【附属池田小事件】逃げた教師と生き残りの現在と宅間守 エンタメ

【附属池田小事件】逃げた教師と生き残りの現在と宅間守

2001年6月8日、大阪府池田市の小学校で附属池田小事件は起こりました。小学生たちを無差別に殺傷した犯人の宅間守はなぜ事件を起こしたのか、生き残った教師ら岩崎真季さんたちのその後の様子など、事件の概要とともにまとめていきます。

目次

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宅間守が起こした附属池田小事件の概要

宅間守元死刑囚が起こした附属池田小事件を辿っていきます。被害者となった児童や教師、生き残りの1人である岩崎真季さんなど、この事件はどのようなものだったのでしょうか。

2001年に起きた小学校無差別殺傷事件

事件が起きたのは大阪府池田市にある、大阪教育大学附属池田小学校でした。犯人の宅間守元死刑囚は、小学校に押し入り無差別に生徒と教師を襲いました。それはたった10分間の出来事だったと言います。

この事件で児童と教師が被害に

この無差別殺傷事件では、児童と生徒を含め合計で23人が被害にあいました。そのうち亡くなったのは8人の子供たちでした。

宅間守の単独犯だった

宅間守は教師に取り押さえられ、駆けつけた警察により現行犯逮捕されました。その時犯人は宅間守のみで、単独犯による犯行だったのです。

生き残った人たち・逃げた教師(岩崎真季)のその後・現在について

附属池田小事件で生き残った教師岩崎真季さん達のその後についてお届けしていきます。心身ともに受けた傷とどのように向き合っているのでしょうか。

逃げた教師と批判された岩崎真季

附属池田小事件では、逃げた教師として批判を受けた人がいました。まさに宅間守が侵入してきた2年生西組の教師、岩崎真季で彼女は当時28歳でした。

岩崎真季さんは宅間守が侵入してきた時、警察へ通報するために子供たちを残し教室を出たのだそうです。その時どのような形で教室を出たのかはわかっていませんが、西組では8人の生徒が殺傷されています。

このことで通報は言い訳で実際は逃げたのではと言われているのです。岩崎真季さんが警察へ通報したのは事件が発生して7分たった頃だったそうで、通報するにも時間がかかりすぎなのでは?と憶測が飛んだそうです。

事件から半年後に語った胸中

岩崎真希さんは、事件が起きた半年後に自身の胸中を明かしました。「本当に申し訳なくて、悔やんでも悔やみきれません」と語りました。

さらに「教師なのに子供達を守ってあげられず、子供達・遺族・保護者の方には本当に申し訳ないことをしました。なんとお詫びすればよいか、言葉が見つかりません。」とも語っていたそうです。

実際に逃げたのかどうかはわかりませんが、岩崎真季さんは自分の行動について被害者と保護者に向けて謝罪の言葉を発しました。

トイレに逃げて生き残った生徒

「トイレから出るな!個室に入って鍵をかけて閉じこもってろ!!」そんな先生の声が聞こえたそうです。男が侵入してきた時、ある生徒はトイレを出るところでした。

その生徒は何が何だか分からなかったそうですが、先生のその声に従いトイレに閉じこもりました。しばらくすると怒鳴り声や悲鳴が聞こえてきて3時間目が始まるチャイムが鳴る頃にもそのその状態が続いたそうです。

そしてそのまま3時間目の終了のチャイムが鳴るまで、トイレに籠って隠れて生き残ることができたそうです。初めの教師の声に従っていなければ、おそらくこの生徒も被害に遭っていたでしょう。

心に重い闇を落とした

この事件は生徒や保護者、教師の心に思い思い闇を落とすことになりました。事件の影響で様々な症状が出てきてしまったのです。

『フラッシュバック』や『PTSD』など、奇跡的に生き残りとなってしまったことに罪悪感を持ってしまう『サバイバーズギルト』などの症状が出たそうです。

遺族は今でも苦しんでいる

この事件で子供を殺傷された遺族は、今も苦しみを抱えて生きています。なんの罪も無い我が子を殺された無念はこれからも晴れることはないでしょう。

なくなった児童の山下玲奈さんの母親・和子さんの手記にはこんなことが綴られています。『あの笑顔をもう一度見たいよ。もう一度会いたいよ。毎日寂しくて寂しくて寂しくてたまらない。』

『ただいまって笑顔で帰ってくるって思ってたのに、学校でお友達と何して遊んだのか聞きたかったのに・・もう話せないんだね。』このように幸せな日々がもう戻ってこない悲痛はいつまでも遺族を苦しめるのです。

