新潟少女監禁事件・佐藤宣行と佐野房子の現在は?結婚の噂も 社会

新潟少女監禁事件・佐藤宣行と佐野房子の現在は?結婚の噂も

1999年、新潟県でに行方不明になっていた佐野房子ちゃんが、9年ぶりに発見され発覚した新潟少女監禁事件。犯人は佐藤宣行という引きこもりの男でした。少女が妊娠していたという噂や、現在結婚しているのかなど、事件の当事者たちのその後についてまとめました。

目次

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新潟少女監禁事件の概要

新潟女児監禁事件が発生したのは1990年。佐藤宣行という男が小学生だった佐野房子ちゃんを誘拐して自宅に監禁しました。

それから9年2ヶ月の間、誰にも知られることなく、犯人と少女は共同生活を送っていきます。近所の住民はおろか、同じ家で暮らす犯人の母親も少女の存在に気付いていませんでした。

1999年、ひょんな事から、佐藤宣行の部屋から佐野房子ちゃんが発見・救出されます。9年間も監禁されていた少女はやせ細り衰弱していましたが、無事に家族の元へ帰ることができました。

1990年に新潟県で9歳の少女が誘拐される

1990年11月13日、佐藤宣行はターゲットとなる少女を探して、新潟県三条市を車でうろついていました。そこへ一人で下校中だった佐野房子ちゃんが通りかかります。

佐藤宣行は少女が可愛らしく、人目もなかったため、拉致を決意。佐野房子ちゃんを脅して車に乗せました。かくして誰にも知られず、9歳の少女は誘拐されてしまいました。

9年2ヶ月後に佐藤宣行の自宅で発見された誘拐監禁事件

失踪から9年2ヶ月後、佐野房子ちゃんは佐藤宣行の自宅で発見されました。少女を発見したのは、犯人である佐藤宣行の部屋に強行突入した医療関係者でした。

佐藤宣行は精神病院に強制入院させられることになっており、抵抗しましたが、鎮静剤を打たれて病院へ運ばれました。その場に得体の知れない少女が一人取り残されていたのです。

少女に名前を尋ねると「佐野房子」と名乗り、行方不明の少女と指紋も一致したため、9年2ヶ月ぶりに発見されたと大騒ぎになりました。

佐藤宣行が佐野房子を誘拐監禁した事件の時系列

新潟女児監禁事件を時系列でご紹介します。1990年11月、佐野房子ちゃんが誘拐される。当日に佐野房子ちゃんの母親が警察に通報し、大掛かりな捜索が行われるも発見することはできませんでした。

佐野房子ちゃんは犯人・佐藤宣行の自宅に9年2ヶ月に渡り監禁される。1999年1月、佐藤宣行を強制入院させるために部屋へ入った医療関係者が佐野房子ちゃんを発見。

世間では誘拐された少女が見つかったと大騒ぎになりました。佐野房子ちゃんは無事保護され、家族と再会します。佐藤宣行は精神病院で医療措置を受けた後、逮捕起訴されました。

1990年11月に佐野房子ちゃんを誘拐

1990年11月13日、佐藤宣行は一人で下校中だった佐野房子ちゃんを誘拐しました。ナイフを突きつけて「殺すぞ」と脅し、車のトランクに押し込みました。

誘拐した理由はとても身勝手なもので、「少女が可愛かったから、自宅へ連れ帰って一緒に暮らしたいと思った」と後に語っています。

両手両足を縛り付け自宅へ連れていく

佐野房子ちゃんをトランクに閉じ込め、一旦は車を発車させた佐藤宣行。しかし「暴れたらまずい」と考えなおし、車を止めて佐野房子ちゃんの両手両足を粘着テープで縛りつけます。

「風景を見せると監禁場所がバレる」と目隠しもつけさせました。その際、佐野房子ちゃんが「家に帰りたい。父や母に会いたい。帰れる?」と聞きましたが、答えは「俺と一緒に暮らすからダメだ」というものでした。

自宅に到着するも、母屋の表玄関ではなく自室前にある入り口に車をつけます。そこから少女を部屋に運び入れました。その後、わざわざ車を表玄関にまわし「今一人で帰ってきた風」を装い帰宅しています。

