関光彦【市川一家4人殺人事件】の生い立ちと現在、生き残りの長女 雑学・ライフスタイル

関光彦【市川一家4人殺人事件】の生い立ちと現在、生き残りの長女

皆さんは、2017年に死刑執行された関光彦を知っていますか?千葉県市川市で起きた石川一家4人殺害事件の詳細をお届けします。強盗殺人と強姦殺人を起こしたのは、当時19歳の少年でした。生き残りの被害者遺族の現在とともにまとめていきます。

目次

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関光彦元死刑囚の起こした市川一家殺人事件の概要

市川一家殺人事件とは、2018年現在から26年前の1992年、千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件です。犯人の関光彦元死刑囚が行きずりの少女を強姦し金目当てで少女の自宅に侵入、一家4人を殺害しました。

きっかけはパブで働く女性監禁

1992年2月6日、関光彦元死刑囚は市川市内のフィリピンパブで働いていた2人のホステスをお店に無断で自宅アパートに連れ込みました。

自宅アパートでフィリピン人女性と性的関係を持ち、そのままその女性を2日間監禁、自室に閉じ込めたといいます。その時関光彦元死刑囚は、女性に対し暴行などを行い負傷させました。

暴力団から『落とし前』で追われる

1992年2月8日店に戻った女性たちが暴行内容を店の関係者に話します。被害を訴えたことで店の関係者が激怒、暴力団へ『落とし前』を要求しました。その後、関光彦元死刑囚は暴力団に追われる身となったのです。

買い物帰りの少女が標的となる

市川一家殺人事件の標的で、生き残りとなる長女をはじめに見つけたのは、1992年2月12日午前2時ごろでした。当時県立高校に通っていた15歳の少女は、深夜まで勉強をしていました。

勉強の途中、シャープペンシルの芯がなくなってしまったため近くのコンビニへ自転車で出かけました。その時、愛車クラインに乗った関光彦元死刑囚が少女を見つけたのです。

そのまま少女へ強姦

帰宅途中の少女を自転車の後ろから衝突してしまった関光彦元死刑囚は、擦り傷をおった彼女を「病院に連れていく」といい優しく声をかけたそうです。

病院での治療を無事に終え、自宅まで送ってくれると約束されたため不安ながらも安心し始めた時でした。関光彦元死刑囚は「このまま返してはもったいない、強姦してやろう」と思いついたそうです。

人気のない路肩に車を止め、折りたたみ式ナイフを取り出し少女を脅します。左頬と左手を切りつけ、自宅アパートへ拉致し、午前3時から午前6時までの間に2回にわたって強姦したのです。

少女の個人情報を入手

少女に全治2週間の怪我を負わせた上に2回強姦したのち、関光彦元死刑囚は少女の手足を縛り付けます。そして彼女の所持金を奪ったのです。

それだけでは飽き足らず、彼女の自宅住所など身元のわかる高校の生徒手帳を奪取しました。そのまま関光彦元死刑囚は、部屋を出て行ったそうです。

そして、少女はその間に部屋から逃げ出したそうですが、関光彦元死刑囚はそのことに関して気にも留めていなかったと言われてます。

少女は被害届を提出していた

被害にあった少女は次の日がバレンタインデーの前日ということもあり、高校の友人とバレンタインに関する話をしていた時に、耳下から首筋にわたってカッターナイフでつけられた傷があることを見つけられました。

その傷について友人に問いただされると「昨日ローソンからの帰りに男に襲われた」と言ったそうです。身元証明を奪われたことは話さなかったということですが、友人に勧められ警察に被害届を出したといいます。

金目当てで被害者少女宅へ

1992年3月5日、金を目当てに少女の自宅に侵入しました。侵入したのは午後4:30ごろだったそうで、侵入前に少女自宅へ電話をし、留守のタイミングを狙ったとも言われています。

暴力団からの200万年要求

市川一家殺人事件が起きたのは1992年3月5日でしたが、実は少女をはじめに襲った1992年2月12日の深夜、関光彦元死刑囚は追われていた暴力団から200万円を要求されていました。

要求されるきっかけとなったフィリピン人女性が、在留期間よりも早く帰国してしまったら店への損害が200万円にもなるという理由で脅されていたそうです。

女性に対しては暴力的で自分に自信を持ったような姿を見せていたそうですが、暴力団関係者に対しては、情け無いとも言えるほど弱々しく無抵抗な姿を見せていたと言われています。

計画性もあり?

