沢村忠の現在は?八百長だった?伝説の逸話もまとめ【キックの鬼】 芸能人

沢村忠の現在は?八百長だった?伝説の逸話もまとめ【キックの鬼】

1960年代にキックボクシングブームが巻き起こりましたが、ブームの火付け役となったのが沢村忠さん。キックの鬼とも呼ばれ、一世を風靡した沢村忠さんですが、現在どこで何をしているのでしょうか?その後や八百長疑惑、強さの秘密に迫ってみました。

目次

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「キックの鬼」沢村忠の現在、今は何をしているの?

リングで華々しい活躍を続けたキックの鬼こと沢村忠さんですが、1977年に引退されて以来表立った噂を聞きませんでした。ここでは沢村忠さんの経歴と共に現在どのような生活を送っているのかに迫って行きます。

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沢村忠のプロフィール

  • 本名:白羽秀樹
  • 生年月日:1943年1月5日
  • 出身地:満州国新京特別区
  • 国籍:日本
  • 身長:174cm
  • 体重:61kg
  • 通称:キックの鬼、蹴りの白羽

沢村忠の経歴

沢村忠さんは現在76歳。その強さの源流はお祖父さんであり、5歳の頃から手ほどきを受けて格闘家としての道を歩み始めます。大学在籍中は空手の全日本選手権で優勝する等空手界で圧倒的な強さを誇っていました。

そして、1966年4月にキックボクシングのリングにあがります。デビュー戦は見事2RKOで勝利をもぎ取りますが、同年6月には惨敗を喫しました。しかし、この敗北をバネに特訓を開始します。

特訓の成果もあり、以後はKOを量産。1973年には三冠王を獲得した王貞治さんを抑えて、日本プロスポーツ大賞を獲得する等華々しい活躍を経て1977年の10月10日引退式が行われました

娘は元タレントの白羽玲子

1991年から1994年の間、放映されたバラエティー番組「桜っ子クラブ」。SMAPのリーダーが中居正広さんに決まったのも、番組内の対決の結果によるものでした。

実はこの番組に沢村忠さんの娘である白羽玲子さんも、番組内のメインキャラクターである桜っ子クラブさくら組のメンバーの一人として出演されており、後にソロ歌手としても活躍しました。

ドラマやテレビCM等にも出演されましたが、現在はタレントは引退されているそうです。

沢村忠は現在、自動車の修理販売業をしており子供に空手を教えている

引退後の行方は知れず、何をしているのか様々な噂が飛び交いましたが1999年のテレビ番組「驚きももの木20世紀」で現在自動車の修理販売業を営んでいる事が報じられました。

その傍ら少年空手の指導員も務められており、後進の指導にもあたっているそうです。

パチンコ台販売会社の取締役も務める

それと同時に、沢村忠さんはパチンコ台販売会社セイブシステムリンクの取締役も務めています。

死亡説も浮上していた

引退等で表舞台から姿を消した芸能人やスポーツ選手が、実は死んでいると噂されるのはよくある話ですが、何を隠そう沢村忠さんもその一人でした。この一件について沢村忠さんは以下の様にコメントをしています。

「こっちが子供みたいに怒って、いちいち(雑誌の出版社に)電話して『無礼者!』とか言ったってしょうがないですからね。そういえば目黒のそば屋で元選手と飯食ってたんだけど、キックの話がでるじゃない。そこのおばあちゃんが『キックと言えば、あの沢村って死んだんだってね』と言われて、思わず『そうですね』と答えたんだけど、店を出てから、ふたりで笑い転げましたね」(引用 ミドルエッジ)

また死亡説の他アルコールで身を崩したと言う噂も流れていたようですが、沢村忠さん自身は付き合いで居酒屋に行く事こそあれど、アルコールを一切受け付けない体質なのだそうです。

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沢村忠はキックの世界からスッパリ身を引いた理由

引退の際、後進の育成をして欲しいと説得されていました。しかしながら、沢村忠さんは首を縦には振らず、その誘いを丁重に断りキックボクシングの舞台から姿を消しました。

武士道への憧れ故、立つ鳥跡を濁さずとも考えていたそうです。事情により引退を先延ばしにしていましたが、異常な過密スケジュールの中34歳まで現役としてリングに立ち続けた結果完全燃焼したと述べています。

「キックボクシングで自分なりに全てをやり尽くしたことは自分にとって最高の勲章なんですよ。だからこそ、そっとしまっておきたかったし、とても改めて引っ張り出す気にはなれなかったんです。思い残すことのないキックの世界からスッパリ身を引き、新しい人生を一からスタートさせようと思ったんです」(沢村忠)

(引用 ミドルエッジ)

沢村忠は本当に強かったの?八百長だった?

