重信房子の現在と生涯!可愛いと話題の娘は?活動目的と逮捕の真相 エンタメ

重信房子の現在と生涯!可愛いと話題の娘は?活動目的と逮捕の真相

日本赤軍のリーダーにして過激な共産主義者、国際的なテロリストとして知られる重信房子。現在は逮捕され服役中です。かつては中東パレスチナに潜伏し数々のテロ事件を指導したとされます。今回は重信房子について、また可愛い美人と話題のその娘重信メイについてもまとめます。

目次

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現在はどこにいる?日本の新左翼活動家・革命家だった重信房子

重信房子とは、日本の新左翼系団体「日本赤軍」の最高幹部であり指導者です。中東パレスチナを拠点に革命活動を展開し、テロ事件やハイジャック事件などを日本赤軍メンバーらと共謀、実行させました。

海外にて長く逃亡生活を続けていましたが、2000年、別人になりすまして日本国内に密入国していたところを公安に発見され逮捕。裁判で懲役20年の判決を受け現在は獄中にいます。

重信房子の現在はガンの闘病中?日誌で近況がわかる?

重信房子は現在、ガンの抗がん剤治療をしながら服役しているとのことです。重信房子の近況については「重信房子さんを支える会」という団体が本人の日記を掲載しており、それを読む事で詳しく知る事ができます。

今は八王子医療刑務所で服役中

重信房子服役囚は現在日本全国に4箇所ある医療刑務所の中の一つ八王子医療刑務所に服役中とされていましたが、2018年1月14日に昭島にある東日本矯正医療センターに移送されています。

ガンの治療中の身

重信房子は2008年に小腸にガンが見つかり、八王子医療刑務所へと移送されました。その後大腸や卵巣、子宮に転移しており、3度の手術を受け、いずれも成功しているそうです。

また、もう転移の恐れはないとの情報もありますが、体調はあまり良くないとの本人の言葉もあります。抗がん剤治療は依然として続けられているとの事で、重信房子服役囚の現在の詳細な健康状態については不明です。

重信房子さんを支える会「オリーブの樹」で近況報告

重信房子服役囚の現在の情報は、先に紹介した「重信房子さんを支える会」が発行する機関紙「オリーブの樹」にて重信房子本人の日誌を掲載する事で近況報告を行なっています。

最新のものでは2018年8月7日までのものが掲載されており、現在も重信房子服役囚は生存されているようです。日誌の内容は政治や革命運動の話の他に、天気の話や自身の体調の話などについても触れています。

重信房子の日誌の内容紹介

それでは「重信房子さんを支える会」の発行する機関紙「オリーブの樹」に掲載されている重信房子服役囚の日誌の一部を紹介します。

Nさんが前に送ってくださった「アジビラは語る」を読み返しつつ、いつか60年代の京都の友人たちと教訓を語り合いたいです。また、京大の闘いについては「現中研」「労研」「マル青同」など、かなり暴力的な運動展開だったようですが、全く知らない団体です。SさんとかYさんとか友人たちの名が出てきますが。暴力的運動展開は、軍事の主観的許容と「内ゲバ」の常態化という時代状況の中で、政治的行為としてまかり通っていたのでしょう。

(引用:オリーブの樹)

この様に、60年代の学生運動を振り返った内容が多くみられます。重信房子服役囚の中ではまだ革命への思いが消えていないのでしょうか?一体どの様な心境で日々獄中で過ごされているのか興味が湧きます。

お盆法要にN和尚とメイの友人のMちゃんが来てくれました。ちょっと体調を崩したことを先にお断りし、それも含めて読経でお盆法要して下さった。私とMちゃんは黙読しつつ合掌。

(引用:オリーブの樹)

重信房子服役囚には、ジャーナリストとして活躍されている娘さん重信メイさんがいます。重信メイさんについても日誌にたまに書かれています。この時はメイさんの友人が面会に来たことを綴っています。

娘である重信メイの現在は?

