財津一郎の現在は?死亡説の真相!タケモトピアノCMはいつから? エンタメ

財津一郎の現在は?死亡説の真相!タケモトピアノCMはいつから?

財津一郎さんといえば有名なタケモトピアノのCMです。現在でも未だ放送されています。このCMはいつから放送されていたのでしょうか?そして、財津一郎さんは現在ではあまりテレビでは見なくなりました。現在、死亡説もでています。何をされているのでしょうか?

目次

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財津一郎の現在

財津一郎さんといえばタケモトピアノのCMでおなじみといえば誰もが思い浮かぶことでしょう。そんな財津一郎さんは現在どうしているのでしょうか?死亡説や生きている説やざまざまな憶測が飛んでいます。

財津一郎さんは年齢的にも死亡していてもおかしくない年齢にはなっています。現在ではあまり見かけなくなっていることからも、死亡説がでているそうなのです。財津一郎さんの現在について調べてみました。

死亡説が流れている

財津一郎さんは現在の年齢は84歳と高齢となっています。財津一郎さんと同じ芸能人の方たちでは、大橋巨泉さんや愛川欽也さん、坂上次郎さん、牧伸二さん、などの多くの有名人がいます。

残念ながら同じ世代の方たちは年齢も年齢ということで、すでに死亡されている方も多くいるのです。そんな中で、財津一郎さんも死亡しているのではないか?と憶測が飛んでいるのです。

生きている説

現在のところ、財津一郎さんが死亡したという情報はでていないようです。では、財津一郎さんは生きているのでしょうか?

もし、財津一郎さんが死亡したということなら、必ずテレビなどで報道されることでしょう。現在まで財津一郎さんの死亡したという報道もないことから、財津一郎さんは生きているということになります。

では財津一郎さんの現在の画像はでているのでしょうか?残念ながら2010年の映画の舞台挨拶を最後に出てきていないので、現在の画像はありませんでした。

2011年に脳出血し現在は療養中?

財津一郎さんは生きているということがわかりましたが、現在はあまり活動されていないようです。どうされているのでしょうか?実は財津一郎さんは脳内出血になっていたようなんです。

しかし、財津一郎さんは3ヵ月という時間で病気から回復服しており、その後ドラマに復帰していたのです。その影では、大変なリハビリ生活を送り、病気を乗り越えていたのでしょう。

病気を克服した後も数々の仕事をこなしています。しかし、76歳の時に映画「ふたたびswing me again」以降は活動していません。現在は療養中である可能性が高いです。

財津一郎の現在の年齢は?

財津一郎さんの現在の年齢は84歳となります。1934年2月22日生まれです。年齢的にも高齢となってきていることから、現在は病気を療養しているのではないかと言われています。

現在は息子一家と三世代で暮らしている

財津一郎さんには1961年に誕生した息子さんがいます。その息子さんは現在は日本テレビで総合演出家として働いています。その一人息子は財津功さんというそうです。息子さんの画像はでていませんでした。

現在では財津一郎さんは息子さんの家族と三世代で一緒に暮らしているそうなんです。息子さんは財津一郎さんのお世話をしているそうで、優しい息子さんのようです。

財津一郎の現在の活動は?

財津一郎さんの現在の活動はどのようなものがあるのでしょうか?最近ではテレビで見る機会もほとんどありません。財津一郎さんは引退してしまったのでしょうか?

タケモトピアノのCMのみ

財津一郎さんの現在の活動はタケモトピアノのCMが放送されているのみとなっています。このCMも昔に撮影された映像を使っているので、現在の財津一郎さんの画像ではないです。

引退発表はされていない

財津一郎さんは現在も生きていることがわかっています。しかし、昔のCMが放送されているだけで、芸能活動はされていません。しかし、芸能事務所に俳優としての登録はあるようなんです。

そして、引退発表もいまだされていません。財津一郎さんは芸能活動は休止中ということにはなっていますが、引退してはいないのです。生涯役者として貫くということでしょう。

財津一郎とは

財津一郎さんとはどのような人生を送ってきたのでしょうか?画像とともに財津一郎さんのこれまでの歩みを振り返ってみていきましょう。

プロフィールと画像

財津一郎さんは本名を財津永栄(ざいつ ながひで)さんと言います。熊本県熊本市の出身で、俳優・コメディアン・歌手として活躍してきました。劇団で知り合った女性と結婚し息子を一人授かっています。

テレビドラマの「3年B組金八先生」に出演し、英語の教師役で左右田先生の役では財津一郎さんの持ち味がいかされたボケ役として人気となりました。

さらには1996年の「秀吉」では豊臣秀吉の義父といわれる竹阿弥役を演じました。

経歴

1953年に上京後に早稲田大学文学部演劇学科に受験するも失敗します。その後、早稲田大学の近くでアルバイトをしつつ、榎本健一映画演劇研究所にはいり演技の勉強をします。