特訓の末に真空飛び膝蹴りや前蹴りを武器に連戦連勝を重ねた沢村忠さんですが、不幸にも八百長疑惑や強さに対し疑問視された事もありました。本項目では沢村忠さんに纏わる逸話や噂について解説していきます。

ポケモン・サワムラーのモデルにもなった沢村忠

今や世界的規模の人気を博しているポケモン。現在述べ809種類ものポケモンが居ますが、中には実在する人物をモデルにしたと思われる個体も複数存在し、サワムラーもまたその一つです。

サワムラーはシリーズ初代である赤・緑にて初登場しており、キックが得意なポケモンとなっています。別名キックの鬼とも呼ばれているそうで、飛び膝蹴りを覚える等随所に沢村忠さんの面影が伺えます。

沢村忠は無名のタイ人と対戦してた?八百長疑惑も

対戦相手が格下であった故に八百長疑惑を持たれてしまったと言うのが疑惑の真相とされています。また当時はタイの情報が殆ど入らなかった故に、対戦相手の強さに疑問を持たれ易かった事も理由の1つなようです。

無名のタイ人との対戦も週に1度対戦と言うスケジュールの兼ね合い上、ランカーやチャンピオンばかりとマッチメイクする事はどうしても難しく、必然的にランク外や無名の選手と対戦しなければならなかったようです。

「沢村があれだけ連戦をこなせたのは、マッチメイクの巧みさによるものだ。相手の中には、全力で戦わなければ勝てない相手もいれば、スパーリング程度の感覚で倒せる相手もいる。対戦相手に強弱をつけて、それらをうまく組み合わせていくのがプロモーターの腕だ」(野口 修)
(引用 ミドルエッジ)

事実沢村忠さんは、八百長疑惑を振り払うべくタイへと遠征し現役のムエタイチャンピオン対戦。結果は引き分けと言う快挙を成し遂げており、見事八百長疑惑を払拭し強さを証明しています。

しかしながら、完全に払拭とは行かず八百長や強さについては現在でも議論がなされています。

沢村忠の驚異の最終成績、241戦232勝5敗4分

八百長疑惑も有った沢村忠さんですが驚異的な戦績を誇っており、それが何よりの強さの証明となっています。勝率は実に96%にも上り、その内KO勝ちは実に228回とこれまた凄まじい戦績を誇っています。

引退式は1977年ですが、最終試合は1976年なので実働は約10年です。ざっと計算して2試合程度は行っている事となり、いかにハードなスケジュールの中で沢村忠さんが活躍された事が窺えます。

余談ですが、非公式戦も含めると500戦以上試合をこなしていたと言う説があり、もしこれが本当だとするならば、約7日に1回試合をしていたと言う事を付け加えておきます。

キックボクシングの沢村忠とムエタイの藤原敏男はどちらが強い?

沢村忠さんが華々しい活躍をされる一方で、同じくキックボクシングの舞台で活躍し後にラジャダムナンムエタイ王者に輝く事藤原敏男さんという選手が居ました。

両者共に階級はライト級で高い実力を持っていましたが、微妙に年代の違った為か対戦は実現しませんでした。もし全盛期の二人が戦ったらどちらが勝つのか、と言うのは往年の格闘技ファンの間で語り草となっています。

そして、肝心の勝敗についてですが、調査の結果軍配は藤原敏夫さんの方が有利と言う意見が多いようです。

沢村忠の引退後に活躍した富山勝治

沢村忠さんの引退後、キックボクシング会を牽引したのが東洋ウェルター級のチャンピオンだった富山勝治さんです。

顎が弱点だったそうで、ダウンも多かったそうですが、必殺技の飛び後ろ回し蹴りがさく裂し、大逆転で勝利を納める華の多い選手だったそうです。

引退後の詳細は不明ですが、一説によれば東京で実業家になられたとの情報や渋谷でスパゲッティ店のオーナーになられたと言う情報があります。

沢村忠の強さがわかる動画は?

