三毛別羆事件の概要!ヒグマの大きさや剥製画像は?生き残りの現在も!

1915年に北海道苫前郡という場所で、民家が次々とヒグマに襲われる三毛別羆事件が起こり、映画化されたり現地が観光スポットになるなど大きな話題となりました。今回はヒグマの画像や剥製の有無、生き残りとされた村人のその後、さらに海外の反応についてまとめてみました。

三毛別羆事件の概要

三毛別羆事件とは、1915年の12月9日に始まったエゾヒグマによる民家襲撃事件のことで、発生場所が北海道苫前郡の三毛別六線沢という地域だったため「三毛別羆事件」と呼ばれています。

現在は三渓という地名になっています。現地では事件の様子が復元されて観光スポットになっていて、「羆事件現地」という看板が立てられ当時の村の様子や熊の像を見学することができます。

今回は、そんな三毛別羆事件の概要や射殺までの経緯、犯人であるヒグマの画像や剥製についてご説明していきます。さらに海外の反応や、生き残りとされた村人達のその後についてご紹介します。

1915年に起きた日本史上最悪の被害を出したヒグマ事件

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三毛別羆事件では村人7人が死亡、3人が重傷という最悪な結末を迎えました。ですが重傷者のうちの1人が事件の後遺症により数年後に死亡しているので、合わせて8人の死亡者とされる場合もあります。

上記のように大きな被害を残したこの事件は「日本史上最悪の害獣事件」と言われていて、ネット上で事件の詳細を知った人の中には、あまりの凄惨さに気分を害した人までいるほどでした。

以下の記事では、三毛別羆事件に次いで2番目に大きな被害を出したヒグマに関する事件についてご紹介しています。

エゾヒグマとは?

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事件の主役であるエゾヒグマとは、ネコ目クマ科に分類されるヒグマの亜種(種の中での下位区分)であり、世界中の寒い地域に生息するヒグマとは違い、エゾヒグマは主に日本の北海道に生息しています。

ヒグマの亜種とは言っても、日本に生息する陸上動物の中では最大の大きさとされていて、「和製グリズリー」とまで呼ばれています。動物園だと、本州だけでなく四国や九州でも飼育されています。

雑食性であり草や木の実、魚などを食べることもあれば、動物の肉を食べることもあります。ですが積極的に狩りをするのではなく、餓死などで死んだエゾジカなどの屍肉を食べるといいます。

事件場所となる北海道三毛別六線沢について

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地名の「三毛別」とはアイヌ語が由来となっていて、アイヌ語で「川下(浜)へ流し出す・川」という意味の「サンケ・ペツ」という言葉からこの地名になったとされています。

元々住民のいなかった北海道三毛別六線沢という場所はヒグマの住処となっていたようですが、東北などから移り住んできた人々が三毛別の森林などを伐採して開拓集落としました。

この事件を知った日本人や海外の反応の中には、森林伐採でヒグマの生息範囲に侵入してしまったことが三毛別羆事件の大きな原因なのではないか、と主張する人も少なくありません。

三毛別羆事件の時系列

この事件ではたった一頭のヒグマにより複数の民家が血の海となり、村全体は怒りと恐怖に震えることとなりました。そんな三毛別羆事件の概要を時系列に沿ってご説明していきます。

1915年11月に池田家に襲来した穴持たずのヒグマが現れる

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1915年11月初旬のある日の夜明け前、六線沢の集落に住む池田家に大きなヒグマが姿を現しました。先ほどもご説明したように、開拓集落であったこの地に野生動物が姿を見せることはよくあることでした。

この時は、池田家で飼育していた馬が暴れ出したために被害はわずかなもので済んだといいます。ですが家主である池田富蔵という男性は、ぬかるみに残った足跡の大きさに不安を抱きました。

再びヒグマの姿を見た池田富蔵は隣村から2人のマタギを呼び、30日にヒグマを待ち伏せして仕留めようとしましたが失敗しました。一行は足跡を追ったものの、地吹雪が強くなり断念を余儀なくされたといいます。

穴持たずのヒグマとは?

