上尾事件の概要!原因・死者は?【乗客VS国鉄の大暴動事件】 雑学・ライフスタイル

上尾事件の概要!原因・死者は?【乗客VS国鉄の大暴動事件】

1973年(昭和48年)に起きた上尾事件をご存知ですか?国鉄に対して怒りを爆発した乗客による、死者が出てもおかしくないほどの大規模な暴動事件のことです。そんな未曽有の事件について、概要や被害状況などを、当時の新聞記事や駅構内の写真を交えてご紹介します。

目次

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上尾事件とは(写真有り)

上尾事件とは、1973年3月13日に埼玉県の高崎線上尾駅で発生した大規模な暴動事件であり、日本国有鉄道(以下「国鉄」)が民営化されてJRとなる10年以上前の事件です。

高度経済成長の真っ只中で人口が急増していましたが、国鉄は赤字経営だったため増え続ける乗客に全く対応しきれていませんでした。さらに駅職員による「遵法闘争」が拍車をかけ、乗客の怒りは爆発しました。

死者が出てもおかしくなかったとまで言われるほど大規模な暴動だった上尾事件について、概要や原因などを当時の写真も交えてご紹介していきます。

高崎線上尾駅で電車の乗客が起こした暴動事件

事件の概要を見てみると、3月13日の上尾駅において前日までの「遵法闘争」により複数の列車が運休や遅延を起こしていたため、電車が数時間来なかったことが大きな引き金となっています。

ようやく来たのは7時10分、通常運行であれば7本目になるはずの列車が一番列車として到着しました。ホームは6000人もの人で埋まり、着いた列車にもすでに定員の3倍以上が乗車してる状態でした。

この状況にさらに「2駅先の大宮駅を終点として運行を取りやめる」というアナウンスが拍車をかけ、溜まっていた怒りが爆発した乗客は暴れ狂い、上記の写真のように放火もされました。

上尾事件の原因は国鉄と労働組合の遵法闘争

上記でもご説明した「遵法闘争」ですが、これはストライキを禁止されていた国鉄労働組合(以下「国労」)が行った、国鉄側に迷惑をかけるための労働闘争の手段です。

安全規範を厳格に守り通そうという理由で、わざと速度不足で運行したり、踏切手前で停止してから発車するなどの行為を行っていたため、ダイヤが乱れることが日常化していました。

「遵法」とは言われているものの、日本国政府は1956年にこのような形式をとる労働闘争を違法と認定していた。しかし、判例形成には至っておらず、行わないようにという指導の範囲に過ぎなかった。(引用:Wikipedia)

1ヶ月後には首都圏国電暴動事件へ

この上尾事件が起こったあとも事態は解決には至らずに、乗客への謝罪をしなかっただけでなく、遵法闘争を懲りなく続けたことから同年4月24日には首都圏国電暴動という暴動も起きました。

複数の首都圏内の駅で同時に起こった大規模な暴動であり、死者こそ出なかったものの、上尾事件以上の大きな爪痕を残すという最悪な結末を迎えています。

これは4月24日に起こったことから、「4・24事件」とも呼ばれています。

上尾事件の背景

事件の概要は上記の通りですが、当時、高度経済成長のさなかであり高崎線沿線には人口が急増していて、さらに高崎線というのは首都圏と日本海側を結ぶ重要な路線だったことも関係しています。

そして人口増加に伴い通勤や通学で電車を利用する乗客も急増してましたが、国鉄は大きな赤字経営であったために、この利用客急増に対して対応がしきれていないという状態が背景にあります。

そんな中で、ストライキが禁止されていた組合員による「遵法闘争」が始まり、乗客の怒りは沸々と湧き始めていました。なんと通常37分だった上尾、上野間を3時間ほど時間をかけて運行していたといいます。

全国の鉄道の整備状況

事件のあった高崎線の歴史は古く、第一期線として新橋と横浜間を開通したのは1883年のことです。その後1932年には大宮以南が電化され、1952年には全線が電化されるに至りました。

全線が電化されてから約10年後の1964年には、東京と新大阪間を走る東海道新幹線が開通して、1972年には新大阪と岡山間を走る山陽新幹線、そして1975年には全通となり新大阪から博多までを結びました。

この時代にはすでに現代の新幹線路線に近い形となっていましたが、それでも急激な人口の増加には追い付きませんでした。長距離を走る列車の需要も急激に増加し、線路の容量は限界に近かったといいます。

人口が激増し追いつかないインフラ整備

上記でもご説明したように、当時は急激な人口の増加から長距離列車の需要も増えていて、公共設備の充実を指す「インフラ整備」も全く追いつかない状態でした。

朝と夕方は通勤や通学ラッシュとなり、電車は定員を2倍も上回るほどの混雑が日常化していました。電車に乗ることすらままならず、ホームには残された乗客で溢れていたといいます。

