三島由紀夫には子供は何人いた?その子供達の現在から妻まで調査しました! エンタメ

三島由紀夫には子供は何人いた?その子供達の現在から妻まで調査しました!

今回フォーカスしたのは三島由紀夫さん。国語の教科書にも小説などが登場し知らない人がいないくらいだと思いますが、ノーベル文学賞候補になるくらいの大作家。そんな三島由紀夫さんの子供と妻について調べてみました。その子供は現在どうしているのでしょうか?

目次

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三島由紀夫の子供は何人?現在はどうしてる?

三島由紀夫さんご自身はすでにこの世におられませんが、ご家族のその後は気になります。そこで三島由紀夫さんの妻と子供の、気になる今現在とを追跡してみます。

子供がいるとすれば、お孫さんなどの子孫も気になりますので、その辺りも可能な限り調査してみました。

三島由紀夫が妻・平岡瑤子と結婚!子供が2人生まれる

三島由紀夫さんが結婚されたのは昭和33年、西暦で言えば1958年となります。お見合いの後にご結婚されのですが、実はその前に幼馴染の湯浅あつ子さんから写真を見せられていました。

三島由紀夫さんは、一目で気に入ったことからお見合いになったそうです。妻となったお相手は、当時女子大生の杉山瑤子さんでした。

子供は2人

結婚後は三島由紀夫さんの本名である平岡姓となり、平岡瑤子さんとなります。三島由紀夫さんの本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)さんといいます。

杉山瑤子さんは日本画家の杉山寧さんの長女です。当時はまだ21歳の大学生だった点には驚きがあります。大学は日本女子大学英文科専攻で、当時は2年生でした。

三島由紀夫さんの結婚はそのような経緯で、その後娘と息子、2人の子供に恵まれます。結婚当時の年齢は三島由紀夫さんが33歳で、妻となった杉山瑤子さんはなんと21歳でした。

三島由紀夫は子供が小さい時に亡くなってる

三島由紀夫さんはすでに説明したように昭和45年(1970年)11月25日に亡くなられています。結婚もされていたので、気になるのは家族のその後だと思います。

歴史に残る大作家の家族ともなれば、その後や今現在に興味を持つ人が多いのは当然だと思います。妻の平岡瑤子(旧姓は杉山)さんはすでにお亡くなりになられています。

1995年7月31日のことです。その時の年齢は58歳でした。亡くなられた理由というか原因は病気です。急性心不全だったとのことです。

三島由紀夫には孫はいるのか?

では、子供さんはどうなのか?息子さんと娘さん1人づつの2人いますが、亡くなられたという情報はないので、何らかの仕事や活動をされていると思います。

一般の方ですから、もちろんあまり細かく詮索するのはよくないのは明らかです。ですのでこの後は、一般的にわかっている情報をメインに解説していきます。

しかし、今現在どうされているかなどの詳細な情報はごくわずかです。また、子供さんたちに子供、つまり三島由紀夫さんのお孫さんがいるかどうかも気になるところです。

やはり、歴史にその名を残すような方の子孫ってすごく興味があります。特に天才なんて言われていた人はですね。

三島由紀夫の長男・平岡威一郎の現在は?

息子さんの名前は平岡威一郎(ひらおかいいちろう)さんと言います。生年月日は1962年5月2日なので、今現在の年齢は58歳です。学歴は、さすが三島由紀夫さんの息子さんだと思います。

出身小学校はお茶の水女子大学附属小学校で、出身中学と高校は開成中学校・高等学校のようです。最終的に大学は、慶應大学に進んだとされています。

三島由紀夫さんの家系図を調べてみましたが、息子の平岡威一郎さんと、この後に紹介する娘さんで止まってました。家系図的には三島由紀夫さんのお孫さんがいるかは不明です。

中学卒業後に一時的に渡米して映画に打ち込もうとした?

Free-Photos / Pixabay

平岡威一郎さんは、開成中学を卒業するとすぐに渡米していたようです。帰国後には当時も一線級の、市川崑監督に師事しようとしていたようです。

この前後が不明ではあるのですが、かつての恩師でもある小学校の校長が談話を残しています。

「米国へ行きたい、などと言っていたが、結局、慶応へ進んだらしい」

(引用:Wikipedia)

現在は何している?

映画の助監督やクレジット・タイトルで制作係として名前が出たり、その後は銀座の宝飾店を経営されたりしていたようです。また、作詞家を目指して弟子入りなどもされています。

しかし、半年ほどで諦めさせられたとか。父親譲りの文才はあったのかもしれませんが、どうも一般受けはしなかったことが理由のようです。

三島由紀夫原作の映画「春の雪」を監修

2005年の映画「春の雪」では、父・三島の原作映画化で、平岡威一郎さんは企画・監修をしています。これは三島の長編「豊饒の海」の第一部が原作にあたります。

この際、彼は「三島威一郎」を名乗って、映画に携わったと言われています。

父・三島由紀夫は「小説家にだけはなるな」と語った?

子煩悩だった父の三島由紀夫さんは、息子の将来を思い「小説家にだけは」なってもらいたくないと語ったそうです。それは浮き沈みの激しい職業を案じてのことだと伝えられています。

また雑誌等のメディアにも、写真を出さず、親の七光りで勘違いさせない方針も貫いたようです。自決を決意してからは、意識的に息子との時間を大切にしたとも言われています。

三島由紀夫の長女・平岡紀子の現在は?