全ては同居する母親に佐野房子ちゃんの存在がバレないようにする為でした。予定通り母親は気づかず、佐藤宣行の計画どおりに事は運んでいきました。

部屋から出られないと脅迫的な言葉を浴びせる

佐藤宣行は「俺の言うことを聞かないなら、お前なんかいらない(殺す)」というような脅迫的な言葉を、佐野房子ちゃんに日々浴びせていました。彼女から逃げ出す気力を失わせるのが目的だったのです。

同日母親が駐在所に捜索願を出す

1990年11月13日、夜になっても帰宅しない佐野房子ちゃんを心配した母親が、駐在所に捜索願を出しました。警察官や学校関係者200人以上が捜索に当たりましたが、手掛かりすら掴めませんでした。

日が経つにつれ、自動車による連れ去りの可能性が高まり、佐野房子ちゃんの発見は難しいという見方が大半となっていきました。捜索隊の中では、諦めムードも漂っていたそうです。

北朝鮮工作員に拉致されたとの見方も出ていた

佐野房子ちゃん失踪について、「北朝鮮工作員による拉致」の可能性も指摘されていました。横田めぐみさんが失踪した状況と似ていたからです。

夕方の自宅近辺、一人で帰宅中の少女であったことなどが共通点としてあげられていました。当時は北朝鮮工作員による拉致が周知され始めた時期でもあったため、話題となったようです。

12月25日には捜査が打ち切られる

ヘリによる上空からの捜索や、夜間検問、2万枚以上の捜索ビラの配布などあらゆる手を尽くしたものの、佐野房子ちゃんの行方は掴めませんでした。

少しずつ人員も縮小されていき、失踪から1ヶ月以上が経過した12月25日、捜査は打ち切りとなってしまいました。

その後も毎年11月13日、佐野房子の失踪日に捜索のビラを配る活動は続けられたものの、手掛かりすらない状況に変わりはありませんでした。

脱出意思を喪失させ暴行を加える

佐藤宣行は佐野房子ちゃんの逃走の意思を奪うため、暴言や暴行をはたらいていました。「絶対に逃げられないぞ。俺の言うことを聞いていろ」と言いながら佐野房子ちゃんの顔面を数十回にわたって殴り続けました。

何か気に入らないことがあれば、佐野房子ちゃんの腹部にナイフをつきつけ「刺すぞ、殺してやろうか」と脅迫する。さらに佐藤宣行が就寝・外出する際には、佐野房子ちゃんの身体を拘束していました。

最初の数ヶ月は両手両足を縛り上げており、後には両足だけ縛るようになりました。これだけでも佐野房子ちゃんの逃走する意思を奪うのに十分なのですが、佐藤宣行はさらに様々な約束事を強要します。

大声を出さないこと、家の構造を知られないため、男が部屋を出入りする際には顔を隠したり毛布に潜ったりすること、自室のセミダブルベッドから許可なく降りないこと、暴れないことなどを命令し、これを破った際には暴行を加えた(引用:Wikipedia)

この他にも佐藤宣行のことを「おじさん」と呼んだだけで、容赦なく殴打されました。繰り返される暴力や暴言によって、佐野房子ちゃんは逃走する意思は消えていきます。

スタンガンの刑などにより解離性障害の症状が現れ始める

監禁当初は、逃走防止のためだった暴行が日常的に行われるようになっていました。佐藤宣行の供述によると、軽い殴打は700回以上、酷い打撃は300回前後もの暴行を加えたそうです。

監禁から1~2年後、佐野房子ちゃんへの暴行に新たな手法が加わりました。それは「スタンガンの刑」というもの。スタンガンは電気ショックで攻撃するもので、威力が強いものではショック死することもあります。

佐藤宣行は母親に頼んでスタンガンを購入。指示通り雑用をやっていなかった、プロレス技をかけた際に苦しさから声をだしたと言っては、佐野房子ちゃんに対し、スタンガンの刑を執行していました。

佐野房子ちゃんはスタンガンの刑について、「あまりの激痛に叫び声をあげそうになったが、さらに暴行が酷くなると思い布団や自分の体を噛んでこらえていた」と話しています。

次第に、佐野房子ちゃんは「暴行を受けているのは自分ではない」と考えるようになっていきます。これは解離性障害と呼ばれる病気の症状でした。

解離とは、大きな精神的苦痛、限界を超える苦痛を感じた時、感情を体外離脱体験や記憶喪失という形で切り離し、自分の心を守ろうとする。(引用:Wikipedia)

