女子高生コンクリート事件の詳細!犯人のその後・現在、再犯、家族 社会

女子高生コンクリート事件の詳細!犯人のその後・現在、再犯、家族

コンクリート事件は、未成年の加害者が、被害者の女子高生を拉致監禁して暴行を加えコンクリートに詰めて遺棄するという凄惨さから現在でも注目を集めています。その後の犯人の再犯率の高さから少年法や加害者家族への批判があり今なお注目を集めるコンクリート事件をまとめます。

目次

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女子高生コンクリート詰め殺人事件について

女子高生コンクリート詰め殺人事件は、1988年11月から1989年1月の間に埼玉県と東京都で発生した一連の事件の通称で、加害者が被害者の遺体を遺棄した時の方法からコンクリート事件と呼ばれます。

被害者は事件当時17歳の女子高生だった古田順子さんでした。埼玉県内の路上で加害者の不良グループの少年達に拉致され、約40日間にわたり、加害者のひとりの自宅に監禁され暴行、強姦を受けました。

1989年1月に加害者グループからの集団リンチを受けて被害者古田順子さんが死亡、その後、加害者達は遺体をドラム缶にコンクリート詰めにして江東区の東京湾埋立地に遺棄するという凄惨な事件でした。

女子高生コンクリート詰め殺人事件の概要

コンクリート事件は複数の少年達がひとりの女子高生を暴行殺害した挙句、コンクリート詰めにして死体遺棄すると言う凄惨な事件内容から、現在でも注目され度々問題として持ち上がる事件です。

ここからは事件の時系列を追いながらコンクリート事件についての概要を詳しく紹介していきたいと思います。

犯人達が、被害者古田順子を騙して連れ出す

コンクリート事件の始まり、被害者古田順子さんを犯人の少年達が拉致したのは、1988年11月25日の夜の事でした。その時、被害者の古田順子さんはアルバイトを終えて帰宅する途中でした。

その日の20時ごろ自転車でバイト先から帰宅中の古田順子さんを見つけた犯人の少年のひとり宮野裕史は、共犯の少年湊伸治に自転車を蹴って転ばせるように指示し、湊伸治は背後からバイクで接近蹴って転倒させます。

古田順子さんは自転車ごと道路の側溝に倒れます。そこに宮野裕史は近づき「あいつはヤバイやつで俺もさっきナイフで脅された、危ないから送っていく」と騙し、近くの倉庫まで被害者を連れ出しています。

ホテルに連れ込まれ強姦される

被害者古田順子さんを倉庫の暗がりへ連れ出した宮野裕史は、俺はさっきの奴の仲間で、お前を狙っているヤクザだ、俺の言うことを聞けば命は助けてやる、セックスをさせろと脅してホテルへ連れ込みます。

21時50分頃、タクシーを使い被害者をホテルに連れ込み強姦。その後、宮野裕史はホテルからたまり場となっていた湊伸治の自宅へと電話、そこにいた別の少年小倉譲に「女を捕まえてセックスした」と話しています。

それを聞いた小倉譲は犯人宮野裕史に「女を帰さないでください」と言ったため、犯人達は合流する事とし、すでに帰宅していた湊伸治と一緒にいた少年渡邊恭史と共に待ち合わせ場所に呼び出しています。

犯人の部屋に監禁される

その後、合流した犯人達4人は、近くの公園へと移動、犯人達は相談して被害者古田さんをさらって監禁する事を決めています。翌26日の午前0時半頃に公園を出て移動中に湊伸治の自宅で監禁する事を決めています。

犯人宮野裕史は、被害者古田さんに対して「お前はヤクザに狙われているから匿ってやる」などと言い湊伸治の自宅2階の部屋へと拉致、この日から被害者が死亡するまでの約40日間もの間監禁しています。

この犯人湊伸治の部屋は、当時、家庭内暴力によって両親の立ち入れない少年達にとっての聖域となり、格好のたまり場となっていました。この部屋の広さはわずか6畳ほどでした。

少女への輪姦が繰り返される

その日から被害者古田さんは犯人達に何度も輪姦されています。11月28日の深夜に犯人4人と湊伸治の中学時代の友人など2人が加わり、代わる代わるに輪姦しています。

被害者は必死に抵抗しますが、犯人達に口や手足を押さえつけられるなどして、無理やり暴行しています。その他にもおぞましい、様々な陵辱的な行為を被害者に加えています。

その後、11月30日には被害者は犯人達に、近所の公衆電話から自宅に電話をかけさせられ「友達の家にいるから捜索願は出さないで」と母親に伝える事を強要されています。

暴力が激化

犯人達に無理やりにさせられた被害者からの電話を信じた被害者の母親は、すでに出していた捜索願を取り下げてしまっています。希望を失っていく被害者でしたが、一度犯人達の隙をみて110番を試みています。

