えた・ひにん(穢多・非人)とは?特徴や有名人、現在の生活 エンタメ

えた・ひにん(穢多・非人)とは?特徴や有名人、現在の生活

穢多非人(えたひにん)という言葉をご存知でしょうか?これは歴史的に差別されてきた一部の人々を指し、現在でも部落差別の原因として根強い問題を残しています。ここではその差別について詳しく説明するとともに、その特徴や苗字、該当する有名人などについてもまとめます。

目次

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穢多非人(えたひにん)とは?

穢多非人(えたひにん)とは、古くから日本にあった被差別階層が、江戸時代に身分として確立されたものを指します。明治時代に賎民階層として扱う制度は廃止されましたが、現在でも差別問題が残っています。

まずは、穢多非人(えたひにん)についての基本知識、現在にも残る部落差別問題との関係、明治時代に布告された穢多非人などの賎民身分の廃止などについて簡潔に説明します。

穢多非人(えたひにん)は身分制度の名称

穢多非人(えたひにん)は四民「士農工商」の「士」が「農工商」の支配階級として明確に分離された江戸期の身分制度の中で、平民とされた「農工商」のさらに下に位置するとされる賎民身分の呼称です。

部落差別・部落の概念でもある

歴史的に存在した穢多や非人が集まり住む集落を、後の行政が福祉制度上の呼称として「被差別部落」を使用した事などから、現代まで「部落」という言葉は差別的な意味合いで使われる例が増えてしまいました。

部落とは本来、小規模な民家の集合体、村、集落という意味を持つ単語であり、現在でも山間部の村では地域の名称として部落という言葉が使用されている例が多く、差別意識につながるという懸念があります。

明治4年の「身分解放令」で身分制度は廃止された

穢多非人という賎民身分は明治4年(1871年)に出された、太政官布告「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」によって廃止されました。この布告には正式名称がありませんが「身分解放令」等と呼びます。

しかし、この布告は当時の民衆から強い反対を受けました。長い歴史の中で培われた差別意識が簡単に変わるものではなく、絶対的に自分達より下と認識していた存在と同等とされる事に不満が生まれたのです。

驚くべき事に、この根強い差別意識は数百年が経った現在までも一部地域で依然として残っており、元被差別地域に対しての様々な差別問題を生んでいます。

えたひにんの当時の生活について

それでは「えたひにん」がいかにして差別の対象となったのか歴史的な背景を見て行きましょう。ここではまず、当時のえたひにんの生活や仕事(生業)について説明して行きます。

制約により沼地や山奥に住んでいた

歴史的に穢多と呼ばれた人々はその職業の性格などから穢れた存在とされました。その為、穢れの伝染を防ぐために、本来の生活圏からは離された、沼地や山奥に追いやられ生活していました。

江戸時代における非人は穢多と違い生活圏ごと離される事はなく、非人頭の管理の下、都市内の特定地域に生活圏を持ちました。ただし様々な制約を受け、住居は掘っ建て小屋であり屋根を張る事は禁止されていました。

生活は制限され祭事も厳禁とされていた

えたひにん階級は、様々な差別的制約を受けていました。穢多も非人も穢れた存在として認識されていたため、祭りや神事などの神聖な催し事への参加は厳禁とされていました。

これは「祭事厳禁」の慣習とされ、神事や祭りだけ出なく、婚儀や葬儀など祝い事や悲しみ事への参加へも禁止とされていました。また、死亡して埋葬される際に墓石は地中から出てはならないという決まりがありました。

穢多(えた)の仕事

穢多は歴史的に動物を狩猟し、その肉や皮や骨などを加工する事を生業とするものが多く存在してきました。江戸時代ではこれが制度化され、死んだ牛馬を引き取り、肉を食料とし、その皮で皮革産業を営みました。

これらの皮革の仕事は穢多にとっては、ある種の独占権益でありかなりの利益を得ていた様です。また役人の下で処刑の執行などを担う者もおり、差別対象とされながらも生活は保障されていました。

非人(ひにん)の仕事

非人は、人々がやりたがらない汚れ仕事を請け負う事が生業となっていました。町や村などの共同体を維持するために乞食やよそ者を排除する番人の役割や、汚物処理などの仕事があてがわれました。

また勧進権(布施を集める権利)が与えられており、グループごとに勧進場所を持ち、そこで浄財として寄付を募りました。これはいわゆる物乞いですが、江戸期の仏教思想の中では、重要な役割として成立していました。

