津山事件の犯人都井睦雄の悲しい真相と寺井ゆり子ら生き残りの現在 雑学・ライフスタイル

津山事件の犯人都井睦雄の悲しい真相と寺井ゆり子ら生き残りの現在

1938年、岡山県の山間にある小さな集落で起こった大量殺人事件「津山事件」はその前代未聞な猟奇性から現在でも語り継がれています。この記事では津山事件の犯人である都井睦雄について詳しく解説し、事件のその後の様子についても詳細にまとめています。

目次

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津山事件(津山30人殺し)とは

津山事件とは、津山三十人殺しとして知られる、1938年5月21日に岡山県の山間の集落で起きた大量殺人事件です。犯人の都井睦雄は猟銃や日本刀、小刀などで武装し、わずか2時間足らずで28名を殺害しました。

都井睦雄の犯行動機は深い怨恨によるもので、かつて関係があり他村へと嫁いだ女性が里帰りしたタイミングを狙って、かなり以前から入念な準備を行った上で、計画的に犯行に及んでいます。

犯行時間は集落が寝静まった深夜1時頃とされており、不意をつかれた住民たちは為す術もなく殺害されていき、一家全滅、一家の大半を失う家族複数出ました。都井睦雄はその後、遺書を残し夜明け前に自殺しています。

津山事件は、犯人都井睦雄を含み多くの当事者が死亡しており、生存者の少なさからその真相は現在まで謎に包まれており、それが津山事件が戦前最大のミステリーの一つとされる大きな要因となっています。

津山事件はその悲惨さと衝撃的な内容から80年以上が経った現在まで、人々の興味の対象となっており津山事件に着想を得た小説や映画が存在する他、サブカル系の雑誌やテレビなどでも度々特集されています。

岡山県貝尾集落で1938年に村落で起こった大量殺人事件

1938年、岡山県苫田郡の山間にあった、貝尾集落で昭和最大とも言われる大量殺人事件が発生しました。この事件は津山事件と呼ばれ、現在でも戦前最大のミステリーとして人々の興味を集めています。

津山事件では、わずか2時間足らずの間に28人が死亡、5人が重軽傷を負い、事件の12時間後までにさらに2人が死亡しており、その被害者の人数から「津山三十人殺し」とも呼ばれています。

実行犯は21歳の青年都井睦雄

津山事件の犯人は集落に住む、当時21歳だった青年都井睦雄という男でした。都井睦雄は別の集落で生まれましたが、2歳で父を亡くし、3歳で母を共に肺結核で亡くしており、その後祖母に育てられています。

都井睦雄は6歳の頃に祖母の故郷であった貝尾集落に祖母と姉と共に移住してきています。都井睦雄の一家はある程度の財産を持っていたようで、暮らしは比較的楽なものであったようです。

都井睦雄は高等小学校(現在の中学校にあたる)を卒業後、肋膜炎(現在の胸膜炎)と診断され、医師の指示で農作業を禁止されます。すぐに介抱に向かったようですが、この頃から劣等感を感じるようになっています。

その後、都井睦雄は実業補習学校へと進みますが、しばらくすると学業を嫌うようになり、家に引きこもって無為な日々を過ごしています。この頃に同世代の人間との関わりもほとんど無くなっていったようです。

このほかにも様々な要因があって、次第に都井睦雄は集落内で侮辱的な扱いを受けるようになります。多くの村民たちから風評被害を受ける事となり、都井睦雄は次第に恨みを募らせていったようです。

村人から侮蔑されたことへの恨みが動機

現在では、都井睦雄が長年にわたって募らせた恨みが、津山事件の動機であると結論づけられています。都井睦雄が残した遺書に特定の人物への恨みが書かれている事に加えて、生存者の証言からも間違い無いようです。

この恨みの要因となったのは、都井睦雄本人の集落での行動であると考えられています。ただし、現在であれば大問題である行動も当時の社会では特段珍しい事ではないというのは頭に入れておく必要があります。

鍵となる要因①:村の風習「夜這い」

都井睦雄は、村にあった夜這いの風習によって集落の多くの女性と関係を持っていたとされ、その女性達からも次第に差別的な扱いを受けるようになり、その後、次第に恨みを募らせていったと考えられています。

鍵となる要因②:不治の病「結核」と徴兵制

都井睦雄が集落内で差別的な扱いを受けるようになった原因は、都井睦雄の父母が肺結核で亡くなっていた事と、本人も肺結核を理由に徴兵検査を事実上の不合格となった事だとされています。

当時の日本社会では、徴兵制で兵隊に行って初めて一人前の男であると見られる雰囲気があり、さらに肺結核は不治の病であり感染力も強い病気という認識であった為、集落全体から距離を置かれたと考えられます。

これは、現代の感覚では中々理解できませんが、当時の日本社会、増してや山村地帯では肺結核患者への差別意識が根強く存在しており、この様な扱いを受けたのもそこまで異常な事態とは言えませんでした。

それでも、都井睦雄の恨みは凄まじく募っていき、やがて犯行に至っています。現在この事件を振り返って考えてみるときに、津山事件における都井睦雄の行動はとても計画的で無駄がない事に気がつきます。

こういった事を考え合わせると、都井睦雄という人物はとても知能レベルが高く、深く物事を捉え理解する事ができる人物であったと推察されます。

その事が逆に災いし、深く物事を理解してしまうが為に、集落での侮蔑的な差別行為に怒りを募らせる結果となり、前代未聞の凶行へと走った根本的な要因だと言えるのではないでしょうか?