重信房子服役囚には、パレスチナ人活動家との間に生まれた娘、重信メイさんがいます。メイさんは現在45歳、母房子が潜伏していた中東パレスチナで生まれ育ちました。

2001年に日本国籍を取得し、河合塾の講師として生活しながらジャーナリストやニュースキャスターとしても活躍されています。また、中東放送センターの東京特派員も務められています。

母、重信房子服役囚との関係は良好な様で、母について著した著書なども発表されています。また、母重信房子も美人で可愛いと言われ話題となりましたが、娘のメイさんも同様に美人で可愛い方です。

2000年、中東に潜伏していたはずの重信房子が大阪で逮捕

重信房子は、1974年9月に発生した「ハーグ事件」(日本赤軍のメンバーが人質を取りフランス大使館に立てこもった事件)に関与した疑いで国際指名手配されていました。

海外に潜伏し、20年以上も逃亡を続けていたましたが、2000年に偽造パスポートを使い秘密裏に日本国内に不法入国していたところを逮捕されています。公安による重信房子逮捕劇について解説します。

大阪市西成区のマンションに潜伏していた

どうやら重信房子服役囚はしばらくの間、大阪市西成区のマンションで潜伏しての生活を送っていた様です。重信房子は香港から2000年9月に香港から関西国際空港を経て入国していました。

また、この逮捕劇から過去3年の間にも4回も日本に不法入国した記録があったそうです。入国に使われたパスポートは写真だけ本人のものの別人名義のものでした。

重信房子には赤軍派として活動していた時期の仲間が未だ大勢国内におり密入国も潜伏も、彼らが手引きをして支援していた様でした。しかし、逮捕につながった情報も赤軍内部からのものであったとされています。

逮捕の決め手は指紋とタバコ?!

公安に「重信房子に似た女がいる」との情報がもたらされ、捜査員が重信房子の支援者を見張っていました。すると程なくして、似ている女と接触するのを確認しその動向を追っていたのだそうです。

その後、逮捕への決め手となったのは、重信のタバコを吸うときに手のひらを上に向けて吸う独特の癖であったのだと言います。見張っていた捜査官はその女性のタバコを吸う仕草を見て確信を得たそうです。

その時、その女性が飲んでいたコーヒーカップを押収し、指紋を採取したところ重信房子のものと一致、確証を得て逮捕へと踏み切りました。国際指名手配から26年目にしてようやくの逮捕でした。

2001年日本赤軍の解散を宣言

2000年11月8日大阪高槻市にて逮捕された重信房子は、翌2001年4月に獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行いました。解散の理由は日本赤軍がすでに事実上の壊滅状態にあった事でした。

1980年には既にその思想が時代遅れとなっていた日本赤軍は、新たな支持者を獲得する事ができず、既存メンバーやシンパの高齢化も進んで、先細りの状況にありました。

重信房子は2009年に産経新聞のインタビューに応じて、当時の活動を振り返って「世界を変えるといい気になっていた」とかつての活動を否定するかの様な発言をしています。

現在も主要メンバー7人が国際手配中

最高幹部で指導者であった重信房子は逮捕されましたが、日本赤軍の主要メンバーのうち7人が未だに逮捕されておらず、国際指名手配を受けています。

その7人ともが銀行強盗や爆破事件、人質立てこもり事件、ハイジャック事件、国際テロ事件などの実行犯、それに関与などをした凶悪犯罪者達です。

彼らの中には、一度は逮捕されても、捕まっていない仲間が罪のない民間人を襲い人質とし、その解放と引き換えに釈放され逃亡を続けている者もおり、極めて凶悪な犯罪者達です。

重信房子の裁判について

重信房子は、前述の通り2000年に大阪で逮捕。その後ハーグ事件の裁判を受けています。ここでは重信房子のハーグ事件裁判の概要について解説していきます。

直接関与したハーグ事件の裁判

1974年9月、日本赤軍はオランダのデン・ハーグにあるフランス大使館を襲撃。大使らを人質に取り立てこもり、フランス当局に捕まっていた仲間の解放を要求するという「ハーグ事件」が発生しました。

