宅間守の生い立ち、獄中結婚の妻について【附属池田小事件】 社会

宅間守の生い立ち、獄中結婚の妻について【附属池田小事件】

今回は通称「附属池田小事件」の犯人である、宅間守についてまとめました。犯行に至った動機や、生い立ち、家庭環境、裁判所での問題になった発言の数々。さらに獄中結婚した妻のことなど宅間守に関する様々なことを詳しくまとめました。

目次

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宅間守元死刑囚は附属池田小事件の犯人

附属池田小事件の犯人である宅間守は小学校に侵入し、計8名の児童を殺害しました。当時テレビなどで大々的に報道され、後に学校の方針を変えるきっかけになるなど、社会的にも大きな影響を与えました。

まずは宅間守の生い立ちについてまとめました。

宅間守元死刑囚の生い立ち

  • 本名:宅間守(後に、獄中結婚して姓を吉岡に改名)
  • 生年月日:1963年11月23日(ちなみにケネディ大統領が暗殺された日でもあります)
  • 身長:182cm
  • 体重:75kg
  • 出身:兵庫県伊丹市
  • 学歴:兵庫県立尼崎工業高校中退(松本人志さんと同級生であったとの噂もあります)
  • 職業:無職(事件当時)
  • 前科:11犯(13犯と言う説もあります)

宅間守は1963年11月23日兵庫県伊丹市で武士の家系である宅間家の次男として生まれました。守を妊娠した母親は何かを感じたのか「あかんわ絶対、これ堕ろしたいねん」と夫に不安な気持ちを吐露したそうです。

宅間守の生い立ちは決して恵まれたものではありませんでした。

家庭環境

両親が共働きのため幼稚園入学まで父方の祖父母宅にて育てられました。祖母は母親代わりとなり、宅間守に愛情を持って接しました。また、本人もそんな祖母によく懐いていたそうです。

また、宅間守は警察の取り調べの際に、今までの人生で悲しかった事として祖母の死をあげています。それ程おばあちゃん子だった宅間守ですが4歳の時に実家に戻ります。そこでの環境は決して良いものとは言えません。

暴力的な父親に、育児放棄をする母親。そんな環境で育った宅間守は今まで以上に奇行が目立つようになります。そしてそんな両親を強く憎んでいたそうです。殺人犯の多くは生い立ちに問題があるとされています。

父親について

小学校で学歴を終え、旋盤工として働き宅間家の大黒柱として家族を養ってきました。結婚後はタクシー運転手となり昭和62年に定年退職。その後は年金生活を送っていました。

先祖が薩摩藩の武士でその事を生涯誇りにしていたそうです。幼少期には父親と木刀で打ち合い、「宅間家の男子は真の侍たれ」と厳しく教育されました。宅間の家系には法律や警察関係の職につく人が多かったそうです。

また、「誰にも迷惑をかけないと言うのは私の中の大きなテーマでありました」と語っており、自分の人生に強い誇りとプライドを持っていました。

しかし、気分屋で怒りを爆発させることもあり、日常的に家族に暴力を振るっていたと言います。宅間守はそんな父親を強く憎んでおり、父親の性格を短気で自己中心的と評しています。

事件後は世間からのバッシングなどが原因で酒乱となり入院する事になりますが、宅間守は「宮﨑勤の父親のように自殺して欲しかった」と獄中で発言しています。

また、事件後自宅に訪れた報道陣に対して以下のように発言しています。

「息子が事件を起こす前兆はありました。20歳のころに(精神)病院の屋上から飛び降りて死にかけたんです。あの時死んどってくれたら今回の事件は起こってへん。ワシは当時、家内と話しとったんや。このまま死んどってくれた方が苦労せんとになって。そのまま命を永(なが)らえたから、今日の結果になってしもうたんや。ワシの悪い予感が当たってしもうた。」

(引用:ラウンジピュア)

母親について

宅間守の母親は家事・育児が苦手で、家事のほとんどは父親が行なっており一種のネグレクト状態であったと指摘されています。しかし長い間働いてはいました。

また、宅間守が中学校を受験する際に「お前なんか生まれてこなければよかった」と強く罵られたと、事件後宅間守のマンションから押収されたノートに書かれていました。

宅間守が20歳の時、家族を残してアパートで約半年間2人暮らしを始めます。この件について、宅間守の父親に取材したジャーナリストは「人間の禁忌」と近親相姦を匂わせる記述をしています。

そして、宅間守が25歳で強姦事件の逮捕から出所すると同時期に精神状態がおかしくなります。何もせずごろんと横になり、たまに座ってもじっと動かず、何もない宙を眺めるだけ。精神病になります。