その後、石井均一座に入門し、後の妻となる女性ともここで知り合います。そして、新宿の劇団「ムーラン」の舞台に立つこととなります。1962年には吉本興業に入り、1964年には吉本新喜劇に参加します。

この時に、芸名を財津一郎とすることとなりました。1965年に吉本新喜劇座長に就任します。1969年に吉本興業を退社して志母澤事務所に移籍することとなります。

財津家の故郷熊本での生活

財津一郎さんの先祖は神武天皇の時代から代々受け継がれている続いている名家でした。以前は東京に住んでいましたが、1944年に財津一郎さんの父親が中国へ出征したため、財津家の故郷の熊本県へ疎開しました。

1947年には阿蘇にある財津家の土地を守るために阿蘇郡黒川村に移住します。1949年には再び熊本市に戻ってきます。父親が出征から戻るまでは貧しい生活を余儀なくされたそうです。

高校時代

高校を卒業するまでは熊本市で生活をしていました。その高校時代は財津一郎さんは水球をやることが好きだったようで、そのの実力はインターハイにも出れるほどの実力を持っていたそうです。

そして、高校時代には合唱と出会ったことや、映画の影響などもあり、演劇の世界へと変更していったのです。さらには、財津一郎さんは高校時代にいじめられていたことも明かしました。

その時に担任の先生から「踏まれた人間ほど強くなる。今は耐えよ。出るときを待て」と励まされたそうです。その高校時代の経験が後の俳優人生に大きな影響を与えたのです。

上京後

高校卒業後に財津一郎さんは上京します。劇団に入ったりと憧れだった演劇の世界へと入りますが、財津一郎さんの芸能生活は順風満帆とはいきませんでした。

財津一郎さんも「年齢が30歳までは砂を噛む思いをしよう」と社会にもまれながらでも演劇の世界を進むことを選びました。皿洗いのバイトをしたり、劇団が幾度となくつぶれたりもしてきました。

そんな中、大阪からやり直したいと思い吉本興業に入ったことで、財津一郎さんの芸能生活も変化しました。財津一郎さんの持ち味であるギャグも生み出されることとなりました。

財津一郎のタケモトピアノとは

財津一郎さんの出演しているタケモトピアノのCMとは一体どのような会社なのでしょうか?タケモトピアノは大阪府堺市に本社がある中古ピアノの買取や販売を行っている会社です。

1979年に創業されており、現在では国内だけではなくヨーロッパや欧米、東南アジアなど世界44ヶ国以上に輸出しているのです。もともと、財津一郎さんの出演していたCMは関西・東海限定のCMだったそうです。

しかし、探偵ナイトスクープで取り上げられてから、話題となり全国で放送されるCMとなったようです。そのCMが現在でもいまだ放送されているのです。

CMの誕生秘話

このタケモトピアノのCMは創業者である竹本功一さんが社運をかけて創りだしたCMだったそうです。財津一郎さんが出演したCMが誕生するまでに6本ほどCMを作りましたが、売り上げには効果がなかったそうです。

そのため、社員が解体業者に対して壊されるピアノがあったら教えて欲しいとチラシを作り、配っていたそうです。そんな中で、起死回生を狙ってつくりだしたのが、財津一郎さんのCMだったそうなんです。

CDまで発売された

この財津一郎さんのCMはまたたくまに話題となり、ラジオCMでもまったく同じものが使用されているのです。そのCMの話題性が呼び、CM関連グッツやCD・DVDまでもが販売されているのです。

このCMで流している映像を売って欲しいという問い合わせも殺到したこともあるそうなのです。このタケモトピアノのCMのCDは2003年にはオリコンで7位になるなど伝説のCMソングとしても話題となりました。

現在も放送が続く理由は社長が財津一郎のファンだから?

この財津一郎さんのタケモトピアノのCMは現在でも放送が続く理由として、何よりも社長が財津一郎さんのファンであるということが大きな理由としてあるそうです。もちろんCMの知名度が高いこともあるそうです。

CMの中では財津一郎さんのギャグもうまく組み込まれており、これからも使われていくCMになりそうです。さらには、タケモトピアノのCMのダンスは元SMAPの香取慎吾さんにも関連しているそうです。

慎吾ママの「慎吾ママのおはロック」の振り付けを行った香瑠鼓さんが担当していたそうなんです。印象的なダンスが特徴となっているCMです。

財津一郎のギャグと伝説

財津一郎さんは吉本興業に所属していたコメディアンです。この吉本に入っていたころには、吉本新喜劇にも出演するほどの人気ぶりでした。

財津一郎さんの人気となった一つとして、財津一郎さんのギャグがあります。このギャグをきっかけに財津一郎さんは人気者となったようです。財津一郎さんのギャグはどのようなものだったのでしょうか?