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池田家を訪れたヒグマは「穴持たずのヒグマ」といって、何らかの理由によって冬眠に失敗したヒグマのことを指します。冬眠できなかったクマは、空腹などでかなり凶暴になるといいます。

池田家に残された足跡の異様な大きさから、このヒグマは身体が巨大すぎたために冬眠場所を見つけられなかったのでは、と言われています。

12月9日に太田家に襲来

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12月9日の午前10時半頃、太田家では家主の太田三郎(42歳)が仕事に出払っていたため、内縁の妻・阿部マユ(34歳)と、知人から預かっていた蓮見幹雄(6歳)が留守番をしていました。

昼になり食事のために仕事から帰った寄宿人の長松要吉(59歳)は、家の中を見て驚愕しました。血まみれの幹雄が喉元をえぐられて死んでいて、何かを引きずったような血の跡がありました。

マユの姿が見当たらなかったため要吉は家を飛び出して人を呼び、駆け付けた村人達によりヒグマの足跡が発見されました。窓枠に彼女の頭髪の一部を発見したため、ヒグマに連れ去られたと断定しました。

事件発覚により村は大騒動となる

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幼い幹雄がヒグマに殺され、マユが連れ去られたこの事件に村中は大騒ぎとなりました。ですが12月の北海道は日の入りも早かったためこの日はどうすることもできず、翌日にマユを探し出すこととなりました。

12月10日マユの遺体を発見

翌日、マユを探し出すこととヒグマを仕留めることを目標に、30人近くの捜索隊が結成されました。ヒグマの足跡を頼りに森に入った捜索隊は、150メートルほど進んだ場所で巨大なヒグマと遭遇しました。

馬を軽く超える大きさに驚きつつも5人の隊員が発砲しようとしましたが、十分な手入れがされておらず1丁だけしか発砲できませんでした。ですが運良くヒグマが逃走に転じたため、捜索隊に被害はありませんでした。

安堵する捜索隊は、雪が積もる地面の一画が血に染まっていることに気が付きます。なんとその下には頭部の一部と膝下の足だけが残されたマユの遺体が埋もれていました。保存食にするため、雪の下に隠していたのです。

太田家の葬儀にヒグマ襲来

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その日の夜、幹雄とマユの通夜が太田家にて行われましたが、ヒグマを恐れて家を出たがらなかった人も多く通夜はわずか9人で執り行いました。ですが皮肉にも、この通夜の最中に再びヒグマに襲撃されました。

時間は午後8時半頃、乱入してきたヒグマによって棺桶がひっくり返されて遺体が散らばるなか、通夜の参加者達は我先にと野菜置き場やトイレ、梁の上に上るなどして逃げ惑いました。

騒ぎを聞きつけた50人の男達が駆け付けた頃には、すでにヒグマは姿を消していました。犠牲者こそ出ませんでしたが、このまま太田家にいては危険だと判断して下流にある明景家に避難しようと太田家を後にしました。

明景家襲来

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この時明景家には胎児含め11人が避難していて、暗がりに火を焚きながら夜が明けるのを待っていましたが、そのほとんどが10歳にもならない子供ばかりで男手は長松要吉だけでした。

何故子供ばかりが残されていたかというと、太田家の通夜にヒグマが襲撃したことを聞きつけた男達が太田家に出動していたからでした。さらに護衛たちも丁度食事に出かけていました。

ですので家にいたのは明景ヤヨ(34歳)とその子供である力蔵・勇次郎・ヒサノ・金蔵・梅吉と、斉藤家から避難してきた妊婦のタケ(34歳)とその子供である巌・春義、そして長松要吉という顔ぶれでした。

午後8時50分頃、ヒグマが襲来

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午後8時50分頃、ヒグマが窓を割って地響きとともに乱入しました。ヤヨは外へ逃げ出そうとしますが、ランプが消えて真っ暗だったのと驚いた勇次郎が足元にすがりついてきたため転んでしまいました。

ヒグマは梅吉と倒れたヤヨの頭部に噛みつきましたが、外に逃げ出そうとした要吉に気を取られてヤヨ達を離しました。すぐ追いつかれた要吉は腰を噛まれましたが、ヒグマは標的を変えて室内に歩いていきました。

室内で怯えていた春義と金蔵を1度の殴打で撲殺し、巌に噛みつきました。その後ヒグマは野菜置き場に隠れていた妊婦のタケに襲い掛かり、「腹は破らんでくれ」と叫ぶタケを無残にも上半身から食べたといいます。