津山事件の概要 犯行日当日に起きたこと

ここからは津山事件が起きた当日の流れを詳しく見ていきたいと思います。都井睦雄の行動はとても合理的で計算されたものであり、高い知能指数が感じられます。

この計画性の高さがたった一人で、わずか2時間足らずの時間で30人以上を殺傷できた最大の理由だと考えられます。

また、都井睦雄は犯行の何年も前から猟銃免許を取り訓練を積んだり、武器を揃えたりと、準備を整えていた節がありますが、ここでは犯行の直前に行った直接的な準備に焦点を当てます。

5月20日5時 電線を切って村を停電させる

津山事件前日の5月20日、都井睦雄は犯行の下準備を入念に行っています。まず午後4時頃に自転車で、襲撃を予定していた家を入念に下見しています。

その後の午後5時頃、電柱に上って送電線を切断して集落全体の照明がつかない状態にしています。初夏とはいえ山間部、この時間でも電気がなければ既にかなりの暗さであったと考えれます。

これ以前にも集落では風やそのほかの原因で度々停電が起こっていたので、特段不審に思う事もなく電気管理会社への連絡や原因の特定を試みる村民は一人もいませんでした。

5月21日深夜1時 祖母を斧で殺害、家を出る

日付が変わった5月21日の深夜1時頃、都井睦雄は計画を実行に移します。屋根裏部屋に上がった都井睦雄は、事業補習学校時代に軍事訓練用に購入させられた黒詰襟の学生服に着替えます。

その後両足に軍事訓練用のゲートルを固く巻き、その上から地下足袋を履きます。2本の小型の懐中電灯を手ぬぐいをハチマキ状にして頭に巻き、首からは自転車用のランプをかけて、別の紐で体に固定する様にします。

日本刀一振り、匕首(鍔の無い短刀)を2本を紐で左腰に括った上から革のベルトでしっかりと固定し、手には12口径の9連発に自分で改造した猟銃を持ち、ポケットと鞄に合計200発の弾丸を用意しています。

都井睦雄の犯行時の異様な格好は、現在でも津山事件のイメージともなっており、事件の猟奇性をさらに掻き立てます。用意を終えると都井睦雄は屋根裏部屋から下の階に降り祖母の首を斧で切断して殺害しています。

その都井睦雄は犯行後に記した遺書の中で、祖母には済まない事をしたが、残される不憫を思うと殺すしかなかったといった趣旨の事を書いています。また、既に嫁いでいた姉に対しても謝罪の言葉を綴っています。

11軒の家を周り、次々と一家を惨殺

家を出た都井睦雄は11軒の家を回って次々と一家を惨殺していきます。さながらスプラッター映画の犯人の様に鬼と化した都井は淡々と犯行を重ねた様です。

最初に標的とされたのは都井と関係があったという北隣の家の未亡人で、刀で首と胸、口の中を刺し貫かれて殺害されています。半年前に関係を拒まれ、それを集落中に言いふらされた事で強い恨みがあったとされます。

その後も、都井の家は集落の中心あたりにあり、そこから村中を次々に回って、刀や猟銃を使用して次々と住民を殺害し、わずか1時間半程度の間に28人を即死させたと言われます。

「お前は悪口を言わなかったから、許してやる」

都井睦雄はターゲットを明確に決めていた様子があり、炬燵に堂々と座っていた老人に対して「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と発言して見逃したとされています。

その後、その老人の息子も必死に命乞いをしたところ「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と発言して見逃されたとの証言もある様です。

2時半頃 全ての襲撃が終え村を出る

家で祖母を殺害してからわずか1時間半ほどの午前2時半頃には、襲撃を終えて都井睦雄は集落から出ています。この短時間の間にこれだけの事を終えている事からも津山事件が綿密に計画されたものだとわかります。

3時頃 紙と鉛筆を求めて楢井集落に立ち寄る

都井睦雄はその後、午前3時頃に隣接する楢井集落に立ち寄っています。「今晩は」と呼びながら、家主が寝ている一軒の家に上がり込みます。家主は都井を強盗だと思い怯えていたそうです。

それを見て都井は「怯えなさんな、急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい、警察がこの下まで自動車でわしを追うて来ておる」と発言したそうです。都井はこの家の主人の孫と顔見知りでした。

当時小学5年だった孫は、都井の作成した紙芝居の常連であり、顔見知りであったそうです。怯えて動けない主人に変わって都井はこの孫に鉛筆と紙を持ってくる様に言って受け取っています。