現在でも動画サイト等で沢村忠さんの雄姿を見る事が出来ます。

こちらの動画は沢村忠さんのKOシーン集となります。代名詞であり必殺技である真空飛び膝蹴りの威力がいかに凄まじく、沢村忠さん強さが窺い知る事が出来ます。

映像とは言え大迫力でド派手ですが、それ故にやはり八百長だったのでは?と指摘される側面も持ち合わせています。

キックボクシング沢村忠の伝説

キックボクシング界の生ける伝説である沢村忠さん。戦績や日本格闘技界に残した功績もさる事ながら、それ以外でも数多くの伝説を残しています。

祖父は中国唐手の正師範だった沢村忠

沢村忠さんの格闘技へと導いたのは祖父さんであった事は前述の通りです。お祖父さんは中国唐手の正師範だったそうで、キャリアは実に50年と言われ、日清戦争にも従軍されたのではないかとも言われています。

中国唐手は空手の源流となった武術でトウテと読みます。沢村忠さんは幼い頃、薪が無くなると裏山に薪を取りに行っていました。そこで、お祖父さんが見せた生木を折る手刀の威力に魅せられました。

以後15年間、お祖父さんのマンツーマンの指導を受け腕を磨き、その才能を開花させていきました。

空手の世界では無敗だった沢村忠

大学に入学した沢村忠さんは、空手部に入部します。そして、段位は3段を取得。3年時は全日本チャンピオンにも輝きました。当時の日本空手界で沢村忠さんは非常に有名な存在であったようです。

60戦無配と言われており、幼少期から大学生に至るまでの間の戦績について、沢村忠さんはこんなコメントを残しています。

「法政一高、日大へと進学した私は子供の頃からストリートファイトを含め1度も負けたことはありません。日大3年で全日本学生チャンピオンになり空手の世界では無敗でした」(沢村忠)

(引用 ミドルエッジ)

そんなある日の事です。沢村忠さんは人生を一変させる運命的な出会いをします。

野口修との出会いで沢村忠がデビュー

野口修さんは日本キックボクシング会の創始者であり、ボクシング界においても多大な貢献をされ、そして何より沢村忠さんをキックボクシングに導いた人物です。

協会の旗揚げ興行として、タイより選手を招き空手対キックボクシングと銘打った興行を企画しましたが、日本側の選手が中々決まらず野口修さんは頭を抱えていた所、知人の紹介で沢村忠さんに出会いました。

当初は難色を示すも、野口修さんに手玉に取られる形で出場を承諾。日本側の選手が逃げ出すというトラブルに見舞われますが、沢村忠さんは逃げずにリングにあがり3RKO勝ちという鮮烈なデビューを飾ったのです。

沢村忠はダウン16回で病院送りに

リングにあがるのは1度きりと沢村忠さんは考えていましたが、またも野口修さんに乗せられる形でリングにあがります。

しかし、そこに待っていたのは前回のような華々しさではなく、凄惨な結果でした。後に沢村忠さんはこう述懐しています。

「4R2分53秒、私のKO負けです。全身16ヶ所が破壊されていました。頭蓋骨陥没、歯は7本、肋骨は3本折れていました。リングからそのまま病院に直行でした」 (沢村忠)

(引用 ミドルエッジ)

この時野口修さんは、沢村忠さんが再起するのは不可能だろうと考えていました。しかし、驚く事に沢村忠さんの闘志は萎える事は無く、再戦を懇願します。その姿勢に野口修さんは大いに感動したそうです。

八ヶ岳山中での鍛錬を経て試合復帰

退院した沢村忠さんは長野県の八ヶ岳に籠ります。肉体面は勿論、外界と隔絶し恐怖と孤独に耐える事で精神面の強化を計りました。その際、片眉をそり落とし人前に出られなくする事で鍛錬を乗り切ったそうです。