ヒグマを包囲するが仕留められず悲惨な結果に

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太田家を後にして明景家に向かっていた通夜の参加者達は、重傷を負いながらも逃げ出してきたヤヨ・梅吉・勇次郎と遭遇し、ヒグマが明景家を襲撃したことを知りました。

ようやく現地に着いた一同は骨を砕くような咀嚼音とタケの呻き声を聞いて、まだヒグマが家の中にいることを悟ります。彼らは家を包囲して仕留めようとしますが、再び銃は不発に終わりヒグマは姿を消しました。

家の中は天井にまで血しぶきが飛ぶほどの血の海となっていて、その中でタケ、春義、金蔵の喰い裂かれた遺体を発見しました。雑穀俵に隠れていた力蔵と、恐怖のあまり失神していたヒサノは奇跡的に無傷で済みました。

二日間で胎児含む7名が犠牲に

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明景家の襲撃で重傷を負った人達の応急手当は3キロ離れた辻家にて行われました。胸や肩を噛まれ、左の太ももからお尻にかけて喰い裂かれて骨だけとなった巌は、手当ての甲斐なく20分後に死亡したといいます。

これによりヒグマの犠牲者は胎児含めて7人となりましたが、要吉・ヤヨ・梅吉は重傷を負いながらも一命は取り留めました。この明景家の襲撃を受けて、六線沢に住む15戸の民家はみな三毛別分教場へ避難しました。

12月11日討伐隊の組織を置く

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三毛別地区区長の大川与三吉(47歳)は村の長老や駐在所の巡査達と話し合い、ヒグマ襲撃事件の解決を警察に頼ることを決断しました。北海道庁に連絡がいき、12月11日にはヒグマ討伐隊が結成されました。

検死をするために一足早く村に着いた医師は、その道中でヒグマの糞を発見しました。その糞を検分すると、中から未消化の人肉や髪の毛が出てきて立ちすくんだといいます。

討伐隊には消防団や青年会、アイヌ民族にも協力を仰いで多くの人員を三毛別に差し向けましたが、ヒグマは上手く林野に姿を隠していたため捕らえることはできずにいました。

前代未聞の作戦

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姿すら捕らえることが出来ずにいた討伐隊は、ヒグマの習性を利用して犠牲者の遺体をエサにおびき寄せるという前代未聞の作戦を提案しました。

菅隊長は目的のためこの案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。だが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。事態はそれだけ切迫していた。(引用:Wikipedia)

作戦はすぐさま決行され、太田家の居間に胎児含む6人分の遺体を置いた状態で討伐隊は待ち伏せをしました。すると予想通りヒグマが現れましたが、警戒して家に入ろうとせず、森へと引き返していきました。

12月13日歩兵隊が投入されヒグマは村を荒らし回る

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前代未聞の作戦も失敗に終わり、13日には歩兵隊28連隊が出動しました。その間、住民のいなくなった六線沢をヒグマは好き放題に荒らし回り、家畜を食い殺したり家の中をズタズタにしたりしました。

特に女が使っていたとされる寝具などに異常なほどの執着を示していたといいます。昼間から大胆に民家に侵入するヒグマでしたが、それは徐々に警戒心が薄れてきていることを表していました。

夜にヒグマが現れるも仕留め損ねる

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ヒグマの警戒心が薄れていると考えた討伐隊の菅隊長は、氷橋(すがばし)という場所に撃ち手を配置し、防衛線を張りました。

この日の夜、1人の隊員が対岸にある切り株が1本多いことに気が付き、さらに微かに動いていたため菅隊長に報告しました。隊長の命令で橋の上から銃を発砲すると、その怪しい影は闇に紛れて姿を消しました

12月14日山本兵吉が現地に応援へ

夜が明ける頃、討伐隊が怪しい影に向けて発砲したという現地を調査すると、ヒグマの大きな足跡と血痕を発見しました。それは橋の上から発砲した銃弾が命中していたことを表していました。

銃弾を受けて傷を負っているなら動きが鈍るはずだとして、急いで討伐隊を差し向けました。さらに、10日の深夜に事件のことを聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(57歳)という熊撃ちの名手も共に向かいました。

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