牛島辰熊は不敗の牛島のモデルだった?伝説や逸話まとめ【鬼の牛島】 エンタメ

牛島辰熊は不敗の牛島のモデルだった?伝説や逸話まとめ【鬼の牛島】

伝説とも呼ばれた柔道界の最強の男が、牛島辰熊さんです。牛島辰熊さんは漫画のモデルになったことでも有名となりました。そんな牛島辰熊さんの数々の伝説や逸話が存在しているのです。弟子である木村政彦さんとのエピソードも合わせてご紹介していきます。

目次

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牛島辰熊は伝説の最強柔道家、ゴールデンカムイの不敗の牛山のモデル?

牛島辰熊さんは柔道家で伝説の男として名を残しました。そんな牛島辰熊さんをモデルにした漫画があったのです。

それが、ゴールデンカムイという漫画に出てくる牛山辰熊さんです。この牛山辰馬さんは名前から風貌まで、牛島辰熊さんをモデルにしていると言われています。

今回は伝説の柔道家である牛島辰熊さんについて調べてみました。そして、モデルとなた牛山辰馬さんについてもみていきましょう。

牛島辰熊とはどんな人?熊本出身?身長、体重は?ハーフ?

牛島辰熊(うしじま たつくま)さんは1904年3月10日生まれで柔道家です。出身は熊本県熊本市で、身長は170㎝の体重は85kgだったそうです。見た目からもハーフなのでは?とも言われていました。

その日本人離れしたホリの深い顔立ちからもロシア人とのハーフと言われてもおかしくはありません。しかし、牛島辰熊さんにハーフといった情報はありませんでした。

牛島辰熊の生い立ちは?両親は製油業者だった?

牛島辰熊さんの両親は製油業者を営んでいました。その製油業者をしている両親の元、牛島辰熊さんは生まれ育ったのです。

牛島辰熊が不敗の牛山のモデル?理由①:不敗の牛島とも呼ばれていた

「不敗の牛山」という言葉をご存じでしょうか?これは漫画「ゴールデンカムイ」に出てくる牛山辰馬さんという登場人物の異名です。この牛山辰馬さんは圧倒的な強さを持つ柔道家です。

この強さから牛山辰馬さんは「不敗の牛山」と呼ばれることとなったのです。そして、この牛山辰馬のモデルが、牛島辰熊さんではないか?といわれているのです。

そこから、牛島辰熊さんも「不敗の牛島」とも呼ばれるようになったそうです。

牛島辰熊が不敗の牛山のモデル?理由②:名前が似ている

牛山辰馬さんのモデルが牛島辰熊さんではないかと言われた理由の一つとして、名前が似ているということがあげられます。牛島辰熊さんと牛山辰馬さん。

見てわかる通り、名字は「牛」がつき名前に「辰」がつくところが同じです。このことからも、牛山辰馬さんのモデルは牛島辰熊さんだと言われています。

牛島辰熊が不敗の牛山のモデル?理由③:異人(ハーフ)のようなイケメン

さらに牛島辰熊さんは見た目がハーフっぽいと言われています。漫画に出てくる牛山辰馬さんも風貌がハーフっぽい顔をしているのです。彫りが深く日本人離れしているところはそっくりです。

風貌までも牛島辰熊さんをモデルにしていたことがわかります。

牛島辰熊が不敗の牛山のモデル?理由④:トレーニング方法(大木への打ち込み)

漫画・ゴールデンカムイに出てくる牛山辰馬さんのトレーニング法として、大木への打ち込みをしているシーンが出てきます。

実はこのトレーニング法は牛島辰熊さんの修行方法の一つとして、弟子の木村政彦さんにも受け継がれているのです。これは牛島辰熊さんのことが書かれた参考文献にも記載されています。

このことからも牛山辰馬さんのモデルが牛島辰熊さんと言われました。

牛島辰熊はどのくらい強かったのか?他の有名人物とも比較

牛島辰熊さんは1985年5月26日に81歳で亡くなっています。今となっては強さを証明することはできません。しかし、牛島辰熊さんの強かった記録はたくさん残っています。

そんな牛島辰熊さんの強さがどのくらいのものだったのか、調べてみました。牛島辰熊さんの数々の伝説と逸話が残っていました。

実質的な日本一決定戦だった明治神宮大会を三連覇、日本柔道選士権大会で連覇

現在では全日本選手権という日本一を決める柔道の大会がありますが、昔はなかったため明治神宮大会というのが日本一を決める大会だったそうです。

その明治神宮大会で、牛島辰熊さんは1925年から三連覇を達成したのです。さらには、日本柔道選士権ができた時には第二回大会と第三回大会で見事、優勝しているのです。

全日本選手権と置き換えれば五度の勝利をおさめたこととなるのです。これは牛島辰熊さんの強さを証明することとなりました。

現在でも金メダルがとれる実力だった?