事件が15年が経ち当時の子供たちがインタビューに答えた

附属池田小事件から15年経った2016年に被害者である生き残りの子供だった生徒たちが、ある番組にてインタビューを受けていました。実際に刃物で刺され重傷を負った当時の心境や現在の気持ちを語っています。

当時 2年東組 村田洋子さん(仮名)
「(男が教室に)入ってきたのは覚えているので、入ってきて逃げようと思ったときに、もう刺されていたっていう感じで。そのときには痛みがすごくて、ズキズキして、脈もわかるぐらい、ドクドクって感じの。担架も足りず長机に乗せられて病院に運ばれて。」

(引用:クローズアップ現代)

このように当時の様子を語っており、刺された時の様子が想像を絶するものだったということがよくわかります。さらに事件後、精神的なショックのあまり様子が変わってしまった子もいたそうです。

当時 2年東組 岩藤愛さん「両親いわく、常に、ぼーっとしていて、泣くわけでもなく、笑うわけでもなく、無感情みたいな、感情があまりないような状態だったらしく。感情に動きとか揺れとかが停止してしまっている状態だったのかなと。なぜか知らないけど体調が悪くなって、熱が出て、(追悼)式典に参加できなくって、なんで、こんなふうになるんでろうって気持ちが、いちばん大きかった。」

(引用:クローズアップ現代)

事件から生き残ったことで「命の大切さや、人生を生き抜くことに覚悟を決めた」という前向きな気持ちをおっしゃっている方もいました。

間一髪で救出された 荻野晋吾さん「生きている以上、何かに本気になって取り組んでいく。本気で生きていく義務は、すごいあるんじゃないかなと思った。そのためには仕事とか、しんどいことも含めて、前向きに捉えてやっていかないといけないと思います。」

(引用:クローズアップ現代)

全国的に防犯意識が高まるようになった

この事件をきっかけに、全国規模で防犯意識は高まるようになりました。自分の子供が、自分の生徒が、自分自身が、いつ何時被害に合うかどうかはわかりません。

『学校にいれば安全』という意識は捨てなければならないと学んだのです。学校への部外者立ち入り禁止や、防犯ブザーを所持するなど、意識は高まっていきました。

以前は解放されていた門も、朝夕以外は閉じられるようになり、開いている間は教師が近くにいて見張りの役割を果たすようになったのです。

この事件は、日本の学校がそれまでの「地域に開かれた学校」から安全対策重視の「閉ざされた学校」に方針転換するきっかけとなった。それまで小学校は、地域のコミュニティに重要な役割を果たし、校庭は子供たちの遊び場にもなっていた。

(引用:Wikipedia)

学校側の対応不足と被害者に対しての対応

1999年に京都市立日野小学校で発生した京都小学生殺害事件の後に「安全管理に関する通知」を出しているが、附属学校を設置管理する文部省および大阪教育大学では、各附属学校の安全措置の状況を把握していなかった。

(引用:Wikipedia)

以前に起きた事件をきっかけに、何か起きた時のための安全措置を文部省が出していました。しかし、事件が起きた附属池田小ではこの安全措置を把握していなかったと見られています。

学校の対応ミスが起こした被害

それにより事件がへの対応や事件直後の動きに一層の混乱を招いてしまい、被害者や保護者への対応も遅れてしまったそうです。

事件当日も不審者に対して、教官による十分な対応がされていなかったことが、被害児童の救助の遅れや犯人逮捕の遅れにつながった。

(引用:Wikipedia)

犯人を取り押さえてから警察による犯人逮捕までの間、学校側による状況把握ができず、管理職や教務主任は混乱の中で事件の全容をつかめなかったほか、組織的な対処行動(児童に対する組織的な避難誘導、救命活動、搬送処置など)ができなかったため、死亡した8名の児童は20分前後も放置されてしまった。

(引用:Wikipedia)

さらに、救急車に教員が付き添わなかったことで、誰がどこに搬送されたのか把握仕切れず、保護者への連絡が遅れました。ある死亡した生徒の保護者は、自分自身で搬送された病院を探すことになったそうです。

被害者を特別に卒業扱い、総額4億円の慰謝料

この事件の被害者であり死亡した生徒8名は、卒業し証書を授与されました。さらに杜撰な管理によって遅れた対応を鑑み、被害者遺族への慰謝料や賠償金を支給しました。

この事件で死亡した2年生7名は、2006年に同級生と共に特別に卒業証書を授与され、「小学校を卒業」という形になった。さらに、2007年にはこれと同様に、死亡した1年生1名に卒業証書が授与された。また小学校を管理する文部科学省は、被害者遺族らに総額4億円の慰謝料や賠償金を支給した。

(引用:Wikipedia)

宅間守が起こした附属池田小事件の時系列

ここでは宅間守が起こした附属池田小事件を時系列に沿って辿っていきます。たった10分間に起きた悲惨なこの事件はどのようなものだったのでしょうか?