12月初めの午後4時頃、犯人達が全員昼寝しているのをみた被害者は、1階にこっそり降り居間の電話から110番通報しています。しかしこれはすぐに犯人の一人に発見され、暴行され切らされています。

その後警察から電話がかけ直されますが、犯人が出て「何でもない。間違いです。」と答えています。この被害者の行動に激怒した犯人達の暴行はさらに激しくなっていきます。

電話の直後には激昂した、宮野、湊、小倉の犯人3人に代わる代わる被害者の顔面を多数回にわたって拳で殴りつけています。さらに宮野はその後、被害者の足にライターの火を近づけ火傷を負わせています。

それ以来、淫部への異物挿入、シンナーを無理やり吸引させる、酒を無理に飲ませる、そのまま半裸にしてベランダで放置するなど、加害者達の暴力行為は際限なくエスカレートしていきました。

また、殴られ続けた被害者の顔面が腫れ上がると犯人の一人が「でかい顔になった」と言って笑い者にし、さらには傷が化膿し異臭を放つようになると加害者達から邪魔に思われる様になっていきます。

被害者が死亡

監禁状態のまま年が明け1989年入ります。この頃には被害者は傷が腫れ上がって変形し、傷の一部は化膿して異臭を放つなどしていたために、被害者を監禁する部屋に加害者達は近づくことは少なくなっていました。

1月4日の午前6時半頃、前日夜から行っていた賭け麻雀で大敗した宮野は、その腹いせに他の犯人3人とを誘い共に被害者にリンチを加えています。このリンチは目を覆いたくなる様な凄惨なものでした。

加害者達は被害者に執拗に殴りつける回し蹴りを顔面に放つ、挙句は総重量2kg近いキックボクシング練習器具の鉄球部分を被害者の腹に向かって複数回落とすなどしています。

しかし、被害者はこの時にはすでにぐったりとして正気を失い切っており、加害者達の激しい暴行にもほとんど反応を示すことなく、されるがままにされていた様です。

監禁していた部屋はこの時の激しい暴行で被害者から飛び散った血や膿などで汚れ、異臭を放つという凄惨な状態になっています。この時に宮野はこのまま続ければ被害者が死亡するかも知れないと認識していました。

翌1月5日の昼、湊の兄がぐったりとして動かない被害者を発見、宮野に「被害者の様子がおかしい」と電話をかけています。宮野と湊、小倉が駆けつけ、布団の上で冷たくなって死亡している被害者を発見します。

被害者の遺体をコンクリートに詰めて遺棄

犯人達は被害者が死亡したことを知ると、相談して遺棄することを決め、宮野が読んでいた劇画にドラム缶に遺体とコンクリートを流し込んで海に遺棄する話を思い出し、ドラム缶の中に捨てる事にしています。

その後の裁判で、宮野は以前にセメントを扱う会社に勤めており、作り方もわかるのでこの方法を選択したと供述しています。犯人達は宮野の家の前で遺体をドラム缶に入れコンクリートを流し込みました。

最初は近くの川に遺棄する事を考えますが、小倉が「家が近いから化けて出たら怖い」と言いだし、東京湾に捨てる事になっています。宮野は以前の仕事先からトラックを借り、セメントも貰い受けています。

他にコンクリートを作るのに必要な砂や重りとして使うつもりのブロックなどを近所の建材屋から盗難、ドラム缶は付近のゴミ入れ用の物を盗み出すなどし、死体遺棄の準備をその日の内に行っています。

そして、同日20時頃、トラックに遺体の入ったドラム缶を積み、東京都江東区方面へ運んでいます。最初は海に沈めるつもりだったものの適当な場所がなく、付近の埋立地へとそのまま遺棄しています。

事件が発覚

コンクリート事件が発覚するのはこれから、数ヶ月後の3月29日になります。発覚したのは別の婦女暴行事件などで逮捕され取り調べを受けていた宮野、小倉の両名がコンクリート事件について供述しはじめます。

この時、宮野と小倉が自らの供述したのは、警官が冗談で言った一言「殺しはいかんよ」を聞いて、既にコンクリート事件のことがバレていると勘違いしたためだと言われています。

その後、警察が両名が供述した場所を捜索すると、供述通りにドラム缶が見つかり、中から判別不能な程に変わり果てた被害者の遺体が発見されたためドラム缶事件が発覚し4人が逮捕される事になります。

以上がコンクリート事件の発生から発覚までの概要となります。その後、犯人4人は全員が懲役を言い渡されてますが、少年法に守られ軽い判決となり、懲役刑は主犯宮野の20年が最長で現在既に全員が出所しています。