少女の部屋に侵入する直前に電話をかけていたというだけでなく、200万円を少女宅から強奪することを思いついた時からマンションの下見などをしていたとみられています。

少女の家の在宅状況を知るために時間を変えて何度も何度も電話をかけており『午後は留守、もしくは老婆のみ1人で在宅している』ということを確認していました。

また、2月下旬と3月1日に少女自宅マンションまで出向き、自宅の場所を入念に確認し防犯カメラの有無まで確認していたといいます。

被害者少女家族を惨殺

のちに生き残りとなる長女の自宅への侵入を成功させた関光彦元死刑囚は、とうとう殺人事件を起こしてしまいます。次から次へと少女の家族を惨殺していくのです。

少女祖母殺害

午後4:30ごろチャイムを押し応答がなかったため、少女宅に侵入しました。部屋からはテレビの音が聞こえていました。自宅には少女の祖母がテレビをつけたまま、寝ていたといいます。

関元死刑囚はベランダに靴を隠し家の中を物色したそうです。しかしなかなか金目のものが見つからず、祖母を脅します。その時祖母は財布に入っていた現金8万円を渡しますが、それ以上を要求されそれを拒否しました。

その時祖母はいたって毅然とした様子で、関元死刑囚に対して帰るように諭したそうです。しかしその態度を「バカにされた」と認識し少女の祖母に通帳を要求、掴みかかったといいます。

緊張からか尿意を感じトイレへ入った間に、祖母は警察へ通報しようとします。しかしその様子が見つかり近くにあった電気コードで、少女の祖母の頸部を締め殺害してしまったのです。

少女母殺害

祖母を殺害した後、さらに家の中を物色し10万円を強奪します。そして台所にあった包丁類を集め、隠し持ち一家の帰宅を待っていました。最初に帰ってきたのは、以前強姦した少女とその母親でした。

帰宅した2人を脅しうつ伏せにしたところで母親の背中に包丁を数回突き刺し殺害、被害者少女を脅し母親の遺体を2人で奥の洋間へ運んだといいます。

関元死刑囚は、母親を洋間に運ばせるだけでなく、血痕で汚れた部屋の掃除まで少女にさせたと言われています。これは、同日の午後7時ごろのことでした。

少女の父を突き刺し金を要求

その後少女の父が同日午後9:40ごろに帰宅しました。この時、母親をすでに殺されていた15歳の少女は再び強姦されていました。そんな中、父親が帰宅したのです。

帰宅と同時に父親の左肩を背後から刺し、自分は暴力団のもので「お前の書いた記事で組が迷惑を受けている」と嘘の脅しをします。父親は家族を守ろうと、勤務先の事務所に通帳があると伝えたのです。

肩を刺され瀕死状態であった父親を残し、通帳を求め事務所へ向け部屋を出た関元死刑囚でしたが、この間に通報されては困ると思い再び部屋へ戻り、父親の背中を数回刺し殺害しました。

父親の勤務先へ

1992年3月6日未明、事務所へ出向き通帳を強奪します。この時「事務所に人がいるとやばい」という理由で、千葉県市川市行徳駅前にある事務所に長女である少女を1人で向かわせます。

この時、まだ父親が殺害されていることを知らない少女は「ヤクザが来ていて『お父さんの記事が悪い』といってお金を取りに来ている」と証言し、通帳を持ってその場を去ったそうです。