重信房子服役囚は、この事件に関与したとし、逮捕監禁・殺人未遂などでの共謀共同正犯の容疑で国際指名手配を受け、2000年に逮捕、裁判を受けます。重信側は無罪を主張しますが、懲役20年の判決を受けます。

控訴するも棄却・2027年出所予定

この判決に対して、娘、重信メイと主任弁護士は同日控訴、同時期に連動して動いていたとされるベネズエラ人テロリストの証言を得る等しますが、棄却されます。その後上告しますがこれも棄却され、刑が確定しました。

懲役20年の刑の確定は2010年の事でしたが、約3年間の未決勾留期間(刑が確定するまでの拘留されていた期間)を刑期に参入し、実質懲役17年となり、重信房子の出所は2027年の予定となりました。

重信房子のプロフィールと生い立ち

続いては、そんな重信房子服役囚がいかにして国際的なテロリストになっていったかについて、プロフィールや生い立ちから見ていきたいと思います。

重信房子の生い立ち

重信房子服役囚は1945年9月28日、太平洋戦争が終わって間も無くの頃、東京世田谷区で4人兄弟の次女として生まれました。父親は右翼の活動家で、重信房子もこの父の影響を強く受けて育ったといいます。

とはいえごく普通に成長した重信は、文学を好み将来は小学校の教員をしながら小説を書くことを目指していたそうです。高校卒業後は昼間は企業に勤め働きながら、明治大学文学部の夜学に通っていました。

この頃の重信房子は大変可愛い美人で、周囲からも注目を集める存在だったようです。しかし、当時の大学生達には学生運動の嵐が吹き荒れ、重信も学費値上げ反対をきっかけに明大紛争へと参加していく事になります。

親友・遠山美枝子と山岳ベース事件について

この頃、重信房子はその後、共に学生運動に取り組み親友となる遠山美枝子と知り合っています。この遠山美枝子は後に連合赤軍が引き起こす山岳ベースリンチ殺人事件(連合赤軍山岳ベース事件)の犠牲者となります。

連合赤軍山岳ベース事件とは、追い詰められ山岳地帯に拠点を置いていた連合赤軍が、逃亡を図るなどした仲間に対して総括(過去を振り返り反省する)の名の下に壮絶な暴行を加え12名を死亡させた事件です。

この事件が発生した頃、重信房子は中東パレスチナにいました。この一報を現地で聞いたとき重信は泣いて悲しんだと言います。そして、この悲しみが重信をさらなる革命運動へと駆り立てたとも言われます。

重信房子・日本赤軍の起源

重信房子は、過激な共産主義者、日本赤軍のリーダーで指導者、国際的なテロリストなどの肩書きを持ちます。しかし、明治大学に入学するまでの重信はいたって普通の学生であったとされています。

ここからは、いかにして重信房子が過激な思想を持つ共産主義者となり、日本赤軍を作り上げ、共産主義の女帝とまで言われる存在になったのかについてまとめていきます。

明治大学で学生運動に出会う

重信房子は明治大学の夜学に入学してしばらく経った頃に学生運動に出会っています。きっかけとなったのは学費値上げを反対するデモ(後に明大紛争に発展)に友人の誘いで軽い気持ちで参加した事だったそうです。

最初は学費値上げ阻止を目的に参加しただけだった重信でしたが、やがて資本主義自体への疑問を抱くようになり過激な共産思想を持つようになっていきます。

共産主義者同盟赤軍派の創立メンバー

重信房子は熱心に活動し、次第に学生運動の中心的存在となっていき、1969年に結成された新左翼、共産主義同盟赤軍派の創立メンバーとなります。

共産主義同盟赤軍派は後に日本赤軍や連合赤軍の母体となる過激な共産思想を持つ集団でした。暴動なども度々起こし、公安警察からのマークも受けるようになります。

大菩薩峠事件

革命戦争を主張する共産主義同盟赤軍派は、その前哨戦としてある作戦を立てます。それは首相官邸や警視庁を武装占拠し、人質をとって、服役中の左翼活動家などの解放を要求するという計画でした。