その後、約10年間宅間守の父親が母親の面倒を見ますが後に精神病院に入院させられ、以降は精神病院で過ごす事になります。宅間守は母親のことを「大人になりきれない人間で、感覚で生きている」と評しています。

兄について

宅間守には7歳年の離れた兄がいました。昔から問題ばかり起こしていた宅間守の身元引受人などをしていましたが、宅間守は兄について、「年が離れていたので関わりが薄い」と発言しています。

兄も職を転々としていましたが、サラリーマンの時「外車に乗っているのが気に入らない」と言う理由で宅間守に車を角材で壊されています。

そんな兄ですが45歳の時に離婚。その1ヶ月後、頚動脈を切り自殺。事業の失敗や経済的困窮が原因じゃないかと後に父親が推測を語っています。

反社会的な性格

宅間守の異常性は幼少期の頃からすでに現れており、問題行動を度々起こしていました。3歳の時には三輪車で国道の中央を走り、車が渋滞するのを見て楽しんでいたそうです。

小学校に入ると宅間守はイジメられるようになりますが、自分よりも弱いと判断した人間に対しては徹底的にイジメるなど、いじめられっ子であると同時にいじめっ子でもありました。

当時のあだ名は悪ガキを意味する「ゴン太」でした。また、小学生低学年の頃には弱っていた猫を新聞紙に包んで火をつけ、殺害しています。シリアルキラーの99%が人間を殺害する前に動物を殺害する傾向にあります。

地元で有名な中学校の受験を希望しましたが、宅間守の成績ではとても無理ということで受験させてもらえませんでした。この事で「自分を頭の良い人間に産んでくれなかった親が悪い」と親をさらに恨むようになります。

中学生時代

中学生になるとイジメはさらに過激になっていきました。自分より弱い人間を奴隷と呼び、自分の事を宅間さまと呼ばせ、暴行を加えました。この頃から家庭内でも暴行を働くようになります。

燃やしたドラム缶に猫を放り込む。猫を布団で包んで川に流すなどでして楽しんでいました。さらに好きな女生徒の弁当に唾液や精液をかけるなど異常な行動を繰り返します。

また、小学生の頃から自衛隊に強い憧れを抱いており、「将来は自衛隊に入るぞー」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌うなどしていました。

高校を中退し自衛隊に入隊するも除隊処分

中学卒業後は地元の工業高校に入学。この時同級生に「俺は自衛隊に入るからお前らとは後少しの付き合いや」と話していました。ちなみに松本人志さんと同級生との噂もあります。この件は後で詳しく触れます。

高校2年生の時に教師を殴り退学となります。その後、定時制の高校に編入するも、通学することなく自然除籍となりました。18歳でパイロットを目指し幼少期からの憧れであった、航空自衛隊に入隊。

念願の自衛隊に入隊となりましたが、家出少女を下宿に泊め性行をした事がバレて、問題となりわずか1年強で除隊となりました。(表向きは本人の意思での退職となっています)

定職につかず強姦・傷害事件を繰り返す

見かねた父が資金を出し運送業を始めます。しかしわずか1ヶ月後にとん挫。その後、不動産会社に就職しますが、マンション管理会社の業務中に集金を口実に女性宅に上がり込み女性の顔を殴打。強姦し、逮捕されます。

20歳の時、交通事故を起こしますが対向車のライトが眩しかったと言いがかりをつけ相手の車を破壊。運転手をキリを持って追いかけ回しました。その後、高速道路を逆走するなど奇行を繰り返します。

その後母親と一緒に精神科を受診。入院となります。後に刑罰を逃れるための詐病であったと語っています。入院が思っていたよりも長いと知り、退院したくて病院の屋上から飛び降り重傷を負います。

その後精神病が詐病と見破られ前述の強姦事件で実刑3年を受けます。1989年出所。度重なる犯罪や暴力行為によって母親が精神に異常をきたします。(宅間守は実母と肉体関係があったと一部言われています。)

その後、バスの運転手やごみ収集、小学校の用務員等、務めますが、いずれも暴力行為やトラブルを起こし長続きせず、10社以上の職歴がある中で1年以上続いたのは航空自衛隊と非常勤の地方公務員の2箇所のみです。

2000年末頃から附属池田小事件を起こすまで無職でした。また、初犯の強姦を除き全て精神障害(詐病)を理由に13犯に渡る前科や不起訴処分を経験しています。(15犯と言う説もあります)

何度も結婚と離婚を繰り返す

宅間守は附属池田小事件を起こすまでに4度の結婚と離婚を繰り返しています。

1度目の結婚は26歳の時、看護婦の女性と肉体関係を持ちたいと考え、看護婦試験合格者の名簿を入手。片っ端からアタックして19歳年上の女性と、自らの身分を医師と偽って結婚。当時45歳のA子を妻に迎えます。