もちろん、その時点で父親の勤務先の人たちは彼女を心配していたそうですが、少女は助けを求めていなかったといいます。少女が事務所にいた間、関光彦元死刑囚はコンビニでパンを買い空腹を満たしていたそうです。

少女への度重なる強姦

父親が帰宅する前に自宅にて再び強姦されていた少女は、父親の事務所へ訪れたその後にも強姦されています。

事務所を後にした関光彦元死刑囚は、少女を連れたままラブホテルに向かい再び強姦しました。事務所から奪った通帳を確認したり、睡眠をとった後再び少女を強姦したのです。

外部の人間と接触しているのにも関わらず助けを求められなかったのは、通常とは異なる異常な状況に置かれていたことが原因だったとも言われています。

次女の妹を殺害

生き残りとなる長女の妹である次女は当時4歳で、母親が殺害された15分後に保母に連れられ帰宅していました。当時幼かったということもあり、状況が把握できず殺害されていた祖母のそばで睡眠をとっていました。

関元死刑囚はラブホテルから翌朝6:30ごろに長女と帰宅、しばらくの間は友人に電話をかけたりなど状況からは想像がつかないほど”普通”な行動をしていました。

そして次女が目を覚まし泣き出したことをきっかけに、次女を殺害しました。背中から胸に貫通するほど強い力で刃物を突き刺します。その時長女に対し妹の首を閉めろという指示までしたそうです。

父親の会社が警察へ通報し現行犯逮捕

生き残りの少女以外の一家4人を殺害した関光彦元死刑囚が逮捕されたのは、少女の父親の会社の従業員が通報したことがきっかけとなりました。深夜に突然訪れた少女の行動を不審に思い、警察へ通報したそうです。

通報は、次女が殺害された約2時間後の朝8時過ぎのことでした。最初に事務所を訪れた際にも警察へ通報をしていましたが、その時は応答がなくそのままで終わっていました。

しかし早朝に少女から、再度金の要求電話があったことでさらに不審に思ったそうです。そして警察官がベランダから室内に侵入しました。そこで、関光彦元死刑囚は銃刀法違反で現行犯逮捕されました。

少女からの不審な電話が鍵となった

少女は早朝に金の要求のため、父親の会社従業員へ電話をかけました。その不審な行動に対し、その従業員が8時ごろに少女宅へ再び折り返しの電話をしていました。

少女は出たものの「おはよう」としか発せず、そのまま沈黙が続いたと言います。その時「脅している奴が部屋にいるのか?」と問い、少女は頷いたそうです。

1992年3月7日未明殺人容疑で逮捕

銃刀法違反で現行犯逮捕された関光彦元死刑囚でしたが、翌日未明に強盗殺人容疑で再逮捕されました。現場に一緒にいた少女も被疑者として疑われていましたが、取り調べにより被害者だとわかったそうです。

現行犯逮捕後は嘘の供述を続けていましたが、深夜になり金目当てで一家を殺害したと供述したことで、関光彦元死刑囚は強盗殺人容疑で逮捕されました。

市川一家殺人事件の関光彦の裁判について

市川一家殺人事件において、犯人は死刑の判決を下されました。関光彦元死刑囚は、当時自身が未成年であったことや過去に起きた死刑判決の事件と比べて”自分が死刑になるわけない”と思っていたそうです。

第一審が始まったのは1992年12月、その約2年後1994年8月8日の第11回後半にて死刑判決が出たのです。弁護人側は精神鑑定で罪を少しでも軽くしようと動いていたようですが、認められませんでした。

弁護人側は「Sの胎児期に母親Yが流産予防薬として服用した黄体ホルモンの影響で、Sは『爆発的精神病質者』であり犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張していたが、これに対して千葉地裁は「2度の精神鑑定から『心神耗弱だった』と断言するのは困難で、『爆発的精神病質者』との鑑定があるが責任能力に支障をきたすほどではなかった」として退け『責任能力は問題なくあった」と結論付けた。

(引用:Wikipedia)