えたひにんの身分制度と歴史について

穢多や非人という存在が「えたひにん」として一括りに身分制度に組み込まれたのは江戸期のことでした。ここではその概要や、何故その身分制度が確立されたのか、穢多や非人の違いとは何かについて解説します。

士・農工商・穢多非人という身分制度は江戸時代に確立された

あくまでも一説としてはですが、士・農工商・穢多非人という身分制度がはっきりと制定されたのは江戸時代だと言われています。そもそも身分が制度として確立したのもこの頃でした。

戦国中期までは武士と農民の境目は曖昧であり、農民が武士として仕官したり、武士を辞めて自由に帰農したりできたとされます。戦国後期から農民と武士の区分けが始まりました。

そして江戸期に入ると「農工商」の平民とされる人々は武士になる事は出来なくなり、同時に「穢多非人」という賎民階級も明確に分けられ、心理的差別だけでなくシステム的にも平民と分離させられていきました。

何故えたひにんという身分と制度が作られたのか

元々「えたひにん」と言われた人々は古くから存在し、差別の対象とされてきましたが、それが江戸期に明確化されます。では「えたひにん」という身分が当時明確に作られた理由とはなんだったのでしょうか?

一時期の学校教育では、武士になれなくなった平民層の不満のはけ口として「えたひにん」階級が作られたとされてきました。しかし最新の研究ではそうではなかったとの説が有力となってきています。

あくまでも士農工商・穢多非人とは職業の区別であって、差別はあったにしても明確な階級制度ではなかったとされます。単に穢多は穢れた存在、非人は人ならざるものとして忌み嫌われていただけだとされます。

穢多(えた)と非人(ひにん)の身分と違い

「士農工商」の平民層の下に「穢多非人」の身分があるとの認識が明確化された目的は、どちらかと言えば全体の社会の秩序を維持するためという理由が強かったと考えられます。

そもそも、「穢多」と「非人」は明確に別の存在との認識を持たれていました。そのためその違いを説明するには、身分の違いというよりは存在がそもそも違う事の方が重要なのです。

穢多も非人も同じく危険な存在という認識でしたが、危険の種類が違うので扱い方も違ったわけです。穢多は穢れが伝染する危険を持つので距離を置かれ、非人は野放しにすると危険だから管理するという扱いでした。

非人には二種類の意味がある

非人は管理される存在であったと言いましたが、その観点から2種類に分けることができました。非人の区分け「野非人」と「抱非人」について説明します。

野非人(のひにん)

野非人とは、例えば経済的に困窮して村から逃げ出した者や犯罪を犯して逃げ野に下った者、路上生活者となった物などを指します。そのため飢饉などが発生すると数が増えたとされます。

これらの人々は取締りの対象であり、見つかり次第元の場所へと戻される事となっていました。そして3回野非人として捕まると死罪にされたとされています。危険なので野放しに出来ないという考え方でした。

抱非人(かかえひにん)

一方で親方「非人小屋頭」に抱えられる非人を「抱非人」と呼びます。非人小屋という掘っ建て小屋に定住させられ管理されていました。

この人々には非人手下(ひにんてか)という刑罰によって平民から非人に落とされた者達と代々非人の家系の者などが当たります。そもそも元に戻す場所がないために一箇所に集めて管理される存在でした。

えたひにんとはどういう人たち?差別された理由

えたひにんとはどういう人々だったのか?そして何故歴史的に差別されてきたのかについてもさらに詳しく説明しておきたいと思います。

忌み嫌われる存在だった?穢多(えた)について

穢多とは「穢れの多い存在」を指します。穢多の人々は代々生き物を屠殺、あるいは死んだ動物を貰い受け、肉を喰らいその皮をなめして商売にして生活してきました。

また、穢多の人々には、墓掘り人、葬儀を請け負う人、処刑を執行する処刑人、危険な野犬を屠殺する役割の人なども当てはまります。わかりやすく言えば「死」に深く関与する人々を穢多というわけです。

仏教や神道の影響で、肉食や生き物の血を穢れと見なす考え方が根付いていた為、それを生業とする穢多は穢れた存在であるとの認識を持たれていました。穢れは伝染するともされたため、距離を置かれ差別されたのです。

幕府が作った階級非人(ひにん)について

非人とは、「人非(あら)ざる者」です。大まかに分けて戸籍を持たない者と人の道を外れた犯罪を犯した者(犯しそうな者)がこれに当てはまりました。ただ単に危険人物として差別されていたわけです。

つまり非人とは、犯罪を犯して非人に落とされる「非人手下」の刑罰を受けた者、もしくは、どこにも在所を持たない浮浪民達を幕府が管理するために作られた存在なのです。

このどこにも在所を持たないものとは、歴史的には「河原者」「道々之者」などと呼ばれ諸国を巡り芸能活動を行う集団も当てはまりました。彼らを管理する事も幕府政権を維持するために必要だと考えたのでしょう。

えたひにんはどのように選ばれたのか?

