沢村忠の現在は?八百長疑惑も浮上?伝説の逸話まとめ【キックの鬼】 エンタメ

沢村忠の現在は?八百長疑惑も浮上?伝説の逸話まとめ【キックの鬼】

1960年代にキックボクシングブームが巻き起こりましたが、ブームの火付け役となったのが沢村忠さん。キックの鬼とも呼ばれ、一世を風靡した沢村忠さんですが、現在どこで何をしているのでしょうか?その後や八百長疑惑、強さの秘密に迫ってみました。

目次

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「キックの鬼」沢村忠の現在、今は何をしているの?

リングで華々しい活躍を続けたキックの鬼こと沢村忠さんですが、1977年に引退されて以来表立った噂を聞きませんでした。

ここでは沢村忠さんの経歴と共に現在どのような生活を送っているのかに迫って行きます。

沢村忠は現在、自動車の修理販売業をしており子供に空手を教えている

引退後の行方は知れず、何をしているのか様々な噂が飛び交いましたが1999年のテレビ番組「驚きももの木20世紀」で現在自動車の修理販売業を営んでいる事が報じられました。

その傍ら少年空手の指導員も務められており、後進の指導にもあたっているそうです。

沢村忠さんの指導を求める子供達はたくさんいたため、仕事の合間に空手の指導をしていましたが結果的に昼夜働き詰めになってしまいました。

パチンコ台販売会社の取締役も務める

それと同時に、沢村忠さんはパチンコ台販売会社セイブシステムリンクの取締役も務めていました。

なお、現在は取締役を退いていて、別の仕事をしているという情報があります。

引退後も交流のある渡嘉敷勝男が語る現在の沢村忠

上の動画は引退後の沢村忠さんについて、25年来の交流があるという元WBA世界ライトフライ級王者の渡嘉敷勝男さんが語っているものです。

70代になっても全く体型が変わらず、キックの威力も衰えていない、また物腰も柔らかく穏やかな人柄だとキックボクサーとしてではなく人間としても憧れると語る渡嘉敷勝男さん。

現在はTVにも出演されなくなった沢村忠さんですが、お元気でいることは確かな様子です。

死亡説も浮上していた

引退等で表舞台から姿を消した芸能人やスポーツ選手が、実は死んでいると噂されるのはよくある話ですが、何を隠そう沢村忠さんもその一人でした。

現役の頃は頻繁に怪我をしていたため、怪我の後遺症で病気になり亡くなったという噂されたのです。

この一件について沢村忠さんは以下の様にコメントをしていました。

「こっちが子供みたいに怒って、いちいち(雑誌の出版社に)電話して『無礼者!』とか言ったってしょうがないですからね。そういえば目黒のそば屋で元選手と飯食ってたんだけど、キックの話がでるじゃない。そこのおばあちゃんが『キックと言えば、あの沢村って死んだんだってね』と言われて、思わず『そうですね』と答えたんだけど、店を出てから、ふたりで笑い転げましたね」(引用 ミドルエッジ)

また死亡説の他アルコールで身を崩したと言う噂も流れていたようですが、沢村忠さん自身は付き合いで居酒屋に行く事こそあれど、アルコールを一切受け付けない体質なのだそうです。

パンチドランカーの噂もあった?

沢村忠さんはパンチドランカーの症状があったと指摘する人もいました。後年、症状が著しい状態だったと言われているのです。

しかし現在は仕事もしていることですし、それほど酷い状態ではないのでしょう。また、現在でも強い蹴りは健在だと噂になっていました。

沢村忠はヒーローだった?現在が気になる人は多い!

八百長疑惑などもありましたが、ネット上では沢村忠は子供の頃ヒーローだったという声が圧倒的に多く、現在なにをしているのか気になる人が多いようでした。

子供の頃の憧れの人だっただけに、再びテレビで見たいという気持ちもあるのでしょう。

特に病気といった報道もなく、修理工場をやっていると伝わり現在も元気に生活できていることに安堵するファンもいました。

沢村忠は現在結婚してるの?

沢村忠さんは結婚歴がありませんでした。けれど昔、婚約していた相手はいたのです。婚約者の名前は大門節子さんで、銀座で有名なホステスでした。

沢村忠さんと大門節子さんの出会いはお店です。試合の打ち上げで行った店で2人は出会い、意気投合しました。

すぐに交際をスタートさせましたが、大門節子さんは梅宮辰夫さんの元妻で、芸能界で多くの人と交流を持っており交友関係が派手だったと言われています。

そのことが原因で2人は婚約破棄することになりました。しかしその時には大門節子さんは妊娠していて、その後未婚のまま娘を出産しています。

沢村忠の娘は元タレントの白羽玲子!