また、事件の凶悪性にも関わらず、少年法に守られた当時未成年の少年たちは実名報道がされなかった事にも大きな批判が集まりました。これを受けて週刊文春が実名報道に踏み切っています。

コンクリート事件の犯人達は少年法に守られ、刑罰はあまりにも軽すぎ、現在でも他の出所した犯人達の再犯の可能性も指摘されています。その後実際に、宮野や湊、小倉と3人が再犯を犯し、またもや逮捕されています。

女子高生コンクリート詰め殺人事件が起きた場所

コンクリート事件が発生した場所について細かく説明します。まず、拉致が発生した場所は埼玉県三郷市内の路上でした。被害者は同市内にあるアルバイト先のプラスチック成形工場からの、帰宅の途中でした。

その後、犯人達に拉致され監禁されていた場所は、東京都足立区綾瀬にありました。ここは住宅地の中にある普通戸建であり、40日間も人間を監禁できていたのか疑問に思う声が現在でもあるようです。

遺体がコンクリート詰めにされ遺棄された場所は東京都江東区の東京湾埋立地でした。こちらは警察が遺体を発見した場所であるため間違い無いと言えそうです。

犯人とその親について

コンクリート事件の犯人達については、事件当時未成年だった為に少年法に守られ実名報道がされませんでしたが、週刊文春が公表に踏みきった事で現在では多くの情報がわかっています。

また、加害者の自宅が犯行の現場だった事もあって、犯人の家族、特にその親についても注目されています。調べると犯人達は皆、親などの家族との間に何らかの問題を抱えていた様です。

少年A 宮野裕史

少年Aとして報道される宮野裕史は、コンクリート事件の犯人達のリーダ格であるとされ、その後の判決では最も重い懲役20年が言い渡されています。宮野は1970年4月30日生まれで事件当時18歳でした。

幼少時から妹ばかり可愛がる家族と不仲で、度々家出をしていたようです。身長は169cmと小柄でしたががっしりした体格、中学から柔道をやって実績があり、高校へも柔道の推薦で入学しています。

しかし、入学後数ヶ月で暴力事件を起こし中退、その後タイル工として働きますが暴力団員と仲良くなり、非行に走っていきます。不良少年のリーダー格となって地元で犯罪行為を繰り返していたようです。

少年B 小倉譲(現:神作譲)

コンクリート事件の犯人達のサブリーダー的立ち位置とされる少年Bこと小倉譲は1971年5月11日生まれで、宮野のひとつ年下、コンクリート事件当時は17歳でした。

身長180cmの巨漢で野太い声、体格が良く被害者にとっては恐怖の対象であったと思われます。コンクリート事件の判決では5年から10年の不定期刑が言い渡され、1998年8月に出所しています。

両親の不仲に振り回されていた

幼少時は家族の不仲から振り回されたようです。中学時代に怪我をしてスポーツで活躍する道は絶たれ、高校に入ってからも勉学に意欲を持てず除籍処分となってしまいます。

その後、定時制の高校に通いましたが、コンクリート事件当時は欠席状態が続いていたようでした。当時から宮野などと共に地元で犯罪行為を繰り返していたようです。

出所後は家族が経営する飲食店で働いた後、刑務所で習ったコンピューター技術を活かしてコンピューター会社にアルバイト勤務したそうですが、事件がばれ結局続かなかったとの事です。現在何をしているのかは不明。

少年C 湊伸治

少年C湊伸治は1972年生まれでコンクリート事件当時は16歳でした。宮野の2歳下、小倉の1歳下でした。湊の部屋は被害者の監禁場所となりました。

湊も家族との間に問題を抱えており、幼少時には兄とともに厳しい父親に怯えながら暮らしていたそうです。成績は優秀で足立区内でも屈指の名門中学を卒業、高校も難関の専門工業高校に進学しています。

しかしその後、宮野裕史と小倉譲と親しくなった事で非行の道へと走り、コンクリート事件を起こす事になってしまいます。ただし、その要因は家族にもあったとされています。

両親が筋金入りの共産党員

湊の家族も実は事件に関係しているとされています。両親は筋金入りの共産党員であり、事件発覚後に警察が家宅捜索に訪れた時は共産党系の弁護士を立てて抵抗したそうです。

また、共産党の機関紙である新聞「赤旗」に被害者を誹謗中傷する記事を掲載していたとの情報もあります。事件後に共産党はこの二人を即座に除名処分としたそうです。

その後、自宅に被害者を監禁されながら、母親の自己弁護があまりにも無責任なものだったから批判を受け、この家族が事件を生み出したのだという批判が巻き起こりました。

湊の兄について

また湊の家族には一歳年上の兄がおり、その兄は被害者の監視役をしていた様です。被害者が動かなくなったのを見つけ宮野に連絡をしたのもこの兄でした。

この兄も事件に深く関わっていますが、事件当時未成年で少年法に守られており、殺人、死体遺棄容疑で東京家裁に書類送致されますが、懲役にはならず前科も付かず、少年院に送られるのみでした。

