殺人ピエロジョン・ゲイシーとは?33人を殺害した殺人鬼の真相

皆さん、「殺人ピエロ」というのはご存知でしょうか?世界では様々な恐ろしい事件が存在します。今回は「殺人ピエロ」とも言われ、33人を殺害したともいわれるシリアルキラーのジョン・ウェイン・ゲイシー」について生い立ちから死後の影響までを紹介していきます。

殺人ピエロジョン・ウェイン・ゲイシーとは

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは1942年3月17日にアメリカ合衆国生まれのシリアルキラーです。彼は子供たちを楽しませるため、パーティなどでピエロに扮することが多かったため殺人ピエロの異名がありました。

少年時代はボーイスカウトに入っていたことがあり、チャリティー活動などにも熱心に取り組み、表向きは模範的な市民であったが、アルバイト料の支払いなどで呼びよせた少年に性的をしたうえで殺害していました。

その遺体を自宅地下室及び近くの川に遺棄していました。1972年から1978年の間に少年を含む33人を殺害したことが明らかになっています。

少年を含む33名を殺害したシリアルキラー

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彼がなぜ、33人もの人を殺害したかというと、少年に性的暴行を加えたことや自分が同性愛者であることを隠すために殺害したと言われています。

これは彼が幼いころ父親から非難の浴び続け、「オカマ」、「お前はホモになる。」などの言葉を受けて育ってきたため同性愛者であることを他人に知られることを恐れていました。

そのため33人もの少年を殺害し、シリアルキラーになっていったのです。

殺人ピエロの由来は?

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは29歳の時、高校時代からの知り合いであるキャロルという女性と結婚し、自分で興した会社も軌道に乗っていました。

彼は休みの日には「ポゴ」というピエロを演じて、社会福祉施設を訪れるなどして子供たちの人気者になっていた。

彼は「ポゴ」でいるときが心も安らぎを得ることができていました。このようにピエロの恰好を頻繁にしていたことからも、殺人ピエロといわれるようになりました。

大見出し:ジョン・ウェイン・ゲイシーの生い立ち

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ジョン・ウェイン・ゲイシーはどのようにして、シリアルキラーへと変わっていっていったのでしょう。ここでは彼の生い立ち紹介していきます。

生まれ

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1942年3月17日、アメリカのイリノイ州でシカゴのポーランド系の父親とデンマーク系の母親の間に誕生します。彼の父親は「人に弱みを見せてならない」という哲学を持っていました。

そのため生まれたジョンにも男らしくなってほしいと西部劇で人気を博したアメリカの俳優の「ジョン・ウェイン」の名前を付けました。

しかし、ジョン・ウェイン・ゲイシーは生まれながらに心臓の疾患を抱えており、それを知った父親は失望し、見限ってしまいました。

幼少期の時点で父親から虐待を受けて育つ

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ジョン・ウェイン・ゲイシーの父親は脳内に腫瘍があり、情緒が不安定な状態でした。そのため、やり場のない怒りが沸いたりすることがあり矛先を家族に向けました。

父親は礼儀作法には厳しく、脳内の腫瘍による怒りも相まって身体の弱い息子に対して、革砥で体を打たれるという身体的虐待を受けていました。

また「クズ」「間抜け」「オカマ」などの罵声を浴びせるなど心理的虐待も受けていた。

パニック障害・心臓発作を繰り返す

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは精神的、心理的虐待を受けていたため過度のストレスがかかった状態で生活していました。

そのため彼は、パニック障害や心臓発作を頻繁に起こしてしまいます。しかし彼は馬頭されるのが嫌でストレスや体調不良を我慢してしまい、必ず失神してしまいました。

そんな息子をみた父親は失神するたびにさらに激しく罵倒していました。彼は医療機関にかかるも原因がわからず、医師から「再発性の失神症」と診断されました。

普通高校を落第するも努力で賄う

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは14歳から18歳までの間に1年以上の入院診療と4回の転校により普通高校の落第となる。