牛島辰熊さんの柔道での強さは本当だったのでしょうか?現在でも牛島辰熊さんが生きていたら、現代のルールで勝利することはできるのでしょうか?

これにヤフー知恵袋で答えていた人がいました。

牛島辰熊先生や木村政彦先生は、小手先で相手を崩すインチキの柔道ではなく、投げたい時にいつでも相手を投げる事が出来る王者の柔道を目指していたのです。そのため、現代でも金メダルは確実に取れるでしょう。

(引用元:YAHOOH!知恵袋)

引退の7年後、北京で中国相撲の王者を破った

牛島辰熊さんの伝説ともなっている逸話として有名なのがあります。

1934年に第二回天覧試合に出場し予選リーグで敗れたのち、引退を決断しました。その7年後に中国相撲のチャンピオンを異種格闘技で対戦し、牛島辰熊さんは勝利をおさめていたのです。

牛島辰熊の伝説のエピソードや逸話まとめ

牛島辰熊さんといえば数々の伝説や逸話が残っています。圧倒的な強さを持っていた牛島辰熊さんの本当の強さが垣間見えます。

牛島辰熊さんのエピソードをご紹介していきましょう。

伝説・逸話①:牛島辰熊の三船久蔵との逸話

柔道界の伝説の人と言えば、牛島辰熊さん意外にもいます。その一人が三船久蔵さんです。三船久蔵さんは小柄な体格だったのですが、「空気投げ」という独自の技をあみだし、柔道の神様と称されていました。

牛島辰熊さんが全盛期の25歳頃に20歳も年上の三船久蔵さんと乱取りをしたときに、初めは三船久蔵さんに勝たせてあげようとわざと投げられました。しかし、その後は乱取りをしてくれなくなってしまったそうです。

牛島辰熊さんが何とか頼み込んで乱取りをしてもらった時に、牛島辰熊さんが組んですぐに三船久蔵さんを投げ飛ばしたという逸話が残っています。

伝説・逸話②:筋肉の鍛え方がすごい

牛島辰熊さんのトレーニング方法についても逸話が残っています。牛島辰熊さんは筋肉を極限まで鍛えあげるのに、朝から60キロを超えるローラーを背負い込みながら、走っていたそうです。

さらに、大きな石を抱え込んで筋トレをしていたそうです。そして、仕上げに大木にタックルをしたり背負い投げの打ち込みをしたりと、鍛え上げるためのトレーニングを毎日欠かさず行っていたそうです。

伝説・逸話③:食事は粥しか喉を通らなかった

牛島辰熊さんはトレーニングだけではなく、乱取りも毎日欠かさず行っていました。最低でも40本を超える乱取りを行っていたそうです。

そのため、稽古の後は疲労が蓄積していたため、階段も登れないくらいだったそうです。さらに、食事はおかゆしか食べれなかったといいます。それだけの稽古をしていたという逸話になっています。

伝説・逸話④:試合前夜はスッポンの血を飲み当日はマムシの粉を口に含んでいた

牛島辰熊さんの逸話として語り継がれているのが、試合前の夜には必ずすっぽんの血を飲むことです。精力をつけるためにおこなっていたそうです。

さらには試合当日はまむしの粉も飲んで試合に挑んでいたそうです。牛島辰熊さんの攻撃スタイルの源がすっぽんとまむしからきていたようです。

そして、この牛島辰熊さんの攻撃スタイルは弟子である木村政彦さんにも受け継がれている伝説となっています。

伝説・逸話⑤:1934年の大会で病気の体を精神力でカバーしようとした

牛島辰熊さんが引退する前の最後の試合となった1934年の天覧試合で、牛島辰熊さんは肝吸虫という病気を患っていました。その病気の為体重も減ってしまいヨロヨロだったそうです。

試合に出て勝利するために、病気の体を精神力で補おうとしたのです。牛島辰熊さんはとある洞窟に出向きそこで1か月間もの間、座禅をし精神力を高めたのです。

しかし、試合に出場しますが、敗北をしてしまいます。この精神力で補おうとした牛島辰熊さんの決意は伝説・逸話として語られています。

牛島辰熊の弟子・後輩とのエピソードまとめ

牛島辰熊さんの愛弟子といえば、木村政彦さんです。木村政彦さんは牛島辰熊さんに魅入られてからめきめきと強さをつけていき、牛島辰熊さんをも超える強さを身につけました。