2001年6月8日に大阪教育大学附属池田小学校に乱入

2001年6月8日10時15分ごろ、犯人の宅間守(37)が学校の通用門に車を止め、手に出刃包丁を持ち車を降りたのです。その時宅間守は、金髪姿に白シャツを来て緑のネクタイをしていたそうです。

宅間守は校庭を歩き1年生と2年生教室がある3階建て校舎へ入っていきました。その時ちょうど2時間目の授業が終わった頃でした。その時教師とすれ違いましたが、生徒の父兄だと思われていたそうです。

包丁を手に2年東組へ

出刃包丁を持って校舎に入った宅間守は、一番東端にあった2年東組の教室に押し入ります。宅間守に気づいた生徒は、はじめ給食の人かな?と思ったそうです。

しかし「ハァハァ」と息が荒い様子で包丁を持った姿に、すぐに違うと察知したそうです。その時教室にいた教師が「外に逃げろ!」と叫び子供たちは悲鳴を上げ始めます。

宅間守はまず、逃げ惑い転んだ児童を襲いました。教師は宅間守に向かって椅子を投げつけ、一度校庭側のテラスに宅間守は逃げたそうですが、それも束の間で4人の生徒が重軽傷をおったそうです。

2年西組へと移り岩崎真季教師が通報へ行く

そして次に隣の2年西組の教室に押し入りました。そこには逃げたとも言われている教師岩崎真季さん(28)がいました。児童は次々に刺されて、8人が殺傷されたと言います。8人のうち亡くなった児童は3人でした。

岩崎真季さんは、この時警察に通報しに行ったそうです。通報があったのは、事件が発生して7分がたった時でした。宅間守はその教室で8人もの殺傷をしたにも関わらず、今度はその隣の教室へ向かいます。

2年南組へ行き教師も負傷

一番被害が多かったのは、隣の教室2年南組だったそうです。すでに休み時間で教師がいなかったこの教室では5人の児童を殺害、生徒に馬乗りになって包丁を向けていたと言います。

この時2年南組の担任である男性教師は花壇に水を上げていたところでしたが、子供たちの叫び声で異変に気づいたそうです。叫び声に混じって「包丁で刺してる!」という声も聞こえたそうです。

そして男性教師は、すぐさま教室へ向かったそうです。男性教師が駆けつけた時、犯行現場では宅間守を取り押さえるため、2人の教師が掴みかかっている状態でした。

1年南組に侵入するも教師と副校長により抑えられる

2人の教師が掴みかかっていましたが、1人の教師は刺され重傷を負いました。もう1人の教師は振り切られてしまったと言います。そして宅間守はまた別の教室に向かいました。

宅間守は空室だった教室2部屋を抜かし、1年南組に侵入しました。音楽室での授業を終え教室に戻ってきていた生徒たちは廊下をみて唖然とします。

1人の男子生徒は「教室に入ると友達が倒れ『痛い、痛い』と泣いていた」と、その時の状況を話しています。さらに教師の「入っちゃダメ!逃げなさい!」という声に夢中で教室から逃げたのだそうです。

取り押さえられた宅間守

それは花壇の水やりをしていた男性教師が、1年南組まで宅間守を追いかけ取り押さえようとしていた時でした。男性教師は背中を切られながらも、宅間守の右手を抑えます。

その時に顔も切りつけられますが、副校長の男性とともに宅間守を取り押さえたのです。この時の時間は10時25分、事件が発生して約10分後のことでした。

宅間は、校長や別の教諭にその場で取り押さえられ、現行犯逮捕された。宅間は最後の一人を刺し終えた瞬間、凶器である出刃包丁を自ら落として、「あーしんど!」と呟いたという。

(引用:Wikipedia)

23名の犠牲者が出る

この事件での被害はとても大きく、多くの児童と教師が殺傷されました。死傷者合わせて23人という大きな被害が出てしまいました。

児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負った。

(引用:Wikipedia)

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