佐野房子ちゃんはあまりに辛い現実に耐え切れず、精神が蝕まれていたのです。このころから暴行をさけたり防御するのをやめ、怪我が軽く済む部位(頬など)を自ら差し出すようになっていきました。

1996年頃から糖尿病を危惧

監禁から5~6年経った頃、佐野房子ちゃんの足にアザができていました。それを見た佐藤宣行は「少女が糖尿病になろうとしている」と思い込みます。

佐野房子ちゃんの糖尿病を予防するために、食事を減らすことと、運動させることを思いつきます。運動不足と、高たんぱくで高カロリーな食事が原因だと思ったからです。

佐野房子ちゃんの食事は、佐藤宣行の母親が息子に用意していた重箱の弁当でした。途中からは母親の負担軽減のためにコンビニ弁当に切り替えましたが、きちんと食事をしていました。

佐藤宣行は、その食事を1日1食に減らしてしまいます。さらに部屋の中での足踏み運動を強制したため、40数kgあった体重は38㎏まで激減。

佐野房子ちゃんはガリガリにやせ細り、自ら歩くことも困難になっていきました。栄養失調のため、失神するようになっても、おにぎりが1つ追加されるだけでした。

衛生面でも問題はあった

佐藤宣行の自室に9年間も監禁され、一歩も外出しなかった佐野房子ちゃん。風呂もトイレもない部屋でどのように生活していたのでしょうか。

まずはお風呂ですが、佐野房子ちゃんが入浴したのは、9年間で1回きりでした。栄養失調による失神で床に倒れた際に、埃まみれになったために、仕方なく入浴させています。さらに異常なのは、トイレでした。

佐藤宣行は、佐野房子ちゃんに対し「ビニール袋で用を足す」ように指示していました。自らも不潔恐怖により、普通のトイレが使えなかったためにビニール袋に排泄していたので、彼女にも同じ事を強要したのです。

そしてなぜか、糞尿が入った使用済みのビニール袋は、部屋の外に並べていました。

着替えはなくいつも同じ服を着ていた

佐野房子ちゃんに着替えはなく、毎日同じ服を着せられていました。そして着れなくなるほどボロボロになると、佐藤宣行はスーパーで万引きして、新しい服を与えました。

佐藤宣行は、買い物のほとんどを母親に頼んでいましたが、女性用の服だけは自らが調達していました。母親に佐野房子ちゃんの存在がバレないよう、徹底して気を使っていました。

佐藤宣行は、不潔恐怖といいながら、生活環境はとても不衛生だったのです。部屋は埃まみれ、外の廊下には糞尿の入ったビニール袋が山積みで、毎日同じ服。2人の生活は衛生面でも問題でした。

娯楽と知識は与えていた

一番勉強が必要な時期に監禁されていた佐野房子ちゃんは、知的レベルの低下が心配されていました。しかし救出後の検査で、知識量は同年代に劣らないことが判明しました。

佐藤宣行は、佐野房子ちゃんに漫画や新聞を読ませたり、数学を教えたりするなど知識を与えていました。ニュース番組などを見て、時事問題について2人で議論することもありました。

そのため学力や語彙力などにも問題はなかったのです。佐藤宣行の趣味である競馬や車にも詳しくなっていました。佐藤宣行は後に「彼女は賢く、友人のように対等に語りあえた」と語っています。

1999年頃からは母親へのスタンガン

佐藤宣行の家庭内暴力は酷いものでした。実の父親にさえも暴力を振るい、家を追い出しています。唯一の味方である母親も例外ではありませんでした。

佐藤宣行は気に入らないことがあると、母親を殴りつけたり蹴ったりしていました。それでも気が済まなければ、手足を縛り上げて放置することもありました。

佐藤宣行の暴力を恐れた母親は、1日500円で使用できるかんぽの宿に逃げ込んで、時間を潰していたそうです。

そんな日々が続いた1999年12月、佐藤宣行は73歳になった母親にも「スタンガンの刑」を執行するようになります。これにはさすがの母親も耐え切れず、精神科医に窮状を訴え、息子の入院を懇願します。

