

YOSHIKIの生い立ちが波乱万丈!父親は自殺?母親の教育方針とは?
X JAPANのリーダーとして世界から評価が高いYOSHIKIさん。メンバーの逝去やヘルニアの悪化など様々な困難を乗り越えファンに希望を与える存在ですが、YOSHIKIさんの生い立ちは波乱万丈だったと話題です。父親の自殺や母親、音楽への歩みなどに迫ります。
目次
[表示]- 01.
YOSHIKIの生い立ちがスゴい?実家は呉服屋で裕福だった?
- 02.
YOSHIKIは小児喘息で病弱だった?音楽も生い立ちに関係?
- 02.1.
YOSHIKIがピアノと出会ったきっかけは4歳の時のこと
- 03.
YOSHIKIの父母は音楽の素養たっぷり?母は英才教育家だった?
- 03.1.
YOSHIKIの幼い頃母親の英才教育がすごかった!?
- 04.
YOSHIKIの父親が自殺していた?その影響はYOSHIKIを変えた?
- 04.1.
YOSHIKI失意!父親の自殺がドラム・ロックのきっかけ?
- 04.2.
YOSHIKIの中学時代はやんちゃだった?母親の教育が独特?
- 05.
手の付けられないワル・YOSHIKIは実は頭脳明晰で成績優秀!
- 05.1.
千葉県立安房高校は偏差値59!金髪リーゼントでも学年2番の成績優秀者?
- 05.2.
武蔵野音楽大学推薦が決定!しかしTOSHIと共にバンド活動へ専念
- 06.
YOSHIKIの本名・生年月日・年齢などプロフィール
- 07.
YOSHIKIは2人の仲間と死別!辛すぎるお別れ
- 07.1.
X JAPANの盟友・hideが1998年に自殺?
- 07.2.
YOSHIKIロスから緊急帰国!築地本願寺大混乱!後追い自殺も?
- 07.3.
ギターのTAIJIは2011年45歳で死去!自殺を図り病院で脳死
- 08.
YOSHIKIの波乱の生い立ちは父親の自殺が影響?母親の教育が良かった?
YOSHIKIの生い立ちがスゴい?実家は呉服屋で裕福だった?
日本国内だけでなく、海外でも評価をされているミュージシャンのYOSHIKIさんですが、生い立ちは、千葉県館山市の出身で、実家は老舗呉服店を営む家庭で生まれました。 二人兄弟の長男で、弟がいるそうです。 かなり裕福な家庭だったらしく、忙しく働く両親に代わり、幼かったころは家政婦さんに面倒をみてもらっていました。
ちなみに実家が呉服店だった生い立ちからなのか、YOSHIKIさんは自身の着物ブランド『YOSHIKIMONO』を立ち上げていています。
2013年の国立競技場で開催されたイベント「ASIA GIRLS EXPLOSION」 では自身のピアノとともにデザインしたヨシキモノをお披露目しました。
YOSHIKIは小児喘息で病弱だった?音楽も生い立ちに関係?
裕福な家庭の生い立ちを持つYOSHIKIさんでしたが、幼少期は病弱で、かなり重い小児喘息を患っていたそうです。
そのため、小学校の中頃までは入退院を繰り返していて、外で遊ぶということも思うようにできなかったといいます。
そんな生い立ちの中で、お父さんからお見舞いのときに買い与えられたのが子供向けの偉人伝の本で、その中でも特に強い興味を持っていたのがベートーヴェンだったそうです。
若くして難聴という苦難に陥りながら数々の名曲を残した人生に、自信の闘病生活を重ねていたのでしょうか。
YOSHIKIがピアノと出会ったきっかけは4歳の時のこと
YOSHIKIさんが音楽に最初に触れたきっかけは、4歳の時にお父さんからピアノを買い与えられたことでした。ピアノ教室に通いクラシック・ピアノのレッスンを受け始めたそうです。
小さいころは、クラシック音楽ばかり聞く子供だったそうで、お父さんが持っていたクラシックのレコードも好んで聴いていました。
8歳の時に初めて自分のお小遣いで買ったレコードも、シューベルトの交響曲第8番ロ短調『未完成』とベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調『運命』レコードでした。
YOSHIKIの父母は音楽の素養たっぷり?母は英才教育家だった?