1991年から1994年の間、放映されたバラエティー番組「桜っ子クラブ」。SMAPのリーダーが中居正広さんに決まったのも、番組内の対決の結果によるものでした。

実はこの番組に沢村忠さんの娘である白羽玲子さんも、番組内のメインキャラクターである桜っ子クラブさくら組のメンバーの一人として出演されており、後にソロ歌手としても活躍しました。

ドラマやテレビCM等にも出演されましたが、現在はタレントは引退されているそうです。

沢村忠は本当に強かったの?八百長疑惑も?

特訓の末に真空飛び膝蹴りや前蹴りを武器に連戦連勝を重ねた沢村忠さんですが、不幸にも八百長疑惑や強さに対し疑問視された事もありました。本項目では沢村忠さんに纏わる逸話や噂について解説していきます。

沢村忠は無名のタイ人と対戦してた?八百長疑惑も

沢村忠さんには八百長疑惑がありました。あまりにも強く、対戦相手を簡単に倒せてしまったために疑惑が浮上したようです。

けれど沢村忠さんが活躍していた当時、キックボクシング協会は立ち上げられて間もない状態でした。

つまり沢村忠さんの周囲には初心者も少なくなかったのです。沢村忠さんは空手でも国を代表するレベルで活躍していましたが、そのような選手は他にはほとんどいませんでした。

よって同じ選手でも大きな力の差があったのだと言われています。

また、沢村忠さんの対戦相手はタイ人が多く、タイ人相手では必ず勝利していました。このことがきっかけでさらに八百長の噂が広まったのです。

当時はタイの情報が殆ど入らなかった故に、対戦相手の強さに疑問を持たれ易かった事も理由の1つになっているようでした。

けれど無名のタイ人との対戦も週に1度程度と言うスケジュールの兼ね合い上、ランカーやチャンピオンばかりとマッチメイクする事はどうしても難しかったのです。

必然的にランク外や無名の選手と対戦しなければならなかった、というのが真相だと考えられています。

「沢村があれだけ連戦をこなせたのは、マッチメイクの巧みさによるものだ。相手の中には、全力で戦わなければ勝てない相手もいれば、スパーリング程度の感覚で倒せる相手もいる。対戦相手に強弱をつけて、それらをうまく組み合わせていくのがプロモーターの腕だ」(野口 修)
(引用 ミドルエッジ)

事実沢村忠さんは、八百長疑惑を振り払うべくタイへと遠征し現役のムエタイチャンピオンと対戦。

結果は引き分けと言う快挙を成し遂げており、見事八百長疑惑を払拭し強さを証明しています。

しかしながら、完全に払拭とは行かず八百長や強さについては現在でも議論がなされています。

沢村忠はタイでも話題になっていた?雑誌の表紙にも!

沢村忠さんはムエタイの雑誌で表紙になったことがありました。このことから当時、キックボクシングはタイも注目していたのではと言われています。

ムエタイの敵になり得ると考えられていたのではと推測されていました。

沢村忠の驚異の最終成績、241戦232勝5敗4分

八百長疑惑も有った沢村忠さんですが驚異的な戦績を誇っており、それが何よりの強さの証明となっています。

勝率は実に96%にも上り、その内KO勝ちは実に228回とこれまた凄まじい戦績を誇っています。

引退式は1977年ですが、最終試合は1976年なので実働は約10年です。

ざっと計算して2試合程度は行っている事となり、いかにハードなスケジュールの中で沢村忠さんが活躍された事が窺えます。

余談ですが、非公式戦も含めると500戦以上試合をこなしていたと言う説があり、もしこれが本当だとするならば、約7日に1回試合をしていたと言う事を付け加えておきます。

キックボクシングの沢村忠とムエタイの藤原敏男はどちらが強い?

沢村忠さんが華々しい活躍をされる一方で、同じくキックボクシングの舞台で活躍し後にラジャダムナンムエタイ王者に輝く藤原敏男さんという選手が居ました。

両者共に階級はライト級で高い実力を持っていましたが、微妙に年代の違った為か対戦は実現しませんでした。

もし全盛期の二人が戦ったらどちらが勝つのか、と言うのは往年の格闘技ファンの間で語り草となっています。

そして、肝心の勝敗についてですが、調査の結果軍配は藤原敏夫さんの方が有利と言う意見が多いようです。

藤原敏男が語る!沢村忠vs藤原敏男はなぜ実現しなかった?

