関光彦【市川一家4人殺人事件】の生い立ちと現在、生き残りの長女 社会

関光彦【市川一家4人殺人事件】の生い立ちと現在、生き残りの長女

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借金取りから逃れ、母弟と3人で極貧生活

父は洗い生活を繰り返す中、消費者金融だけでなく闇金融からもお金を借りるようになります。その借金が約3億円にまで膨れ上がり、暴力団の厳しい取り立てに耐えきれず母親と弟と3人で夜逃げ同然で家を出ました。

しばらくは祖父の家にいた3人ですが、父親の借金を祖父が支払う代わりに祖父から絶縁を言い渡されます。そのため再度引越しをすことになり、小学五年生で学校も転校することになったのです。

女手1人で2人の子供を育てていくのは、もちろん大変だったため小さなアパートでの極貧生活が始まったのです。やっと借金取りから逃げ酷い生い立ちも終わりかと思いきやこれで終わることはありませんでした。

転校先では貧乏が原因でいじめに逢う

転校して新しい学校に入りましたが、貧乏が原因でいじめられるようになります。ランドセルもなく風呂敷に荷物を入れて背負い、毎日同じ服をして登校するという生活が続いたそうです。

担任が電話連絡網を作るためにクラス全員の前でSから電話番号を聞いた際、Sが「電話はうちにはありません」と答えると、Sはクラスメートばかりか担任にまで大笑いされた。

(引用:Wikipedia)

極貧生活を理由に学校でこのようないじめに逢い、関元死刑囚はこの頃から母親の財布から小銭を抜き出したり、万引きや置き引きをしたりと『世の中金だ』と思うようになったそうです。

中学進学後、不良仲間と非行に走る日々

中学に進学すると体が大きくなったことで、いじめの対象にはならなくなりました。この時から「自分の腕力であれば、大抵の場合相手に通用する」と感じるようになったそうです。

関元死刑囚はこの頃少年野球に所属し、女生徒からも人気があったと言います。地元では万引き行為などをしていなかったことから、周りの人は真面目で良い少年というイメージを持っていたようです。

そんなイメージとは逆に、腕っ節を買われたことで不良と仲が良くなります。この頃からさらに非行に走るようになったと言います。

祖父との関係修復?

中学1年の冬になると母親と祖父が関係を修復し、金銭的に生活が楽になりました。しかし祖父に対し「自分が一番大変な時に見放した」というイメージが払拭されず、以前のように尊敬できなくなっていました。

シンナー中毒に家庭内暴力

関元死刑中は不良と関わるようになったことで、様々な非行に走りました。母親は不良と関わるようになった息子を責め立て、そんな母に暴力を振るうようになったです。

放課後には喧嘩用の特殊警棒を持って街をうろつき喧嘩・恐喝を繰り返すようになり、バイク盗・飲酒・喫煙など非行の度合いが一気にエスカレートした。

(引用:Wikipedia)

中学2年生になると、シンナー中毒になり女性とも性的な関係を持つようになりました。「愛のない行為」に疑問を持ち、この頃は再びキリスト教の教えを勉強するようになっていたそうです。

不登校になり1年で高校退学

関元死刑囚は、高校野球が強い学校の受験に挑戦しますが失敗に終わりました。祖父の支援を受け堀越学園の普通科に入学します。学内では無欠席で良い成績をキープしていましたが、地元での非行は相変わらずでした。

この時には折りたたみ式ナイフを持ち歩くようになり、酒やタバコを日常的に行い、家庭内での暴力は酷くなる一方だったそうです。2年生になると他校生への恐喝事件への関与が発覚し、学校から停学処分を受けます。

そのことをきっかけに学校へは行かなくなり、1年で高校中退したそうです。中退後は様々なアルバイトをしましたが、どれも続かずこの頃には薬物も乱用するようになってきたといいます。

交際相手の父親をナイフで脅迫

高校を中退しアルバイトをしていた関光彦元死刑囚でしたが、中退後にある少女と交際していました。その少女とは深夜まで共に過ごしたり、湘南の方まで海水浴に行ったりなどのデートをしていたそうです。

しかし、健全とは言えずお互い両親の財布からお金を抜き取ったりしていて、非行は変わらなかったそうです。少女の方は関元死刑囚のせいで娘が非行に走ったと言われ、別れさせられたと言います。

少女と別れさせられたことに激怒した関元死刑囚は、少女の父親をナイフで脅し軽犯罪法違反で家庭裁判所に書類送検されたのです。

少女はやがて「父親の度重なる説得」に根負けしたためかSを遠ざけるようになり、Sから呼び出されても無視するようになったため、これに激怒したSは少女の家に押し掛けて少女の家族を脅したが、これに怯えた家族は少女を東北地方の親戚の家に預けた。Sはナイフで少女の父親を脅迫して少女を連れてくるよう迫った

