと戸を押し倒し家の中に侵入しました。

三太郎はスコップを持ちヒグマに立ち向かいましたが叩き伏せられて重傷を負ってしまいます。ヒグマは囲炉裏で燃え上がる炎を恐れることなく踏み消しました。

そしてヒグマは部屋の隅で恐怖のあまり震えていた母親のウメ(56歳)を咥え上げます。

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そのまま家を出ようとするヒグマを三太郎が半狂乱となってスコップをヒグマに叩き込みますがヒグマはそのまま山の中へウメを引きずっていきました。

2、3度ウメの助けを求める叫びが響いたといいます。かすかに聞こえる念仏も何度も聞こえてきましたが、徐々に遠ざかり夜風の音に吹き消されてしまいました。

8月22日の出来事

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妻と子供を失った三太郎はもちろんのこと、避難していた一団は憔悴していました。焦燥に駆られていましたが避難した家は銃の蓄えのない農家だったため家に閉じこもって身を守るしかなかったのです。

恐怖に震えながら迎えた22日の朝、偶然、事情を知らない村人が農家のそばを通りかかりました。

一団は大きな声で助けを求めます。ヒグマはすでに去っていることを聞いた上で家の外へ出ると、母であるウメの捜索を開始しました。

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ウメは近くの藪の中にて下半身をすべて食べられた遺体の状態で見つかりました。そして土に埋められた与四郎も見つけます。

与四郎は虫の息でしたがまだ生きていました。すぐに沼田市街の病院で手当てを受けましたが、容体は悪化し後日亡くなっています。

8月23日応援に駆け付けた狩人が消える

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22日の間にヒグマによって起きた事件は沼田町全域が知ることとなりました。そして翌日の23日に熊撃ち名人が応援に駆け付けます。

熊撃ち名人として有名な砂澤友太郎を筆頭に、3人のアイヌの狩人が訪れたのです。

そのうちの1人、長江政太郎(56歳)は事情を聞いて憤慨しました。

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「そのような悪い熊は、ぜひとも自分が仕留めなければならない」と、周囲が止めるのも聞かず単身でヒグマ退治に赴いたものの、山中で数発の銃声を響かせたきり行方知れずとなった

(引用:Wikipedia)

長江政太郎は仇討ちを試みましたが、その後行方がわからなくなってしまったのです。

8月24日ヒグマ討伐隊が結成

24日、応援部隊が幌新地区にやってきました。在郷軍人や消防団、青年団等総勢300人あまり集まったのです。

そのうえ幌新と恵比島の集落の中で60歳未満の男性は残らず出動しました。ヒグマ討伐隊を結成したのです。

激闘の末ヒグマを討伐

しかし、一行が山の中に入っていってまもなくヒグマが現れました。そして上野由松(57)という討伐隊最後尾にいた人間が撲殺されています。

ヒグマはさらに暴れて折笠徳治に重傷を負わせました。咆哮を上げながら他の討伐隊にも襲い掛かろうとします。

けれどその時、現役除隊したばかりの軍人が撃った銃弾が命中します。畳みかけるように鉄砲隊が一斉射撃をしました。

その後、ヒグマはついに倒れます。ヒグマの討伐が成功しました。

なお、現場のそばには23日から行方不明となっていた長江政太郎が、頭部以外のすべてを食べられた遺体の状態で発見されています。

日本史上2番目となるヒグマ事件となった

ヒグマが討伐された時点で、村田幸次郎と村田ウメ、長江政太郎と上野由松の4人がヒグマによって亡くなっています。

加えて林謙三郎と村田三太郎、村田与四郎と折笠徳治の4人が重傷を負いました。日本史上で2番目に大きな被害を出したヒグマ事件となったのです。

討伐されたヒグマについて

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討伐されたヒグマは日本史上で最も大きな被害を出したといわれる三毛別羆事件の加害クマよりは小さいものの、巨体であることには間違いありませんでした。

ヒグマの大きさ

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石狩沼田幌新事件の加害クマは体長およそ2m、体重は200㎏にも及ぶ雄の成獣でした。

胃の中からは大量の人骨や指が出てきた

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ヒグマを解剖した結果、胃の中から大きなざる一杯分の人骨と消化されていない人間の指が発見されています。

三毛別羆事件のヒグマとの比較

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獣害事件では有名な三毛別羆事件のヒグマと比べると石狩沼田幌新事件の加害クマの行動は少々異なります。

まずヒグマの大きさが違います。三毛別羆事件の加害クマは石狩沼田幌新事件の加害クマよりも大きく特徴がありました。

ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。

(引用:Wikipedia)

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三毛別羆事件の場合、加害クマは最初に女性を食べました。その味を覚えてしまい、その後女性ばかりを狙って襲ったのです。

けれど石狩沼田幌新事件の加害クマが一番最初に食べたのは男性でした。幸次郎、政太郎が食べられています。

しかし一団が逃げ込んだ農家では父親の三太郎を狙いませんでした。加害クマはその妻であるウメを狙ってさらっていきます。遺体発見時に食われたことがわかりました。

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男性の味を覚えたはずなのに何故女性を狙ったのか、疑問が残るところです。

この件に関して、ウメが恐怖に震えていて抵抗するように見えなかったから、襲いやすかったから女性であるウメが選ばれたのではないかという説もあります。

事件の発端は何だったのか?

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何故石狩沼田幌新事件は起こったのか、ヒグマは何故一団を襲ったのか、それはヒグマと遭遇しやすい土地だったことのほかにも理由がありました。

事件後に調査して発覚したことなのですが、祭りの帰り道、一団がヒグマに襲われた場所には斃死した馬の死体が埋まっていたのです。これは加害クマが隠していたものでした。

加害クマは事件を起こす数日前からこの死体を食べていたのです。つまり、加害クマにとって大事な保存食でした。

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加害クマは死体を少しずつ食べていたので空腹だったのではないかとも考えられています。

そんなところに一団が偶然出現したため、大切なエサを狙う敵と認識し襲ったのだと見られています。そして、当時空腹だったからこそ人を食べたのではないかとも言われています。

石狩沼田幌新事件のその後について

石狩沼田幌新事件のその後、ヒグマの毛皮が近隣の小学校にて展示されることとなります。その後移され資料館で展示されるようになりました。

舞台となた地は一時開発が進み栄えることもありましたが、現在はダムの底に沈んでいます。

ヒグマの毛皮の写真と現在の展示場所

石狩沼田幌新事件のその後、幌新小学校にヒグマの毛皮が展示してありました。しかし1967年、昭和42年に幌新小学校は廃校となってしまいます。

その後は幌新会館に展示されることとなり、現在は沼田町郷土資料館に移されています。

重傷を負った林謙三郎のその後

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重傷と負いつつかろうじて命は助かった林謙三郎でしたが、その後は一度たりとも山に入らなかったといいます。

NEXT 事件の舞台となった幌新太刀別川上流部の現在