その後職業訓練校に編入して、優秀な成績を上げたことで、指導員の助手として事務で働くように勧められます。

この頃彼は、父親のお気に入りの民主党立候補議員の応援をしたり、兵役につき父親に、認めてもらおうとしますが、兵役審査で病歴があったことにより免除され、再び父親に罵倒されます。

18歳で女性と性行為を行おうとした際意識を失う

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彼は18歳の時、当時の女友達と性行為を行おうとします。しかしその際に失神してしまいます。

それを知った彼の父親は「お前の中のオカマが登場した。」と言って罵倒しました。最終的には彼は家を追い出されてしまいます。

それでも彼は自分を罵倒してくる父親を愛していて、認めてもらおうと努力し続けます。

1962年家出をし葬儀社のアルバイトで遺体に興奮する

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは20歳になったころ、父親と口論となり「タイヤに空気を入れてくる。」と一言残してラスベガスまで家出をしました。

母親が引き取りに来るまでの3か月間彼は葬儀屋でアルバイトをし、死体の防腐処理っを行うために血抜きを手伝ったりしていました。夜は処置室の横にある簡易別途で寝泊まりをしていました。

彼は仕事に慣れてくると若い死体とくに少年の死体を見ると胸がうずき、異様な感覚に支配されていき死体と同じ棺桶で肌を寄寝ていたとも言われています。

1964年マリリン・マイヤーズと結婚し会頭候補へ

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その後ジョン・ウェイン・ゲイシーはシカゴに帰郷し、ビジネスの専門学校に入り大手靴販売店へ就職します。入社して間もなく抜群の営業成績を上げ、エリアマネージャーに抜擢されます。

また彼は、青年会議所の有力会員でもあり、会議場の貯蓄販売券でも優秀なセールスマンであり、州全体の3番目の成績を挙げ、第一部長に就任します。

彼22歳の時にマリリン・マイヤーズという女性と結婚してアイオワ州に移りました。ビジネスで成功し、人望も厚かった彼は青年会議所の次期会長選出が確実視されていました。

会頭選挙を目前にして性的虐待の容疑で逮捕・離婚

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは結婚する少し前に一緒に酒を飲みに行った男と無意識のうちにオーラルセックスに至りました。

その3年後、青年会議所の会長の15歳の息子に「一緒にポルノ映画を見よう。」と誘って自宅地下室で関係を持った。事が済んでからジョン・ウェイン・ゲイシーは金銭を払いました。

その後も会長の息子と何度か関係を持っていたが、会頭選挙目前に彼は会長の息子に訴えられ、反自然性交の罪で有罪となりました。また妻にも離婚を提訴され受理されたため離婚しました。

10年の服役を16か月で出所という異例

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは少年への性的虐待の罪で10の実刑判決を受け、務所に収監されます。しかし収監されてから7か月で高校卒業資格を取ります。

まさらに大学の通信教育で心理学などの単位を取得します。また刑務所内の青年会議所の相談員として、待遇の改善に関する州法を2つ州議会に通しました。

生活態度もよく模範囚であり、実績と態度を認められわずか16か月で出所となりイリノイ州に戻りました。

1969年目標としていた父親が亡くなる

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは虐待を受けていた父親に認められたいという思いからここまで勤勉な姿勢でいることができました。

しかし出所後、1969年彼が27歳の時に父親が肝硬変によりこの世を去りました。この時彼は今まで目標であった父親に認められるということが叶わなくなり、目標を失いました。

ジョン・ウェイン・ゲイシーの殺人歴

釈放後目標であった父親を失ったジョン・ウェイン・ゲイシーは次第にシリアルキラーとしての道を歩んでいきます。ここでは彼の殺人歴について紹介していきます。

釈放され半年で再逮捕されるも不起訴

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは釈放後半年で再び逮捕されます。罪状は少年に対する暴行容疑でした。しかし原告が裁判に姿を見せなかったため、不起訴になりました。