相談を受けた精神科医は、この母親の身体が危険だと考え、佐藤宣行を強制入院させることを提案。母親も同意したことから、強制入院の準備を開始しました。

2000年1月19日に保健所と市職員が訪れるも佐藤宣行は引きこもる

母親の訴えによって、佐藤宣行の強制入院は検討段階に入っていきました。強制入院させるためには、市や保健所が佐藤宣行の現状を確認する必要がありました。

2000年1月19日、柏崎市職員と保健所職員が佐藤宣行の自宅を訪れ、面会を求めました。しかし職員達がどんなに呼びかけても、佐藤宣行は自室に引きこもったまま。話を聞くこともできませんでした。

この面会結果を受け、保健所と市役所、精神病院の3者で話し合いがもたれます。佐藤宣行の症状を重く見て、強制入院させる日程を決定、専門のチームも結成されました。

2000年1月28日に佐野房子ちゃんが発見される

2000年1月28日、ついに佐藤宣行の強制入院が実施されることになりました。市と保健所の職員、精神病院の職員や医者で構成されたチームの7人で、佐藤宣行の自宅へ向かいました。

2名は外で待機し、残り5名は佐藤宣行の自室である2階の部屋へ。医者が「診察に来ました」と言いながら部屋へ入ると、佐藤宣行は「勝手に入るな!」と激高。

医者はベッドで横になっている佐藤宣行に対し、「強制入院させるために来た」と告げます。すると佐藤宣行はさらに興奮し、激しく暴れ始めました。

この危険な状況に、強制入院を事前に通知しておいた柏崎警察署に応援を要請しますが、「担当者が不在で折り返し連絡する」と返答があっただけで駆け付けてくれませんでした。

仕方なく医者は佐藤宣行に鎮静剤を注射。しばらく暴れ続けたものの、薬が効いてくると眠りに落ちました。これで事態はひと段落したのですが、その場にいた職員達は、部屋の中にある不自然な存在に気づいていました。

毛布が動いている

倒れ込み眠る佐藤宣行の傍らで、職員たちは部屋にある「毛布の塊」を見つめていました。騒動の最中も不自然に動いていたからです。

「何かがいる」と、職員達はハサミで毛布を切り裂きました。中から出てきたのはのは、色白で痩せこけた少女、佐野房子ちゃんでした。

職員たちが「名前や自宅を教えて」と聞いても、佐野房子ちゃんは「気持ちが追い付かなくて今は言えない」などと口ごもります。

仕方なく佐藤宣行の母親を呼び少女の正体を訪ねますが、当然母親は知りません。「見たこともない」と答えるばかりでした。

職員が佐藤宣行がいなくなった後どうするか尋ねると、佐野房子ちゃんはこの家にいてもいいか佐藤宣行の母親に尋ね、許可をもらいます。

しかし職員の一人が実家に連絡すべきだと注意すると、佐野房子ちゃんは「もう自分の家はないかもしれない」と回答。母親が自宅はどこか聞くと「ここかもしれない」と答えました。

外に出る際、靴はないのか尋ねると、佐野房子ちゃんは「靴はいらないの。外には出られないから。」と答えました。実に9年ぶりに外に出る日のことでした。

警察に出動要請をするも拒否

強制入院チームは、母親と佐野房子ちゃんと共に佐藤宣行の入院先である精神病院に向かいました。その道中、先ほど応援要請した警察から折り返し連絡があり「やはり出動は無理だ」と断られました。

対応した職員は、事態は一旦沈静化して病院へ向かっていること、身元不明の女性を発見したことを伝え、再度警察の出動を要請します。

しかし柏崎警察署は「こちらの仕事を増やさないでくれ。家出人の名前や住所くらい自分達で聞いてくれ。」と完全に出動を拒否します。

結局、強制入院チームの職員が身元を再度尋ねたところ、9年前に行方不明になっていた佐野房子ちゃんであると発覚。驚いた職員が警察に対し3度目の出動要請をします。

「9年前に誘拐された佐野房子ちゃんだと言っている」と伝えると、刑事課の捜査員がすぐに駆け付けました。指紋の照合などをした結果、本人と確認されました。

この衝撃的な事件は世間でも注目されたため、この日の警察の対応も詳細に報道されました。あまりの横着ぶりに大バッシングを受けることになりました。

9年2ヶ月ぶりに母親と再会した佐野房子ちゃん

監禁部屋から救出され、無事柏崎警察署に保護された佐野房子ちゃん。指紋の鑑定も行なわれ、本人と確認されました。

当日の夜には、佐野房子ちゃんの母親が警察署を訪れ、9年2ヶ月ぶりに親子の対面を果たしました。

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