牛島辰熊さんの木村政彦さんを想うエピソードや、後輩である大山倍達さんのエピソードをご紹介していきましょう。

弟子・木村政彦を晩年まで気にかけていた

牛島辰熊さんは引退する決意をすることとなった天覧試合で勝利をおさめることはできませんでした。その天覧試合での勝利をおさめる夢を叶えるために弟子を探したのです。

その見つけた弟子というのが、当時18歳の木村政彦さんです。木村政彦さんの実力に目をつけ、牛島辰熊さんの自宅で面倒を見ながら一日10時間という稽古をつけたのです。

牛島辰熊さんがとても可愛がっていた木村政彦さんのことを、最後の最後まで気にかけていたそうです。

木村政彦と力道山との戦いで木村が敗れると真っ先にリングに駆け上がった

木村政彦さんは柔道界で数々の勝利をおさめ、海外でも試合をしてきました。その後、木村政彦さんはプロレスラーとして転身したのです。

そのプロレスラーとなってから、力道山さんと試合をしました。そこで、木村政彦さんはKOとされてしまったのです。

木村政彦さんが負けるとすぐに牛島辰熊さんはリングに駆け上がったのです。そして、木村政彦さんに寄り添いながら牛島辰熊さんが出ていく姿が記録されているそうです。

空手家の大山倍達から慕われていた

大山倍達さんは空手家で有名であった方です。元々、大山倍達さんは木村政彦さんに憧れて木村政彦さんと同じ大学に入ったと言われています。

そんな大山倍達さんは牛島辰熊さんの思想論に惹かれていたといい、牛島辰熊さんのことを慕うとうになったそうです。

大山倍達の木村政彦が力道山に負けた際の反応

木村政彦さんと力道山さんの世紀の試合が行われた時に、大山倍達さんはリングの近くで試合を観戦していたそうです。木村政彦さんが試合に負けると牛島辰熊さんがすぐにリングに駆け上がりました。

大山倍達さんも同じくリングに駆け上がったそうです。そして、慕っていた牛島辰熊さんに対して「ふざけるな牛島!」と呼び捨てで呼んだのです。さらには木村政彦さんにも「立て!木村!」と罵声したそうです。

木村政彦さんが負けてしまい、悔しかったのでしょう。大山倍達さんはそれほどまでに木村政彦さんに対して想っていたのだと語られています。

牛島辰熊の名言は?

牛島辰熊さんの数々の伝説や逸話が残っていますが、牛島辰熊さんの名言とはどのような言葉が残っているのでしょうか?

弟子の木村政彦に対し放った名言とは

弟子である木村政彦さんが、練習試合で8人抜きをしたことを牛島辰熊さんに報告すると、「試合は武士の真剣勝負と同じなのだ。貴様は戦場で8人倒したが9人目で殺されたのだ」と怒鳴りつけたのです。

これは牛島辰熊さんの信念である「負けは死」というように、負けたことは柔道界でからの引退といえるくらいなのです。

それを弟子である木村政彦さんに向けて投げかけたのです。

牛島辰熊の家族や子供、子孫についての情報は?死因は?

牛島辰熊さんは結婚をしていたのでしょうか?現在でも牛島辰熊さんの血を受け継ぐ子孫はいるのでしょうか?

牛島辰熊さんの子孫や、死因についても調べてみました。

牛島辰熊には妻と娘がいた?

牛島辰熊さんには妻や娘がいたそうですが、本当なのでしょうか?

木村が敗れると真っ先にリングに駆け上がり、また、会場を去る木村に寄り添う牛島の映像が残されている。妻や娘に「なぜあの時リングに上がったのですか」と聞かれ、「木村の骨を拾えるのは俺しかいない」と目を潤ませながら語った。

(引用元:wikipedia)

この時の様子から、妻と娘がいたことがわかりました。牛島辰熊さんの妻や娘についての詳しい情報はでてきませんでした。

牛島辰熊の家族、子孫についての詳細は不明

さらに、牛島辰熊さんの家族や子孫について調べてみましたが、詳細はわからないままでした。牛島辰熊さんには娘がいたということでしたが、詳しいことはでていませんでした。

もし、牛島辰熊さんの子孫が残っているのなら、牛島辰熊さんの強さを受け継いでいるのかもしれません。

死因も不明?

牛島辰熊さんは1985年に81歳で亡くなっています。牛島辰熊さんが亡くなった理由といえる死因に関しても詳しい情報はでていませんでした。

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