結婚4日目で医師詐称がバレます。A子から婚姻取消を申し立てられ、結婚からわずか12日目で離婚。

離婚からわずか4ヶ月で2度目の結婚。相手は小学校時代の教師で、SF作家小松左京の妹でもあるB子(20歳年上)。結婚から4年後テレクラで知り合った女性を強姦。この事件がきっかけで離婚。

33歳の時に婚活パーティーで知り合ったC子に「この世で一緒になれないならあの世で一緒になる」と脅し強引に3度目の結婚。妻に迎えます。結婚後すぐに妊娠しましたが暴力行為で妻は子供を中絶しています。

35歳の時に、度重なる暴力に耐えかねたC子が宅間守に200万円を支払う事で離婚成立。しかしその後C子に復縁を迫り、暴行を加え逮捕されます。

離婚から4ヶ月後、3歳年下のD子を孕ませて4度目の結婚。しかし、この結婚も長続きせず、5ヶ月後に離婚しています。

宅間守元死刑囚の起こした附属池田小事件の概要

2001年6月8日。ついに附属池田小事件を起こします。午前8時起床。最後にアパートの賃貸人に復讐しようと布団に火のついたタバコを置き午前9時30分過ぎに家を出ます。(火は自然に消えました)

午前10時頃犯行に使う為刃物店で出刃包丁を購入。その後カーナビに付随池田小を打ち込み、向かいます。午前10時10分到着。通用門に車を停める。小学校では二限目の授業が終わった頃でした。

宅間守は歩いて校庭を横切ります。途中教師に姿を見られますが、教師が父兄と勘違いして会釈しています。宅間守がカッターシャツにスラックスという格好をしていたため、勘違いしたのと思われます。

附属池田小事件・二年東組での犯行

宅間守はそのまま校舎に侵入。一番近くにあった二年東組の扉を開けました。子供たちが一斉に扉の方を見ます。宅間守は「ハァハァ」と息が荒かったそうです。

突然やってきた男が、手に包丁を握っている事に気付いた先生は普通ではないことに気づき、「外に逃げろ!」と大声で叫ぶと子供たちは一斉に悲鳴を上げて逃げ始めました。

無言のまま、転んだ子供を切りつけると、次々と逃げ遅れた子供たちを無差別に刺して行きました。先生がイスを投げつけ、宅間守は教室の外へと逃げました。この教室では4人の子供が重軽傷を負います。

附属池田小事件・二年西、南組での犯行

その後、宅間守はそのまま隣の二年西組にも乱入。大量の返り血を浴び、包丁を握っている男。西組にいた女性教師はすぐに異常に気づき、大声で子供達に逃げるよう指示を出しました。

教室内はパニック状態となり、悲鳴を上げて逃げまどう子供たち。宅間守は近くにいる子供達を無差別に襲って行きました。この教室では8人の子供が襲われて、3名が死亡しました。

そして更に隣の二年南組にも乱入。この教室には先生がおらず宅間守は同じように子供を襲います。この教室での被害者が一番多く5名の生徒が死亡しました。逃げる子供達を追いかけ、手当たり次第に刺して行きました。

やってきた教師が二人がかりで宅間守に掴みかかりましたが、1人は刺されて重傷を負います。教師を振りきり更に隣の教室へと向かいましたが、二つ続けて教室は無人でした。その向こうの一年南組へと向かいます。

ついに宅間守逮捕

異変に気付いた先生がかけつけてきて、宅間守に掴みかかりました。背中や顔を切られながらも懸命に立ち向い、二人がかりで包丁を取り上げ、足を抑えつけて、ついに宅間守を取り押さえました。

捕まった宅間守は「しんどい、しんどい」と、2度つぶやきました。この凶行で教師らが唯一耳にした宅間守の言葉でした。学校からの通報で駆けつけてきた警察官に引き渡され、この凶行はようやく終わりを迎えました。

わずか10分あまりの出来事でした。死者8名、重軽傷者15名(内教師2名)合計で23名の死傷者が出る大惨事となりました。

宅間守元死刑囚の逮捕後の言動・発言

裁判所などでの、宅間守の全く反省の様子のない態度や発言の数々、また、被害者遺族に対する暴言などは世間から大きなバッシングを受けました。そんな多くの批判を受けた宅間守の発言を紹介して行きたいと思います。

裁判所での言動・発言

初公判でのみ「命を以って償います」と反省の言葉を口にしましたが、その後は反省や謝罪の言葉を述べる事は一度もなく、悪態をついて開始1分で退廷を命じられたこともありました。以下発言をまとめました。