その実行のためには軍事訓練が必要であるとして、山梨県にある大菩薩峠の山小屋に拠点を置いて、製造した爆弾を使っての訓練を開始します。しかし、この計画は公安やマスコミにも筒抜けとなっていました。

赤軍派の行動をマークしていた公安は、その構成員を追跡する事で大菩薩峠での爆発物や刃物を使用しての軍事訓練の現場を押さえ、凶器現場集合罪で現場にいた53名を逮捕します。これを大菩薩峠事件といいます。

大菩薩事件で主要メンバーの多くを逮捕された赤軍派は大打撃を受け、同時期に重信房子も沖縄返還運動に参加した容疑で逮捕されます。大菩薩事件関与も含め徹底的な取り調べを受けますがひと月程で釈放されました。

日本初のハイジャックよど号事件にも関連?!

主要幹部の多くを逮捕され危機に陥った共産主義同盟赤軍派は、日本国内からの革命は難しいと考え海外へと目を向け、社会主義国家に潜入し、その国の指導者を巻き込んで暴力革命を起こすべく国際根拠地論を唱えます。

この理論に基づき、1970年3月31日に現在でも有名な事件、日航機よど号ハイジャック事件を起こします。9名の犯人達は乗客を人質に取り、北朝鮮への亡命を希望し、同国へと向かうよう要求します。

犯人達はこれによって北朝鮮への亡命を成功させます。この時の犯人グループの1人柴田泰弘のアルバムの中にチマチョゴリを着た重信房子の写真があったとされ、重信とよど号事件との関連も疑われています。

国際根拠地論に基づき重信房子は中東パレスチナへ

よど号事件を誘発させた、国際根拠地論に基づいて、重信房子が目を向けたのは中東パレスチナでした。パレスチナは同地域にイスラエルが建国されて以来迫害を受け、土地を奪われ、長きに渡る紛争状態にありました。

国際根拠地論とは?

国際根拠地論とは、先進国における格差をめぐる階級闘争や、発展途上の国における、民族解放闘争を支援する事を目的に社会主義国家へと潜入し、世界規模での暴力革命へと発展させようとする思想です。

この理論に基づいて、共産主義同盟赤軍派は次々と日本から脱出、海外に拠点を置いて革命運動を行なっていく事になります。重信房子もこの理論に基づいて民族紛争が続く中東パレスチナへと目を向けたのです。

赤軍派の基地を作るために偽装結婚を経てパレスチナに渡る

1971年頃、既に警察の厳しいマークを受けていた重信久子は、海外へ隠密裏に渡航するために、同じく革命活動家の学生であった奥平剛士と偽装結婚をし、戸籍を変えた上で中東パレスチナへの渡航を成功させます。

目的は同地に赤軍派の活動の根拠地となる基地を作るためでした。重信は奥平らと協力し、現地の武装組織、パレスチナ解放人民戦線PFLPなどと連携しながら革命活動を過激化させていく事になります。

その頃日本ではあさま山荘事件

ちょうどその頃、日本国内では連合赤軍による有名なあさま山荘事件が発生します。1972年2月19日、連合赤軍メンバー5人が長野県軽井沢の山荘「あさま山荘」に人質を取って立てこもりました。

警察は機動隊など1000名規模での包囲を展開しますが、犯人グループは銃器やパイプ爆弾で武装しており、人質救出は難航を極めました。機動隊は2月18日強行突入し人質の救出に成功します。

犯人達5人は逮捕されますが、機動隊員2名、民間人1人が死亡し、その他27名が負傷するという大事件となります。この事件の発生で赤軍派含む新左翼団体の危険性がより認識される事となりました。

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