これには国鉄の赤字経営も関係しています。赤字であることを理由に新型車を投入することを控えていたり、混雑時の車両増便をしてなかったなど、乗客が増加し続ける事態に対応しきれていませんでした。

ダイヤ混乱時は優等列車を優先し普通列車は大幅な遅れや運休

対応しきれていないなかで通勤型電車や近郊型電車を増便すれば良かったものの、赤字などの理由から急行型電車という2つの扉しかない電車を普通列車としてラッシュの時間帯に投入していました。

そして特に冬の時期は、日本海側の大雪が原因で特急列車と急行列車が大幅に遅延するため、このような優等列車を最優先して運行させるという判断をしていました。

そのせいで普通列車は余計に大幅な遅延をしていて、最悪の場合運休にまでなってしまう結果となり、こういったことから利用客の怒りは少しずつ溜まっていったとされています。

国鉄労働組合について

第二次世界大戦時の無条件降伏によりGHQの占領下となった日本ですが、GHQは国鉄に大きな労働組合を誕生させました。それが1946年2月に石川県で誕生したのが国鉄労働組合です。

ですが1970年代になると国鉄は巨額の赤字を抱えることとなり、それに加えて人件費の急激な増額や、組合との合理化が進まないこともあり、破綻寸前とまで言われていました。

さらに国鉄の2大組合である国労(国鉄労働組合)と動労(国鉄動力車労働組合)は、経営陣でも手を出せないほどの巨大な権力を持っていたため、労働闘争が普段から頻発していました。

国労と勤労は「運転手2人制の復活」を求め国鉄当局は拒否

1973年になると運転手の一人勤務が規則となっていたことに対し、国労と動労は自身の職を失うことを恐れて、国鉄の経営陣に待遇改善として運転手の2人制を復活させることを要求しました。

ですが国鉄側がこれを拒否すると、国労と動労側はこの結果に反発しサボタージュやストライキを起こし、力づくにでも要求を飲ませようとしました。

運転士2人勤務とは蒸気機関車時代の名残で、蒸気機関車では運転を担当する機関士と石炭をボイラーに投入する機関助士が運行上必要であった。(引用:Wikipedia)

ストライキができない労働組合は「遵法闘争」へ

国労は公共企業体職員といって、公労法第17条でによってストライキ行為が禁じられていました。そこで国労などの組合側は、安全規範などを厳格に遵守することに着目しました。

つまり過剰なまでに安全に配慮することで、一旦停止や速度不足を繰り返し発車時間と到着時間を遅らせるという行動に出ました。これを「遵法闘争」と言い、厳格なルールがあることを逆手に取った作戦でした。

この遵法闘争は全国的なものとなり各所で大幅なダイヤの乱れが発生し、利用客は不満を感じることとなりました。国労側は影響力を重要視し、遵法闘争するときは通勤列車を狙うように指導していたといいます。

国鉄専用列車の存在

さらに当時の高崎線には「国鉄職員専用列車」という列車があり、朝のラッシュ時に国鉄の職員が通勤代わりに列車を使い、踏切手前で乗り降りするなどという機材私物化をしていました。

これらのことが日常的に起こっていたことから、いずれは大規模な暴動が発生してしまうのではないかと予想していた人も少なくなかったようです。

国鉄乗務員の仕事ぶりへの問題点

窓から乗客にも見えるような運転室や、乗客が通常利用するような駅構内などでの服務の乱れや職務怠慢、さらに乗客に対してかなり横柄な態度も取っていたようで、乗客は不満を感じていました。

国鉄による職務怠慢が起こる直前には、マル生運動という生産性を向上させようという働きがありました。これは労働者側からすれば労働強化となり、国鉄と国労・動労が対立する反マル生闘争も起こっていました。

マル生運動とは、当時の国鉄や郵政省において行われた、生産性を向上させる運動のことをいう。この運動に関係する書類には「生」の字を丸で囲んだスタンプを押したので「マル生」と呼ばれるようになった。 (引用:Wikipedia)

上尾事件の経緯

上記の写真は当時の新聞記事ですが、もともと遵法闘争が問題視されていた中での事件だったので、世間では大きな話題となりました。

では、そんな死者が出てもおかしくなかったという上尾事件の概要についてもう少し詳しい経緯をみていきましょう。ちなみにこの年にはあの人気歌手・山口百恵がデビューしています。

1973年3月13日、1番線ホームに一番列車

上尾事件当日の3月13日、早朝から通学や通勤で電車を利用する人たちでホームは上記の写真のように溢れていましたが、何時間も列車が来ない状況が続いていました。

7時10分に一番ホームにようやく入線した列車は本来なら7本目になる列車でしたが、前日までの遵法闘争で複数の列車が運休となったため一番列車となってしまいました。

ホームはすでに電車を待ちわびる6,000人もの乗客で溢れかえりましたが、ようやく来た列車も840人の定員に対し3,000人が乗っていて車内で死者が出てもおかしくないくらいの超満員でした。