2週間後、山を降り野口修さんと対面。その際に助言を受け、沢村忠さんは以後鼻ひげをたくわえる事に。その後も過酷な鍛錬を行う等して技を磨きます。そして敗北から約1年後、再びリングにあがる時が来ました。

対戦相手は前回惨敗した相手に勝っている強敵です。それでも臆する事無く互角に渡り合っていき、3Rに沢村忠さんの飛び蹴りが相手の腹部を捉えます。それが決定打となり、見事3RKOで勝利を手中に納めました。

沢村忠の必殺技・真空飛び膝蹴り

当初は、膝蹴りでは無く飛び蹴りの習得を目指していたそうです。無意識に蹴りが出せるよう徹底的に反復訓練を行う中、野口修さんの助言を受け、走り幅跳びの選手にヒントを得て練習を繰り返します。

両手をバタつかせながら何度も練習を繰り返す沢村忠さんは狂人とのそしりを受けます。練習の合間合間には試合をこなすも、金銭的にも困窮。満足な食事を得る事も出来ず、犬の餌を食べる事もあったようです。

それでも、諦める事無く研鑽に次ぐ研鑽を続け、膝の有用さに気付いた沢村忠さんは遂に必殺技・真空飛び膝蹴りの習得に至ったのです。

沢村忠が主人公のアニメ「キックの鬼」

梶原一騎さんと言えば、巨人の星やあしたのジョー等で知られる漫画原作者であり、いわゆるスポ根ものの第一人者であり、そんな梶原一騎さんを原作者に迎え、沢村忠さんの半生を描いた作品がキックの鬼です。

沢村忠さん自身がキックの鬼とあだ名されたのも、本作があったが故にです。アニメ化もされ、沢村忠さんご本人が声優役で出演する事が企画され実際に交渉もされましたがスケジュールの都合で断念しています。

尚本作は思わぬ弊害を生み出しており、実際の試合際、沢村忠さんが真空飛び膝蹴りを繰り出したところ、観客からもっと高く飛べ!とのヤジが飛んだと言う逸話が残っています。

ウルトラマンにも勝ったことがある?

第二次怪獣ブームを受けて放映の開始した帰ってきたウルトラマンは、スポ根ブームの影響を受けていました。更に本番組は、キックの鬼の後番組でもあり、人気絶頂だった沢村忠さんもゲスト出演しています。

出演は、第27話「この一発で地獄に行け!」であり本人役での出演でした。劇中では、主人公でありウルトラマンの郷秀樹と一戦交え、華麗なキックで郷に勝利しており、劇中でも抜群の存在感を放っていました。

キックボクシング界を背負い続けた沢村忠

どんなブームでも終わりが来てしまうのはこの世の常であり、キックボクシングブームもその例外ではありませんでした。

格闘家としてのピークは27歳までと考えていましたが、その時ジムには600人もの選手が所属し、沢村忠さん無しでは成り立たない状況だったそうです。

それ故に引退を口にする事は出来ず、キックボクシング界は沢村忠さんにいわゆるおんぶにだっこ状態でした。

「足の腫れがひかないこともあると炊いた飯をタオルにくるんで足を温めることで無理矢理治していた」(沢村忠)

(引用 ミドルエッジ)

肉体的にも衰えを感じ、網膜剥離の症状が現れ、脳波も明確な乱れが見える等過酷なスケジュールの影響は着実に体を蝕んでおり、選手を続けていい状態ではなかったそうです。そして、1976年7月2日の試合後失踪。

表向きは治療の為の休養とされましたが、様々な噂が世間では飛び交いました。そして、1年3ヶ月後、野口修さんの前に再び姿を現します。その後引退式が行われ、ONを凌ぐ人気者は表舞台から姿を消しました。

沢村忠さん引退後、残った選手はキックボクシングの灯を消さないよう尽力しますが、力及ばずキックボクシングブームは終焉を迎えます。キックボクシングブームは、沢村忠さんに始まり、沢村忠さんに終わったのです。

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