YOSHIKIさんの実家は呉服屋を営んでいましたが、音楽一家の一面も持っていたそうです。
お父さんは先代から家業の呉服屋を次ぐ前は、音楽活動をしていて、プロのタップダンサーとして活動し、ジャズピアノを弾くこともできたそうです。
またお母さんは、三味線を弾くことができ、祖母も琴の演奏を嗜んでいたそうです。クラシック・ピアノだけでなく、誕生日ごとに楽器をプレゼントされることが恒例になっていて。
父親からは10歳の誕生日にトランペットをプレゼントされるなど、YOSHIKIさんの音楽家としての才能は、血筋や環境によるところも大きいようです。
YOSHIKIの幼い頃母親の英才教育がすごかった!?
YOSHIKIさんのお母さんは、幼いころから息子の音楽の才能に気づいていたのか、その教育も独特だったそうです。
ピアノを習っていたYOSHIKIさんに対し、とにかく手を大事にすることを言い聞かせていて、転ぶときがあったら「手をつかずに、アゴをつくように」といっていたほどでした。
この教育は大人になってからもYOSHIKIさんの習慣になっているそうで、手を大切にするため、料理は一切しないとバラエティ番組で告白をしていました。
母親の言いつけを守るだけあり、現在も親子関係はとても仲がいいようです。
YOSHIKIの父親が自殺していた?その影響はYOSHIKIを変えた?
音楽の楽しさを教え、多くの影響を与えていたお父さんでしたが、1976年8月、YOSHIKIさんが10歳のころに突然自殺により亡くなってしまいます。
34歳という若さで亡くなってしまいます。死因は、車の中に排ガスを送り込むことによる一酸化中毒だったそうです。借金が理由では?と憶測もされましたが理由はわかっていません。
YOSHIKIさんは、父親の死の当日は夏休みの音楽クラブで出かけていたそうで、帰宅をすると父親は布団で寝かされ、顔には白い頭巾を被っていた状態だったといいます。
周りの親戚はYOSHIKIさんのことを思い、「病気で寝ている」と説明したそうですが、すぐに父親が死んだことを理解し、号泣しその場で倒れ込んでしまったそうです。
YOSHIKI失意!父親の自殺がドラム・ロックのきっかけ?
YOSHIKIさんは父親の自殺について、父親を尊敬し、慕っていたため「心の行き場がなくなっちゃった」としばらくポッカリと穴が空いたような日々を送っていたと振り返っています。
実際父親の死の原因が自殺であることは中学生になるまで知らなかったそうです。失意の中、YOSHIKIさんが出会ったのがロックでした。
クラシックしか聴かないYOSHIKIさんでしたが、偶然レコード店で見つけたアメリカのロックバンドKISSのシングル『ラヴ・ガン』に惹かれたといいます。
その後母親に頼み込み、KISSの日本武道館公演に連れて行ってもらいロックに魅了されました。ロックに興味を持ったYOSHIKIさんは11歳のときにお母さんからドラムを買ってもらい、熱中し始めました。
父親の自殺に対する悲しみや怒りの複雑な感情が、YOSHIKIさんをロックに引きつけた理由かもしれません。この頃には『ロックスターになる』という目標をはっきりと持っていました。
YOSHIKIの中学時代はやんちゃだった?母親の教育が独特?
ロックに出会ったYOSHKIさんは、11歳で早くも初めてのバントを結成します。メンバーは小学校の同級生に加え、幼馴染みでギターが弾けたTOSHIさんでした。
YOSHIKIさんはボーカルとギターを担当していましたが、声変わりで高音が出にくくなり、中学校に進学するとボーカルを新たに加えドラムに専念をすることになります。
中学1年生の頃、長髪だったことを教師に注意され、無理やりバリカンで丸坊主にされたこときっかけに、グレてしまったらしく不良と遊ぶようになったといいます。
しかし母親は勉強をきちんとしていれば文句を言わない教育方針だったらしく、成績は優秀で千葉県の模試で100点満点をとり表彰をされたこともあるそうです。
手の付けられないワル・YOSHIKIは実は頭脳明晰で成績優秀!
中学時代から不良のレッテルを張られたYOSHIKIさんですが、実は勉強は前述の通りすごく良く出来たらしいのです。それは進学先高校が地元という理由の他に、偏差値が示しています。
千葉県立安房高校は偏差値59!金髪リーゼントでも学年2番の成績優秀者?