(引用:Wikipedia)

祖父の顔面を蹴り失明させる

高校を中退した年の11月になると、祖父のうなぎ屋の店舗で働き始めるようになります。働き始めた理由は、祖父の働きを見て仕事はそんなに面白いものなのか?と疑問を抱いたからだそうです。

しかし働き始めると真面目に働くわけではなく、売上金を持ち去ったりなどの行動をするようになります。ある時、売上金がなくなっていたことを祖父に母伝いで疑われたことがありました。

それに怒った関元死刑囚が、就寝中の祖父の顔を蹴り上げ失明させたのです。足の親指が左目に刺さったことで左目は失明、糖尿病の影響もあり右目も失明状態で両目が見えない状況になってしまったそうです。

前の車の遅さに苛立って傷害事件

その後も非行は止まらず、自分の車を運転中に傷害事件を起こします。前方をは走っている車両のスピードが遅いことでイラつきわざと車をぶつけ、乗っていた相手に対し顔を数回殴りつけるなどの暴行を働いたのです。

男性の車が赤信号に従って停車すると、Sはその車の運転席側に駆け寄って「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけ、開いていた窓から手を差し入れエンジンキーを回してエンジンを停止させた。

(引用:Wikipedia)

フィリピンパブ女性と結婚

市川一家殺人事件の前年、1991年には祖父の店を無断欠勤するようになっていました。そんな時同僚に連れて行かれたフィリピンパブでマニラ出身の女性と出会います。

その女性と恋愛関係となりデートを重ねていたところ、女性から結婚したいと要求されたそうです。はじめは断っていたそうですが「家事などしてくれるし生活が楽になるかも」と結婚を決めたそうです。

母親から「日本人かせめて白人にしろ、フィリピン人は絶対にダメだ」と反対され、その上に父親まで加わったためにSは激怒し、両親の反対を押し切って1人で女性との結婚手続きを取った。

(引用:Wikipedia)

結婚はしたものの、翌年1992年1月には相手の女性は、病気の姉を心配し様子を見に行くと言ってフィリピンに帰ったまま日本へ帰国しなかったといいます。

関元死刑囚の彼女対しての苛立ちは増えるばかりでした。このような壮絶な生い立ちと結婚相手の母国への帰国が関元死刑囚の苛立ちを増幅させ、忌まわしい事件へと繋がっていったのです。

市川一家殺人事件の生き残り長女の現在は?

ここからは市川一家殺人事件の唯一の生き残りである長女の現在を見ていきましょう。平穏な生い立ちを持つ彼女が悲惨な体験をした事件後、どのような人生を歩み始めたのでしょうか?

親戚に引き取られ美大に進学

生き残りの被害者長女は事件後両親の知人の元で、一時身を寄せました。そして事件から一年後には熊本にある母方の直に引き取られました。想像を絶するような事件現場を見た捜査員はこのように発言しています。

事件現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで殺された。『被害者のために間違いのないように起訴まで持っていこう』と全力を尽くした」と振り返った

(引用:Wikipedia)

高校卒業後は、事件より以前から夢見ていた美術系の大学へ進学しました。事件に関しは「忘れないと前に進めないから忘れた」と発言しており、自身で前に進むことに決めたようです。

結婚してヨーロッパに移住

被害者長女が大学を卒業したのは、2000年でした。そして2004年の関元死刑囚の死刑判決が確定した年に、兼ねてから交際していた男性と結婚しました。

現在は生前両親が夢見ていたヨーロッパでの生活を現実にするため、ヨーロッパへ移り住み、暮らしているそうです。

逮捕後・現在の関光彦について

事件後の関光彦元死刑囚の様子を見ていきましょう。反省の念は見られるのでしょうか?残忍な事件の現在から結末までを辿ります。特定の人物から取材を内容にも注目してみましょう。

関光彦の祖父のうなぎ屋が潰れる

市川一家札事件のその後被害者遺族だけでなく、加害者遺族の生活も当然のように変化していきました。特に祖父が経営していたうなぎやは倒産に追い込まれました。

「あの店に金を払うと、凶悪殺人犯の弁護料を払うことになるぞ」と噂になりました。うなぎの評判はよかったにも関わらず、犯罪者にわたる可能性のある金を払うものかと客足が減り潰れることとなったのです。

死刑になるとは思っていなかった関光彦

事件の2年後に死刑判決が出た際関光彦元死刑囚は、自分が死刑判決になるなど考えてもいなかったそうです。それには様々な理由がありました。

「とうとう俺も少年院入りか」と言った考えだったらしく法に守られるおかけで、死刑になるはずがないと考えていました。

さらに残忍な殺人事件として有名なコンクリート詰め殺人事件の犯人たちは同じく未成年でありながら、そこまでの罪を問われなかったこともあり「自分だって法に守られるはず」と思っていたようです。