その後控訴審、上告審においても死刑判決が覆ることはなく2001年12月には死刑判決が確定されました。そして、2006年に再審請求を行なっていますが受け入れられることはありませんでした。

関光彦元死刑囚の生い立ち

ここでは、市川一家殺人事件の犯人・関光彦元死刑囚の生い立ちをまとめていきたいと思います。一体どんな生まれでどのように育ってきたのでしょうか?家庭環境なども詳しく見ていきます。

祖父はうなぎ屋チェーンの経営者

関光彦元死刑囚はサラリーマンの父の元に生まれ、母と弟の4人一家の長男でした。母方の祖父はうなぎの卸業者をしており、千葉県市川市と都内を中心に10軒うなぎ屋チェーン店を経営していました。

祖父はうなぎに対してのこだわりが強く、職人気質なタイプの人だったようです。そんな祖父から金銭的な支援を受け裕福な家庭に育ったのです。

自身の努力で事業を大きくしてきた祖父にとって、娘が紹介してきたサラリーマンは「仕事に対して熱意を感じない」と初めは結婚に猛反対していました。関元死刑囚の両親は半ば駆け落ち同然に結婚したと言います。

父親から児童虐待を受けて育つ

サラリーマンをしていた父親は長男(関元死刑囚)が生まれ、歩き始めるようになってからはスイミングスクールに通わせたり、ピアノや英会話を習わせるなど教育熱心な面を見せていたと言います。

しかし、次男が生まれてからは様子が一変していきます。仕事を後回しにしてギャンブルや酒、女遊びをするようになってきたのです。さらに息子2人に対し虐待をするようになるのです。

S自身や5歳年下の弟に対しても「何時間も正座をさせる」「食事を与えない」「徹底した無視」「真冬の夜中に外に放り出す」など苛烈な児童虐待を繰り返すようになった。

(引用:Wikipedia)

小学生ながらも祖父の元へ家出するようになる

そんな虐待を受けていた関光彦元死刑囚は、辛い環境から抜け出すためにうなぎ屋を経営する祖父の元へ自分で荷物をまとめ、家出するようになりました。

夏休みなどの長期の休みには必ずと言っていいほど祖父の元へ行き、従業員に対し厳しいことを言いながらも仕事に邁進する祖父を、心から尊敬していたそうです。

エホバの証人に没頭するようになる

学校が休みの日は祖父の元へ避難し、日常に幸せを見いだすことができていましたが、やはり父親からのDVは治らず、さらには母親からもDVを受けていました。

そんな時、学校の親友から勧められた『聖書』を読むようになったのです。その友人はエホバの証人の信者で、関元死刑囚に聖書を勧めたのです。そして関元死刑囚はエホバの証人に没頭するようになります。

エホバの証人は「過激なほどの徹底的な純粋性からキリスト教内部でも異端視されていた」が、Sは「愛と平和を高らかに説く教え」に魅了された上、常に自分を温かく出迎えてくれては丁寧に教義を教えてくれた信者一家のことも気に入っており「聖書の教えを真剣に学べばいつか自分の両親もわかってくれる。

(引用:Wikipedia)

聖書を破られた事で父親を恨んで生きるようになる

このように虐待を受けるなど壮絶な生い立ちの中、関光彦元死刑囚が9歳の時でした。熱心に聖書を読んでいところを父親に「こんなくだらないもの読みやがって」と聖書を破り捨てられてしまいます。

破り捨てられたことで、今まで「恐れていた父親」に向かって初めて歯向いました。『聖書』を破られる行為というのは信者にとって”神に背く行為”だったため、今までにないほどの怒りが体の中を駆け巡ったそうです。

「全身の血が沸騰するほどの怒りを覚え、それまでわずかに残っていた父親への情愛も完全に砕け散った」上に「いつか仕返ししてやる」と心に誓った。

(引用:Wikipedia)

関光彦元死刑囚は、後にこのように発言をしていたそうです。自身の拠り所であったものを壊され、神に背く行為をさせられたことで父を恨んで生きていくようになるのです。

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