少年D 渡邊恭史

少年Dこと渡邊恭史は、1971年生まれで小倉と同年、宮野の一つ下となります。内気な性格であり中学卒業後は定時制高校へと進学しますが、すぐに登校拒否となっています。

また渡邊も家族に問題を抱えており、小学生の時に両親が離婚しており、その後すぐに父親が死亡、事件当時は母と姉の3人家族でした。高校退学後は働いても長続きせずフラフラと生活していたそうです。

そんな時に、宮野達のグループに入り、コンクリート事件を起こしてしまう事になります。少年法に守られた軽い判決によって5年から7年の不定期刑を終えて現在すでに出所しています。

犯人に対する裁判の判決について

コンクリート事件の加害者4人に対する裁判の判決は、非常に軽いと言わざるを得ません。事件当時加害者達は未成年であり少年法に守られていました。そのために犯行の残虐性から考えて非常に軽いものとなっています。

宮野裕史に懲役20年

まず主犯とみなされた宮野裕史には懲役20年の判決が言い渡されています。これは宮野が犯行グループのリーダー的な立場であり、そのほかの暴行事件やひったくり事件にも強く関与していた事も加味されています。

ただ、これらの全ての余罪を考えると、20年とは言っても軽すぎると感じざるを得ません。少年法について考えさせられる判決だと言えます。最初検察側からの宮野への求刑は無期懲役でした。

小倉譲には5年から10年の不定期刑

小倉譲に対する判決は5年から10年の不定期刑という主犯格としては非常に軽いものでした、少年法によって守られており1999年に仮出所して改名して人生をやり直しています。

湊伸治には5年から9年の不定期刑

自宅に監禁して、暴行を加えていた湊伸治も少年法に守られ、5年から9年という非常に軽い判決を受けています。出所後に結婚して娘がおり現在家族を持っているとの噂もあります。

渡邊恭史は5年から7年の不定期刑

最初から最後まで犯行に加わった渡邊恭史も少年法に守られる形で5年から7年の不定期刑という軽すぎる刑罰が下っています。渡邊は気が弱く、刑務所でいじめにあっていたとの情報があります。

唯一、犯人を実名報道した編集長がいた

以上の様に当時未成年だった加害者少年達は少年法に守られ、あまりにも軽い刑罰に終わっています。これには世間からも批判が集まり、少年法の改正を求める動きも多く出ていました。

この動きを受けて週刊文春の編集長だった花田紀凱は1989年4月13日号にて「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」という記事を掲載、残虐な加害者に少年法は必要か?と疑問を投げかける記事を掲載。

さらに、次号の1989年4月20日号でも「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」というタイトルの記事を掲載し、少年法で守られ、匿名とされた加害者達の本名を公表しています。

4人以外にも事件に関わった犯人がいた

コンクリート事件では少年4人が逮捕されていますが、その後、実は現在これ以外にも多くの人間が事件に関わっているのでは?との説が存在します。

事件の残虐性や、市街地の民家で監禁という異常性、コンクリートやドラム缶を用意しそれを運ぶという行為を少年4人だけで行ったとは到底考えにくというのがその根拠となっています。

事件に関わったとされる人物たち

実はその後、ネット掲示板2ちゃんねるに事件に暴行する側として加わっていたとされる人物の名前が書き込まれました。具体的に被害者に何をしたのかの内容も書き込まれているので紹介していきたいと思います。

例えば石川あかね(旧姓萩尾)という女性は被害者の顔に落書き、犯行当時16歳だった岩井哲夫という男は中村高次に改名し、酒場でこの事件加わっていた事を自慢気に語っていたという証言があります。

その他にも名前を調べてみると、暴力団組織に所属している人間やキナ臭い経歴の人間がゴロゴロ出てきます。秦伸治の兄湊恒治はじめ、これだけの人間が何の罪も受けていないのなら法治国家として信じられない事です。

岩井哲夫. 星寿和. 都築洋 相田孝一. 浅野コウジ. 伊原真一 竹内邦夫. 加藤亮. 木立龍介. 石川あかね. 岩沢寛之. 米倉正義. 中村高次. 湊孝二 湊両親. 神作悦子

(引用:2ちゃんねる)

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