その後、彼はパーティで知り合った少年をあさるようになっていきます。

拾った青年がナイフを持っていたため混乱し殺害

翌年の1月の夜にジョン・ウェイン・ゲイシーは自分の拾った少年と一夜をともにします。朝目を覚ますと少年がナイフを持っているのを見て、今日からパニックを起こしてしまいます。

格闘の末、少年が持っていたナイフで少年を刺殺してしまいます。しかしその青年はジョン・ウェイン・ゲイシーを殺そうとしていたわけではなく、サンドイッチを調理して彼を起こしただけでした。

これに大きく混乱した彼は、死体を床下に隠しました。ここから彼は殺人が習慣化してしまいます。

キャトルという女性と再婚し子宝にも恵まれ尊敬される存在に

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ジョン・ウェイン・ゲイシーはその後軽食堂のコックをしながら、室内装飾や増改築を専門とする、軽建築業の会社を興すことを決意し、貯金に励みながら事業計画を立てます。

シカゴのノーウッドパークの近くで家を購入し、自分の建築ビジネスを興しました。彼の勤勉さで会社経営は軌道に乗り、さらに高校時代からの知り合いであるキャロルという女性と再婚しました。

彼女の連れ子2人と共に暮らし、地域でも尊敬されるような存在になっていきました。さらに彼は地元の民主休日には道化師「ポゴ」に扮し子供たちの人気者に党メンバーともなりました。

休日には道化師「ポゴ」に扮し子供たちの人気者に

ジョン・ウェイン・ゲイシーは休みの日には「ポゴ」というピエロに扮して、社会福祉施設に訪れるなどして子供たちの人気者になります。

しかしこの時彼の精神疾患は健忘を伴って現れるようになっていました。彼はこの「ポゴ」でいる間は精神状態が安定していたと語っています。

少年たちを誘い強姦の末殺害を繰り返すように

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ジョン・ウェイン・ゲイシーはその後家に少年たちを誘って、強姦した末に殺害していきました。被害者を誘う手口は「ポルノビデオを見ないか」と誘って地下室に連れ込んでいきました。

そして、地下室に連れ込んだ後に手錠で被害者を拘束します。その後凶器などを使用し、脅しながら強姦していきました。

強姦後、多くの殺害方法が被害者のかけていたロザリオにボールペンをひっかけて巻いていき、首を絞め殺害するという方法をとっていました。

妻との離婚後薬と酒が増えて殺人の数も増えていく

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1975年彼が33歳の時にキャロルと離婚します。このときからジョン・ウェイン・ゲイシーの殺人はどんどん増えていきました。

また彼は離婚後、ゲイシーは飲酒量が増えていきさらにマリファナにも手を出していきます。さらにこの頃彼は一方通行を逆走するなど異常行動が多くみられるようになっていました。

ジョン・ウェイン・ゲイシーが逮捕に至るまで

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1978年、ジョン・ウェイン・ゲイシーの会社にアルバイトの面接に行ったまま行方不明になった15歳のロバート・ピーストの行方を追って警官がジョン・ウェイン・ゲイシーの自宅を訪ねました。

彼の家の中には様々な遺留品やゲイポルノなどが発見されました。それ以上に警官を圧倒したものが、彼の家の中に漂う異臭でした。この時ただことではないと思った警察官は彼を24時間体制の監視操作を行いました。

しかし彼は自身の権力を使い、警察に対して民事訴訟を起こしたりすることで捜査をかわしていきました。しかし彼はマリファナ取引により、麻薬不法所持の容疑で現行犯逮捕されました。

自供を受けてゲイシ―宅に強制捜査

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自供を受けてゲイシー宅の強制捜査が行われました。床下に埋められていた死体により発生したメタンガスにより現場の警官たちは激しいめまいと吐き気を覚えました。