5時頃 荒坂峠の山頂で遺書と共に自決

その後、最後に立ち寄って家から3.5キロほど山の中に入った場所で都井睦雄の自殺遺体が発見されます。猟銃左胸に当てて、両手で銃身をしっかりと固定して足で引き金を弾いたと推定されています。

死亡推定時刻は午前5時頃とされました。この時都井睦雄は楢井集落で受け取った紙と鉛筆を使って遺書を認めています。その後、都井の自宅でも2通の遺書が発見されています。

津山事件の動機・真相 単なる無差別殺人事件ではない

ここまで見てきた様に、津山事件の真相は単なる無差別大量殺人事件ではありません。長年の怨恨によって引き起こされた陰惨な復讐事件だと言えます。

怨恨につながった村での差別的な扱いは、当時の日本の村社会の暗部を示していますが、それがこれほどの大量殺人につながったケースは記録に残っている限りでは津山事件の他にはありません。

現在でも津山事件の原因については人々の注目を集めており、都井睦雄の残した遺書や、生存者の証言から、事件に至るまでの検証が盛んに行われています。

残された遺書の内容

都井睦雄が残した遺書の内容も公開されています。都井は遺書の冒頭でまず祖母を殺さざるを得なかった事情と、謝罪の念を書いています。また、その首を切り落とすという殺害方法についても後悔の念を綴っています。

愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり

(引用:津山事件報告書)

さらに、姉への謝罪の言葉に続けて、この様な事をした自分の墓はいらない、病気によって社会に冷淡にされた事が悲しかった事、社会はもっと結核患者への同情を持つべき事、今度は強い体に生まれたい書いています。

姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう

(引用:津山事件報告書)

そして、最後にはこの日に犯行をする理由を以前関係を持ったのに他村へと嫁いだ女性が里帰りしているためと説明、殺したかった人間を逃してしまった事を悔しがる文章を続けています。

今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、

(引用:津山事件報告書)

この遺書を見て印象に残るのは、とても理路整然とした文面であり、整理されて事と自分の想いがわかりやすく説明されているという事です。とても理知的な人物像が見えます。遺書は以下の文で結ばれます。

もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

(引用:津山事件報告書)

計画的な犯行

ここまで見てきた様に、津山事件は綿密に事前準備がされた計画的な犯行でした。都井睦雄はかなり事件の一年前から猟銃免許を取り猟銃や刀などの武器を集め始めています。

都井が関係を持った女性に縁のある家が襲われた

都井が襲った家は、自身が関係を持った女性の家が中心でした。遺書にもそれは書かれており、都井の中の差別を受けての怒りの感情が以前自分に優しくしてくれた女性たちに向かったのだと推測されています。

命乞いをして助かった者も

また、必死に命乞いをして助かった住民もいます。その住民は「決して動かんから助けてくれ」と必死に命乞いし、それを見た都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言って見逃しています。

この点からも、都井睦雄は決して理性を失って見境なく暴れまわった訳ではないことが想像できます。綿密に計画を立て犯行時も冷静に行動に移していた事が推測されます。

寺井ゆり子さんへの恨み

都井睦雄が遺書でも名前を出して触れている寺井ゆり子さんへはひときわ大きな恨みの念を持っていた様です。しかし寺井ゆり子さんは生き残り、生存していれば現在100歳を超えています。

犯行に至るまでの経緯と都井睦雄という孤独な男

都井睦雄の津山事件に至るまでの人生を見ると、その暗く孤独な人生が浮かび上がってきます。幼くして両親を亡くし、自身も病弱な体を持って生まれ、社会を呪う様になった都井の人生を見ていきます。

結核で両親を亡くし祖母姉と3人で育った都井睦雄

都井は2歳の頃に父親を、3歳に頃には母親を共に肺結核で亡くしています。それからは、祖母が後見人となって、姉と共に育てられています。その後、6歳の頃に津山事件のあった集落に移り住みます。

家は裕福で成績優秀な学生だった

都井睦雄の家は、ある程度の資産と所得を持つ比較的裕福な家であり、畑仕事をしながら楽に生活できる家だったそうです。都井は学業でも優秀な成績を残しており、当初は女性からもモテていたそうです。

姉に恋心を抱いていた?

都井睦雄は3歳年上の姉に強い執着を持ち、恋心の様なものを抱いていたのではないかと思われる節があります。都井が自宅に残した2通の遺書のうち1通は「姉上様」と書かれ姉に宛てられたものでした。

また、高等小学校に在籍していた頃に都井は初恋をし、一学年下の学生に精密に書かれた肖像画を送り「あなたが好きです」と告白しています。その肖像画は都井の姉にそっくりであったのだそうです。

この件や遺書の内容からは、都井睦雄が姉に対して強い執着心を持っていた事が伺われます。それが大人になった都井の女性に対する強い執着心にも関係する様に感じられます。

「夜這い」で多数の女性と関係を持つように

都井の集落では「夜這い」の風習があったとされると既に書きましたが、都井睦雄も集落の多くの女性と関係を持っていたとされています。姉が嫁いでからの都井は寂しさを夜這いで紛らわせていたのかも知れません。

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