被害者の遺骨が納骨された寺の住職との交流

関光彦元死刑囚は、被害者が納骨されたお寺の住職と事件後交流をしていました。写経を手紙として送ったり、関元死刑囚の母親に頼まれて面会もしていたそうです。

「面会した当初は犠牲者の無念を思ってアクリル板越しに被告人Sへ怒りをぶつけたくなったこともあったが、第一審で死刑判決が言い渡されて以降の被告人Sは『生と死の境に立ち、命の重みを考え始めたのかもしれない』と思うようになった」と述懐した。

(引用:Wikipedia)

その後、被告人・死刑囚Sと面会するたびに被害者の供養を頼まれて「許すかどうかはさておき『罪の大きさに苦しんでいる』ことはわかった」と願いを聞き入れた。

(引用:Wikipedia)

2005年〜2006年再審請求を行う

死刑確定から約1年後には再審請求をしていました。事件当時は心神喪失状態だったということを理由に請求をしていました。大学教授などの精神鑑定やMRI検査で責任能力が認められない、と請求したそうです。

作家の永瀬隼介氏が文通・面会し『19歳』を出版

関光彦元死刑囚を取材し、本を出版した作家がいました。1998年から3年の間に様々な関係者に取材、『19歳』というタイトルで永瀬隼介氏が書き上げたそうです。

永瀬氏は関光彦元死刑囚と文通や面会をしており、関元死刑囚の人間性や潜む闇に関しても執筆しています。本は2000年9月に出版されましたが、本を読んだ関元死刑囚からは内容に虚偽があると指摘されたそうです。

本には、関元死刑囚の生い立ちから事件について文通や面会で得た内容が書かれ、死刑判決に対しての本人の気持ちなども綴られています。

永瀬隼介氏が感じた関光彦の闇

永瀬は過去に広島タクシー運転手連続殺人事件(1996年発生)の死刑囚など「殺人犯の取材」経験はあったが、Sは永瀬から見て「過去に取材したどの殺人犯よりもはるかに深い“桁外れの闇”を抱えていたため、その人物像を理解しようと接近を試みてはさらにその闇の中に巻き込まれていく」ものだった

(引用:Wikipedia)

このように深い深い闇を抱えており、それに飲み込まれていくように感じた永瀬氏は、あるときから関元死刑囚に対して失望するようになったそうです。

市川一家殺人事件の被害者である生き残りの少女を愚弄するような態度や言葉を発し、全く反省の念を持っていないと確信したそうです。

2017年12月19日 死刑執行

2017年12月19日、関光彦元死刑囚の死刑が執行されました。この時関元死刑囚は、44歳でした。死刑は東京拘置所で行われ、他にもう1人違う事件で逮捕され死刑判決を受けた被疑者が死刑執行されています。

死刑が執行された2017年は事件から25年が立っており、死刑判決が確定して16年のことでした。このことに対し弁護人・安田好弘がこんなことを発言していたそうです。

安田は死刑執行後、「彼自身の人生における獄中生活の長さを考えると、もう生き直したのと同じくらいの時間を獄中で生きてきたのだから、死刑執行の是非について再度検討する機会があっても良かったはずだ」と主張した。

(引用:Wikipedia)

また、死刑確定後関光彦元死刑囚は体重が120kgまで増えており、弁護人などから死刑執行を免れるためになるべく体重を増やしておけ、と言われていたという噂があります。

体重が重ければ重いほど絞首刑に処すのが大変だからという意味らしいですが、死刑は執行され、2017年に12月19日に市川一家殺人事件事件は終末を迎えることとなったのです。

関光彦の最後の言葉とは?

関光彦本死刑囚の公に公表されている最後の言葉は、弁護士に当ててのものだと言われています。被害者への供養でもないこの一言に、どのような思いを込めたのでしょうか。

死刑囚Sは死刑執行直前、弁護人・一場順子宛の遺言として「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた。

(引用:産経ニュース)

最後の言葉はこのような言葉でしたが、もうひとつ関光彦死刑囚の言葉で気になる物を紹介します。それがこちらです。事件を起こしてそれほど時間が立っていないときに発言していた言葉のようです。

「4人がいつも自分にくっついていて、おまえのことを許せないと言っているようで苦しい」

(引用:産経ニュース)

苦しいという発言をしてはいますが、取材をしてきた人物によっては「反省はしていない」といった感想を持つ人物もいました。関元死刑囚の心の中がわかるときは、おそらく来ないのでしょう。

市川一家殺害事件より以前の犯罪

市川一家殺人事件を起こす前も様々な犯罪を起こしてきた関元死刑囚ですが、その一部を記して行きます。市川一家殺害事件だけでなく、強姦や傷害事件を起こしていたのです。

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