県立安房高校は、千葉の公立高校でも全195校中40位以上の、偏差値59の中堅上位校なのです。学校創立以来「2番目」のワルだと言われたYOSHIKIさんですが、成績は学年2番だったとか。
ツッパリな格好をしながらも、高3では音大進学のための音楽論理などをきっちり勉強したそうです。
武蔵野音楽大学推薦が決定!しかしTOSHIと共にバンド活動へ専念
アマチュアバンド活動でも、千葉県大会ではベストドラマーに輝くなど才能を遺憾なく発揮したYOSHIKIさんは、音大では首都圏でも5指に入る武蔵野音楽大学へ、推薦入学が決定していました。
しかし幼馴染でもあり同級生のTOSHIさんの熱い思いに賛同し、推薦を蹴ってバンド活動に専念することにしたのです。これこそが伝説の「X JAPAN」の第一歩だったのです。
YOSHIKIの本名・生年月日・年齢などプロフィール
- 本名:林 佳樹(はやし よしき)
- 生年月日:1965年11月20日
- 年齢:54歳
- 身長175cm
1989年にロックバンドX JAPANのドラマー・ピアニストとしてメジャーデビュー。
ソロ活動では、1999年には『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』のための奉祝曲、2005年の『日本国際博覧会(愛知万博)』の公式イメージ・ソングを拝命。
2012年のゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソングに抜擢されています。
1986年には自身のバンド「X」をリリースするため、20歳でインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立。
後に、LUNA SEAやGLAY、ZI:KILLなどを生み出し、ヴィジュアル系ブームの火付け役となりました。
その後、2000年には「日本社会と文化に貢献した人物」として文部大臣から表彰をされています。
YOSHIKIは2人の仲間と死別!辛すぎるお別れ
X JAPANの創設メンバーである、hideとTAIJIの2人を、YOSHIKIさんは見送っています。特にhideさんの衝撃的な自殺報道は、社会現象とも言える大事件として今も語られています。
X JAPANの盟友・hideが1998年に自殺?
インディーズ時代からの盟友・hideさんの急逝は、YOSHIKIさんに深い悲しみをもたらしました。死去の知らせはロスで受け、当初は冗談と拒否したYOSHIKIさんは緊急帰国の機内で号泣したそうです。
才能に溢れる人物でしたが、33歳の若さでの自殺報道にファンは騒然となりました。ドアノブにタオルを引っ掛けての首つりという、衝撃的な内容でした。
YOSHIKIロスから緊急帰国!築地本願寺大混乱!後追い自殺も?
告別式までの5日間は、築地本願寺は空前の混乱を極めました。hideさんの死の後追い自殺者が実際に出たと言われています。確かな情報はないですが、噂では60人ともそれ以上とも言われています。
この緊急事態を受けて、傷心の極みにいるYOSHIKIさんは5月4日、ファンへの緊急の呼びかけを行いました。5月7日一般人公開の献花式には、史上空前の5万人もの参列者が並びました。
告別式では築地本願寺開山以来、初のグランドピアノが搬入されました。お別れにYOSHIKIさんは「Forever Love」を演奏し、見送ったのでした。
ギターのTAIJIは2011年45歳で死去!自殺を図り病院で脳死
同じくインディーズから共に活動し、メジャーデビュー3年で脱退したギターのTAIJIさんが2011年に急逝しました。脱退時はYOSHIKIさんと揉めたこともあったようです。
音楽活動はずっと続けていたものの、生活苦や事故、難病の不幸が長く続きます。2010年にはX JAPANライブに緊急参戦し、YOSHIKIさんら旧友と18年ぶりにステージを務めました。
2011年7月、サイパン島へ向かう機内で騒動を起こし逮捕。拘束中にシーツで首を吊り、意識不明状態のまま病院で脳死しました。享年45歳でした。
YOSHIKIの波乱の生い立ちは父親の自殺が影響?母親の教育が良かった?
YOSHIKIさんのミュージシャンとしての世界規模の活躍は、音楽と深く親しんだ生い立ちによるところが、非常に大きな影響を与えていたことがわかりました。
父親の自殺という悲劇的な過去を乗り越えたからこそ、YOSHIKIさんはファンを強烈に引きつける魅力を得たのかもしれません。母親の独自の教育への感性も好影響したのでしょう。
世界的ビジュアルアーチストとして日本をリードすると同時に、社会貢献にも多大な尽力をしているYOSHIKIさんの、今後の活躍から益々目が離せませんね。