財津一郎の往年のギャグ

財津一郎さんのギャグは、手を頭の後ろから回して反対側の耳をつかみ、高い声で「非常にキビシー!」や「~してちょうだい!」と叫ぶことです。画像でもあるようなポーズが話題となりました。

財津一郎さんのこのギャグは元々ギャグではなかったそうなんです。演技中にたまたま甲高い声を発したところ、それがまさかの笑いとなったことで誕生したギャグだったのです。

また、「てなもんや三度笠」では、刀を抜いて刃を蛇のようになめまわす仕草が話題となり、大人から子どもまで人気者となりました。

伝説「吉本新喜劇の録画放送事件」

そして、財津一郎さんの伝説として語り継がれているのが、「吉本新喜劇の録画放送事件」です。これは、財津一郎さんが吉本新喜劇に出演している時は、吉本新喜劇は当時は生放送でした。

しかし、財津一郎さんがアドリブで「仁丹」を使ったネタを披露した際に、スポンサーであった大正製薬を怒らせてしまったそうなんです。この事件がきっかけとなり、吉本新喜劇は録画放送になったと言われています。

やはり生放送だと編集も難しく、アドリブが入ったりするコメディだとトラブルも発生しやすいかもしれません。

財津一郎の活躍まとめ

財津一郎さんは様々な活躍をしてきました。財津一郎さんはコメディアンでもあり、俳優でもあり歌手でもあったのです。そんなマルチに活躍されていた財津一郎さんの活躍をまとめました。

コメディアンとしての活躍

財津一郎さんは元々演劇を勉強していました。しかし、お笑いに関して厳しいお客さんを目の当たりしたことによって、大阪でお笑いの勉強をすることを決意します。

大阪へと拠点を移し、吉本興業に入ります。そこで、財津一郎さんは「大阪は人情とリアリズムの街。一生懸命やると喜んでくれるし、ダメなものはダメと教えてくれる。」と語りました。

そんなコメディアンとして大阪で成長した財津一郎さんは、往年のギャグにより一躍人気者となることができたのです。

役者としての活躍

財津一郎さんは吉本興業を退社して、再び役者として東京へと戻ってきます。お笑いで成長した財津一郎さんは演技の幅も広がりました。

財津一郎さんは個性派俳優として人気がでていましたが、中には「くどい」と言われることも多かったそうです。しかし、これも財津一郎さん特有のものだと自覚していたそうです。

財津一郎さんはコメディアンとしてではなく、役者としてのイメージが強く残っている人も多いでしょう。「3年B組金八先生」で個性派教師役の英語の先生を演じたりとしたからでしょう。

役者財津一郎は「ふたたび swing me again」が最後の作品?

そんな、役者として幅広く活躍していた財津一郎さんは2010年に主演した「ふたたび swing me again」の出演を最後に俳優活動はしていません。

この映画はハンセン病という重い病の、差別や偏見とジャズをテーマにした題材となっています。この映画の時、財津一郎さんは当時70歳という年齢を過ぎた時でした。

一度出演を断っていたそうですが、監督の説得により出演を決めたそうです。ジャズシンガーとして活躍されていたこともあり、財津一郎さんはこの映画でトランペットを吹く姿も披露しているのです。

歌手としての活躍

俳優として活躍していた財津一郎さんですが、歌手としてもデビューしていたのです。一番有名な曲は「タケモトピアノ」の曲です。

また、ジャズシンガーとしても活躍しており、テレビアニメの主題歌「ピュンピュン丸」やNHKみんなのうたの中でも「ぼくは大きな石ころさ」を歌っていました。

それ以降、財津一郎さんの歌手としての活躍はお見かけしないですが、財津一郎さんの歌声は後世にも伝えられる歌となるでしょう。

財津一郎の息子・財津功について

財津一郎さんには一人息子がいます。その息子の名前は財津功さんといいます。この財津功さんもテレビ関係のお仕事をされているのです。息子さんの画像はあるのでしょうか?

財津一郎さんの息子である財津功さんについて調べてみました。

財津功のプロフィール

財津功さんは1961年8月22日生まれです。財津一郎さんの年齢が27歳の時に息子の財津功さんが産まれたのです。息子の財津功さんの画像は公開されていないようです。

日本テレビに入社してAD時代には空き時間を利用して映画を観ていたそうです。「クレイジー・キャッツの映画6本立て」を1本だけではなく、あまりに面白かったので6本全部見てしまったそうです。

慌てて仕事に戻ったら、先輩達に怒られたことがあるというエピソードを持っています。この映画で「苦しい時こそ笑え」とあったそうで、これまでにも何度もその言葉に救われていると語っていました。

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