えたひにんは幕府にとって管理しておくべき存在であったので、明確な判断基準が必要でした。ここでは、当時の穢多と非人がどのような判断基準で選ばれていたのかを解説します。

非人(ひにん)の判断基準

非人とは「代々定住せず流浪してきた者」「人の道を外れ、元の場所へ置いておけない者」です。江戸期は人々の戸籍が村や町単位で管理されていました。

その戸籍管理から外れたものを、改めて管理するために作られたのが非人階級なので、つまりは現在でいうところの路上生活者という事になります。判断基準としては「在所を持たない者」というわけです。

穢多(えた)の判断基準

穢多という存在は、非人よりもかなり固定的で明確です。穢多は文字通り「穢れの多い者」を表します。穢れが多い、すなわち生き物を殺す事で生計を立てている者達を指しています。

非人が幕府の都合で作られた存在であるのに対して、穢多はもっと根深い人々の畏れから区別された存在です。そのため穢多は何かの基準で判断するというよりも、もっと歴史的に明確に固定された存在でした。

代々歴史的に、彼らは穢れを生む仕事をこなしている、周囲の人々からそう認識され畏れられている。そんな存在が穢多です。あえて判断基準をあげるなら「死の穢れを持つ人々」という事になります。

えたひにんの現在の生活や現在の苗字は?

江戸期に明確化され、明治期に廃止された「えたひにん」の身分の概念でしたが、実は現在までも差別は残り続けているとされています。

現在における「えたひにん」の受けているとされる差別やその生活、また、かつて穢多や非人としての扱いを受けたという家系が現在名乗っているとされる苗字についてもまとめます。

身分制度はなくとも現在もなお不当な差別は残っている

えたひにんという身分制度は明治時代の太政官布告によって廃止されました。しかし、その後も不当な差別は残り続けました。例えば穢多の住む集落にはインフラが整備されない、田畑が貸与されないといった事でした。

それらは、現在までの差別を無くす運動によって徐々に改善されていきますが、いまだに一部の人々の間で心理的な差別が残っているとされています。

被差別部落出身者というだけで結婚させなかった親もいる

現在の例で多いのは、子供の婚約者の素性を調査してみたら被差別部落出身だという事が発覚した為、縁談を破談にしてしまったというものです。

また、近年では無くなったとされますが、ほんの十数年前までは就職活動のとき、被差別部落出身だと採用されないという事例も多く見られたのだそうです。

穢多(えた)の現代の苗字は?

穢多と呼ばれていた人々が現在名乗っている苗字は「川」や「河」がつくものが多いとされます。これは歴史的に穢多の人々が動物の皮を扱う仕事をしてきた為だとされます。

当時は「皮」や「革」など職業を表す苗字を名乗っていた者が差別を避けるためにそれに「川」や「河」の字を当てたとする説です。これは本当かどうかはわかりませんが、苗字を基準に差別された例も実際にある様です。

非人(ひにん)の現代の苗字は?

非人に関しては、多い苗字などの傾向は特にない様です。これは非人の方が穢多に対してよりも差別の根が浅い事も関係するかも知れません。

非人は世代を超えて差別される例はあまり見られませんが、穢多は世代を超えて代々穢れを持つ存在として忌まれてきたために苗字などに対して差別が生まれたのでしょう。

被差別地域・部落出身の有名人・芸能人一覧

えたひにんの集落であったとされる被差別地域・被差別部落出身だとされる有名人、芸能人も多く噂となっています。ここでは一覧にして順番に紹介します。

野中広務

2018年に逝去された、官房長官にまで上り詰めた有力政治家野中広務氏は自身が部落出身者である事を公表されていました。部落問題に限らず差別に対して強い意識を持った政治家として大きな実績を残されました。

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