駅員と乗客の小競り合い

上記でご説明した一番列車として入ってきた列車は、うち2両がグリーン車で、さらに1両は食堂車とされており、普通車両が少ないこともあってほとんどの乗客は乗ることが出来ませんでした。

さらに後続で入線した普通列車も、944人の定員に対し4,000人が乗っているという超満員で、何としても乗ろうとする乗客とそれを整理して発車させようとする職員の間で小競り合いが起きていたといいます。

混雑のため、「大宮駅(埼玉県)終点」のアナウンス

何時間も待ってようやく到着した列車でしたが、あまりの混雑のため、国鉄側は2駅先の大宮駅で終点として運行を取りやめるといった内容のアナウンスをしました。

これに対し乗客は、何時間も待たされたことや、これまでの遵法闘争による度重なる運休、さらに職務怠慢などで溜まっていた怒りが爆発し大規模な暴動へと発展してしまいました。

乗客が怒り狂い暴動に発展

怒り狂った乗客は運転室の窓ガラスを投石によって割り、逃げた運転士を負った乗客が駅長室になだれ込みました。近くにあった鉄道電話を壊し、その場にいた駅長などが負傷しています。

さらに怒りが収まらない乗客たちは駅舎のものや設備を破壊したり、乗務員を閉じ込めたり、さらには乗客により拉致された宮原駅の駅長などが大宮駅まで歩かされたともいいます。

駅職員に対して怒号が飛び交う混乱の中、公安警察や機動隊が出動するほどの大きな騒ぎとなりました。上記の写真では、割られた窓ガラスが粉々に飛び散っているのが分かります。

列車二本は発車不能に、「とき2号」も被害に

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上尾駅に停まっていた2本の列車は、上尾事件により分岐器や運転するための設備、さらに信号までもが壊されていて、発車することが不可能となって立ち往生していました。

このとき、7時30分に発車する予定だった上野発の新潟行き「とき2号」も上尾駅に着いていましたが、上尾事件の影響により駅の300メートル手前で停車していました。

混乱の中、「とき2号」はホームに入線することが出来ずにいましたが、この「とき2号」にも投石されて、先頭部に掲げられたヘッドマークや窓ガラスが割られるなどの被害を受けました。

700人の機動隊が出動

暴動が起きてから数十分後の7時31分、通報を受けた熊谷鉄道公安員と埼玉県警が合わせて70人出動しました。この1時間後には怪我をした上尾駅の駅長たちが病院に運ばれ、そのまま入院するほどでした。

このとき危険を感じた駅職員はすでに全員退去してました。到着した機動隊たちはあまりにも人数の多い乗客に対し70人では全く無力であり、最終的に公安員と機動隊は700人まで増員されました。

周辺の駅にも暴動が拡大

上尾駅で立ち往生していた「とき2号」の乗客たちは、列車がもう動かないと諦めて大宮駅へと徒歩で歩き始めました。乗客たちは8キロ先まで線路上を歩きました。上記はその時の写真です。

乗客たちは宮原駅で駅長たちを捕まえて大宮駅まで無理矢理歩かせるなどの暴挙に出ています。

10時22分には上尾駅で構内のポイントに石を詰める人がいたり、10時30分の大宮駅では「まつしま1号」という東北線上野発仙台行き、下り急行も投石をされるなど、暴動は周辺の駅にまで広がっていきました。

大宮駅から川越線にも飛び火

大宮駅での混乱は川越駅にまで飛び火し、10時10分には群馬県警も応援要請が出されました。

川越線の列車にも乗客による投石がされていたため、危険を感じた運転手が国鉄大宮工場に一時避難しました。このことで川越線も運行がストップするまでに至りました。

10時40分頃、東北本線、高崎線、川越線の全てにおいて運行を全面休止しました。東北本線が運転を再開したのは11時20分で、川越線が運転を再開したのは11時30分でした。

暴動による影響

この暴動により、移動困難となった人が多くいたため、代行輸送のバスが7台と、上尾駅から大宮駅まで乗客を乗せるための民間バスが33台も手配されました。

上尾事件という名前ではありますが、結果的には周辺の桶川駅、鴻巣駅、北本駅、熊谷駅でも窓ガラスが乗客により割られるなどの被害を受けています。

さらに12時35分には、「13時5分に東京駅を爆破する」といういたずら電話まで発生しました。暴動に便乗して駅長室からお金を盗んだ者と、新聞記者に対して暴行した者など、計7人の逮捕者が出ました。

暴動が起きなかった各線でも

暴動の直接被害にあってない各線でも間接的な被害があり、貨物列車は通常の6割ほどの運転本数となり、中央快速線は40本の運休、南武線で32本の運休などが生じていました。

さらに大阪環状線でも66本の運休があり、上尾事件により影響を受けた人員は約71万人にも上るという記録が、当日の交通新聞により発表されています。

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