「おう、座っちゃあかんか?」「反省や申し訳ない気持ちはない。自分への後悔だけ」「100人でも1000人でも同じだった。関係のない子供より三番目の妻を殺した方が満足だったかも知れない」

「子供がかわいそうとは思わない。同じやるんなら恵まれた子を、と」「エリートの卵たちを殺して国家に殺されるんや。これで良かったんとちゃうか」

「(この事件を)起こした後も全然満足していない」

「幼稚園ならもっと殺せたと、今でもこんなことばかり考えてしまう。いずれにしても死ぬことはビビッてません」

「(三番目の妻に対して)あの時、顔をズタズタにしてやればよかった。冷静になればなるほど何でせえへんかったんやろと、悔しくてたまらない」「女は絶対に殺すより顔を切る方がダメージが大きい」

「謝罪の気持ちなんかあらへん。求刑死刑、判決死刑でええんちゃうか」「償うとか、関係ない。現実的に極刑しかないと思ったからそう言っただけ。謝罪する気持ちもない」

「立場を置き換えて、自分だったら(被害者だったとしても)謝罪されても何とも思わない」「(質問した検察官に向かって)ワシをなめとる。30秒あれば一人くらい殺せる。かかってこい!」

「おい、ワシに最後にひとこと言わせろや!どうせ死刑になるねんから、そんぐらい認めてもええやろ!こらっ(被害者遺族の名前を呼んで)お前、子供と血つながってないやないか!おい、こら何とか言えや」

「おまえらのガキの8人分の命はワシ一人を殺して終わりの 程度の価値やったんやぞ! エエ学校に行かせて偉そうにしとったから死んだんや!ガキどもが死んだ原因はおまえらにあるんやぞーー!、せいぜい一生反省せいよ!、 あの世でもおまえらの子供、追いかけ回して、しばき倒したるから な! あははははは!あははは!、こらおもろい、!こら、傑作や」

(引用:宅間守まとめwiki)

このような発言を繰り返す宅間守に対して、傍聴席からは「はやくしね」「一人でしね」など怒号が飛びました。

早期の死刑執行を望んで控訴取り下げ

2003年8月28日死刑判決が言い渡されました。宅間守は開廷時に騒いだことで退廷命令を受け、連れ出されており死刑判決を読み上げる裁判長の声を自ら聞くことはありませんでした。

また、この判決公判では傍聴希望者が多かったので、特別措置として法廷にテレビカメラを設置して、別室に設けたテレビモニターで傍聴することができました。

死刑判決を不服とし弁護人が控訴しましたが、その後宅間守自ら控訴を取り下げ死刑判決を確定させました。宅間守は死刑確定後6ヶ月以内の早期死刑執行を強く望んでいました。弁護人に送った文書の引用

「死刑は殺される刑罰や。6ヶ月過ぎていつまでもいつまでも嫌がらせをされる刑罰ではない。すぐ殺せば(精神的)ダメージがないので、しばらく嫌がらせをしてから執行する。そんな条文があるんか。法律家ならわしの身になれや。法律を遵守するのが法律家の仕事やろが」

(引用:ラウンジピュア)

死刑判決確定後に獄中結婚

附属池田小事件で死刑判決が出た後に、死刑廃止運動家の女性と出会います。文通を繰り返し、少しづつ心を開いていき獄中結婚しています。結婚後、宅間守は自分の姓を女性の姓に改名し、吉岡守となりました。

死刑執行と最後の言葉

死刑確定から約1年後の2004年9月14日午前8時16分大阪拘置所にて死刑が執行されました。宅間守が当初望んだ6ヶ月以内での執行とはなりませんでしたが、それでも異例な速さでの死刑執行となりました。

宅間守は死刑執行直前に刑務官から受け取ったタバコとりんごジュースをゆっくりと味わい、拘置所の奥へと消えていきました。40歳没。

宅間守が最後に残し、死刑執行後に妻が刑務官から伝えられた言葉は「『ありがとうと、僕が言っていた』と、妻に伝えてください」であったそうです。

宅間守の犯行の動機について

度重なる逮捕に、仕事も長続きせず悪者扱い、更には多額の借金に家賃滞納、逃げていった妻たち、過酷な生い立ちで中学の頃から続く鬱病、いくつもの苦悩が毎日頭をよぎり、社会に対する復讐を考えるようになります。

「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分・10分で殺される不条理さを、世の中に分からせたかった」「世の中、勉強だけちゃうぞ、と一撃を与えたかった」

(引用:ラウンジピュア)

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