また腐敗臭が凄まじく、一度臭気に触れた衣服に臭気が染みついてしまい洗浄不可能となり、さらに衛生的にも危険であるとされたため、着用不可能となり焼却処分されました。

地下室からは、命に関わる危険な物質が大量に発見されたため、軍が使い捨てのジャンプスーツを支給し、さらに現場捜査員には髭剃りを禁止し、身体の傷がある捜査員は現場に入れないようにしていました。

警察が発見した腐敗した遺体

ジョン・ウェイン・ゲイシー宅には29体の遺体が石灰で覆われた家の床下から発見されました。死体は床下に整頓されたように埋められていました。他4体の死体は近くの川に捨てられていたことが明らかになりました。

ロバート・ピーストの遺体も床下から発見されました。発見された死体が男娼であり、数人は彼の会社でアルバイトをしていた少年でした。発見された死体は9歳から20歳でした。

発見された死体は空気に触れることで再び腐敗が進行し始めました。そのため出てきた死体は保管する、警察の死体保管所はガス室と化しました。

ジョン・ウェイン・ゲイシーの処刑

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは33人の殺人容疑で再び逮捕されました。しかし彼は自身の容疑を否認しました。彼は逮捕後も死刑を延期するために行動を起こしていきました。

多重人格障害を主張したジョン・ウェイン・ゲイシー

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ジョン・ウェイン・ゲイシーは精神鑑定のために、シカゴのセルマック病院に移送されました。そして彼は「私には4人のジャックがいます。家で起こったことは4人目のジャックのせいです。」と証言をし始めました。

彼の中には4人のジャックがいて、彼の肉体をコントロールしているため、その間の記憶がないという内容の証言をしました。

そしてジョン・ウェイン・ゲイシーは多重人格であることを診断されるために全力を尽くしました。彼は公判が始まると自信が多重人格であるという主張を続けて無罪を訴え続けました。しかし彼は有罪判決を受けました。

21回の終身刑と12回の死刑宣告

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1980年にジョン・ウェイン・ゲイシーは12回の死刑判決と21回の終身刑の判決を受けます。しかし彼は数百万ドルもの資産を利用して、20回以上の上訴と模範的な態度で死刑を逃れていきました。

また自分のことを妬む人間や警察官による冤罪を主張し続けました。また死刑制度も違憲であるという訴えにより上告を行っていました。

これに対してアメリカ国内では非難が集中しました。そして、いち早く死刑執行を願う人たちがデモ活動を行われたことまありました。

ジェイソン・モスを襲い再審請求は取り下げに

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そんな中ジョン・ウェイン・ゲイシーに対して興味を持ち、手紙を送った18歳の少年がいました。彼の名前はジェイソン・モスといい、ジョン・ウェイン・ゲイシーと文通を始めました。

ジョン・ウェイン・ゲイシーはその後少年の電話番号を突き止めました。そこで電話でのやりとりを行うようになりました。少年に「人殺しをした本当の理由を教えてあげる。」といい少年と面会をすることになりました。

ジョン・ウェイン・ゲイシーは面会時、仕切りなしの面会室において看守なしの面会を行った際、殺人衝動にかられてしまい少年の殺害を実行するも通りかかった看守により阻止され、彼の再審は取り下げられました。

1994年5月10日刑が執行された

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1994年5月10日深夜、薬物注射による死刑が刑務所にて行われました。彼は最後の食事としてケンタッキーフライドチキン、ポテト、エビフライ、イチゴ、ダイエットコークなどファーストフードを頼みました。

死刑は薬物注射によるケースの場合、平均7分前後で絶命します。しかしジョン・ウェイン・ゲイシーはなんらかの手違いで20分ほど絶命までにかかりました。

この件についてコメントを求められた担当検事のウィリアム・カンクルは「被害者が受けた苦痛に比べたら,ゲイシーの苦痛など大したことない」と述べました。

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