なぜ沢村忠VS藤原敏男が実現しなかったのか、この疑問についてなんと藤原敏男さん本人が自身のYouTubeチャンネルで解説されています。

当時の全日本キックボクシング協会のメインスポンサーはテレビ東京、日本キックボクシング協会のメインスポンサーはTBSであり、TBSはスター選手である沢村忠さんを決して出そうとしなかったのだそうです。

しかし藤原敏男さん個人は憧れの存在でもあった沢村忠さんと戦いたいと思っており、キックボクシングを日本に定着させた大先輩として今でも尊敬していると語っています。

沢村忠の引退後に活躍した富山勝治

沢村忠さんの引退後、キックボクシング会を牽引したのが東洋ウェルター級のチャンピオンだった富山勝治さんです。

顎が弱点だったそうで、ダウンも多かったそうですが、必殺技の飛び後ろ回し蹴りがさく裂し、大逆転で勝利を納める華の多い選手だったそうです。

引退後の詳細は不明ですが、一説によれば東京で実業家になられたとの情報や渋谷でスパゲッティ店のオーナーになられたと言う情報があります。

沢村忠の強さがわかる動画は?

現在でも動画サイト等で沢村忠さんの雄姿を見る事が出来ます。

こちらの動画は沢村忠さんのKOシーン集となります。代名詞であり必殺技である真空飛び膝蹴りの威力がいかに凄まじく、沢村忠さん強さが窺い知る事が出来ます。

映像とは言え大迫力でド派手ですが、それ故にやはり八百長だったのでは?と指摘される側面も持ち合わせています。

キックボクシング沢村忠の伝説

キックボクシング界の生ける伝説である沢村忠さん。戦績や日本格闘技界に残した功績もさる事ながら、それ以外でも数多くの伝説を残しています。

祖父は中国唐手の正師範だった沢村忠

沢村忠さんの格闘技へと導いたのは祖父さんであった事は前述の通りです。

お祖父さんは中国唐手の正師範だったそうで、キャリアは実に50年と言われ、日清戦争にも従軍されたのではないかとも言われています。

Silentpilot / Pixabay

中国唐手は空手の源流となった武術でトウテと読みます。沢村忠さんは幼い頃、薪が無くなると裏山に薪を取りに行っていました。

そこで、お祖父さんが見せた生木を折る手刀の威力に魅せられました。以後15年間、お祖父さんのマンツーマンの指導を受け腕を磨き、その才能を開花させていきました。

空手の世界では無敗だった沢村忠

大学に入学した沢村忠さんは、空手部に入部します。そして、段位は3段を取得。3年時は全日本チャンピオンにも輝きました。当時の日本空手界で沢村忠さんは非常に有名な存在であったようです。

60戦無敗と言われており、幼少期から大学生に至るまでの間の戦績について、沢村忠さんはこんなコメントを残しています。

「法政一高、日大へと進学した私は子供の頃からストリートファイトを含め1度も負けたことはありません。日大3年で全日本学生チャンピオンになり空手の世界では無敗でした」(沢村忠)

(引用 ミドルエッジ)

そんなある日の事です。沢村忠さんは人生を一変させる運命的な出会いをします。

野口修との出会いで沢村忠がキックボクシングデビュー

野口修さんは日本キックボクシング会の創始者であり、ボクシング界においても多大な貢献をされ、そして何より沢村忠さんをキックボクシングに導いた人物です。

向かうところ敵なし。絶頂期の私に「野口修」氏がこう語りかけました。「世界で最強」はタイ式ボクシングである。日本のボクサーは足技がない。空手は蹴りもあるが動き・強さは比較にならない。そんなに強いなら、タイの選手と戦ってごらん。きっと赤子の手をひねるように負けるだろう。

高慢さを見抜いた野口氏の言葉は沢村の胸をえぐったことだろう。彼はこの挑発を受けてたち、日本で初めてキックボクサーとして戦う決意をした。

(引用:マッキーの素晴らしい仲間たち)

協会の旗揚げ興行として、タイより選手を招き空手対キックボクシングと銘打った興行を企画しました。

しかし日本側の選手が中々決まらず野口修さんは頭を抱えていた所、知人の紹介で沢村忠さんに出会いました。当初は難色を示すも、野口修さんに手玉に取られる形で出場を承諾。

日本側の選手が逃げ出すというトラブルに見舞われますが、沢村忠さんは逃げずにリングにあがり3RKO勝ちという鮮烈なデビューを飾ったのです。

沢村忠はダウン16回で病院送りに

リングにあがるのは1度きりと沢村忠さんは考えていましたが、またも野口修さんに乗せられる形でリングにあがります。

しかし、そこに待っていたのは前回のような華々しさではなく、凄惨な結果でした。後に沢村忠さんはこう述懐しています。

「4R2分53秒、私のKO負けです。全身16ヶ所が破壊されていました。頭蓋骨陥没、歯は7本、肋骨は3本折れていました。リングからそのまま病院に直行でした」 (沢村忠)

(引用 ミドルエッジ)

この時野口修さんは、沢村忠さんが再起するのは不可能だろうと考えていました。

しかし、驚く事に沢村忠さんの闘志は萎える事は無く、再戦を懇願します。その姿勢に野口修さんは大いに感動したそうです。

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