次に娘さんですが、名前は平岡紀子(ひらおかのりこ)さんといいます。生年月日は1959年6月2日で、現在の年齢は61歳。結婚された後に冨田紀子さんとなられています。

ちなみに、夫は外交官の冨田浩司さんです。平岡紀子(冨田紀子)さんは演出家をされています。

長女・平岡紀子は高学歴のお嬢様コース出身

三島由紀夫さんの長女、平岡紀子さんの学歴が華麗です。華族・皇族が集う名門「学習院」で、幼稚園から大学は仏文科卒業まで、全て通していました。

都内名門には成城・成蹊や、慶應もありますが、学習院オンリーというのは完全なるお嬢様コースと言えるでしょう。

三島由紀夫には孫がいた!

子供さんは3人いるようです。息子さんが1人に娘さんが2人。ということは、三島由紀夫さんにはお孫さんがいるってことになりますね。お孫さんたちについては一般人なので詳細情報はありません。

子孫が気になってましたが、今後お孫さんのうちの誰かが三島由紀夫さんの孫ということで、作家デビューでもしたらとんでもなく話題になるでしょう。

三島由紀夫さんの子孫が今後も途絶えることなく続けば、いずれまたその中から天才と呼ばれる方がこの世に登場するかもしれません。

元来子供嫌いだった三島由紀夫が娘を溺愛?

論理派の三島由紀夫さんは、子供好きではなかったそうです。しかし愛娘の成長を見るにつけ、次第に父親として娘を溺愛するようになったと言われています。

子供が生れたての赤ん坊の頃は、「怪物的であつて、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しないでもすみさうだ」と安心していたが、少し成長してくると「これは並々ならぬ可愛いもの」だと不安を感じた

(引用:Wikipedia)

妻と2人で海外を外遊した際にも、まだ1歳の娘に、本場のディズニーランドから絵葉書を送ったそうです。

三島由紀夫は同性愛者だった?!

三島由紀夫さんを知る人は、三島由紀夫さんが女性と普通に結婚をした事に驚きを隠せなかった様なのです。というのも、三島由紀夫さんは同性愛者で男性に興味があったからです。

確かに、三島由紀夫さんの結婚は予想外に他ならなかったでしょう。

また、三島由紀夫さんの恋愛対象は男性のみと言う訳ではなく、男性女性両方が好きというバイなのかも知れません。恋愛対象への認識に関しては、理解が現在よりも乏しかったのは伺えます。

そして、三島由紀夫さんが45歳の時に憲法への自らの主張を訴えるために、強硬手段に出て演説をした後に、切腹をしたというのは良く知る所です。

三島由紀夫は割腹自殺だった

1970年11月25日、三島由紀夫さんは自衛隊市谷駐屯地で、益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文をまき、演説をしたのちに割腹自殺によりこの世を去ります。

運命の日、平岡瑤子さんは、乗馬の練習のために馬事公苑へ向う途中に自宅へ電話をかけます。

三島由紀夫さんに用件を伝え、「ああ、そうか」と三島由紀夫が答えたのが夫婦の最後の会話だったといいます。

夫の死後、平岡瑤子さんは、三島由紀夫さんの蔵書や遺稿の保存整理に尽力しました。

三島由紀夫の妻は姉御肌だった

女優の桑野みゆきさんに似ている、ライザ・ミネリに似ているとも言われた平岡瑤子さん。その育ちから「お嬢さん」というイメージがありますが、実は下町のガラッパチの姉御肌の女性だったという評判です。

ひと回り年上の夫・三島由紀夫さんにもズケズケものをいい、叱りつけるような面もあったようです。1977年3月3日「憂国道志会」が、経団連職員を人質に取って立てこもるという経団連襲撃事件が起こります。

犯人が三島由紀夫さんを傾倒していたことから、平岡瑤子さんが犯人の説得に当たりました。その際に、なんと電話で犯人を叱りつけ、現場にまで出向いて説得したというのですから、お嬢さんにはできない芸当です。

三島由紀夫は早熟型の天才!45歳の早すぎる死

前述の通り、三島由紀夫さんは政治的主張から、割腹自殺でこの世を去りました。享年45歳という若さであり、すでに多数の傑出した文学を生み出していたことから早逝が悔やまれる作家です。

三島由紀夫さんほど、天才の称号が相応しい作家もそうそういないと評価されます。無論、文体などで好みは分かれるのですが、日本語の美しさでは比肩する者は少ないと言われています。

16歳で処女作「花ざかりの森」を執筆

三島由紀夫さんが「早熟な天才」だったことは、その処女作を書き上げたのが16歳だったことで明らかです。小説「花ざかりの森」は、浪漫派の小説家たちの間で「天才現る」と歓迎されたそうです。

この処女作は昭和16年に、文学雑誌「文藝文化」へ連載されました。その評価は若さよりもむしろ「成熟した完成度」の高さにおいて、激賞されるものだったと記録されています。

自分以上の「夭折の天才」レイモン・ラディゲに嫉妬と傾倒

少年時代から極めて幅広く文学を読み漁った三島由紀夫さんが、ほぼ唯一その才能に「嫉妬」したという作家がいます。それはフランスの作家、レイモン・ラディゲだったと言われます。

ラディゲはフランス文化の象徴ともいえる「ジャン・コクトー」に早くから見出された作家です。長編処女作「肉体の悪魔」は、三島と同じ16歳で書き上げベストセラーとなりました。

次作「ドルジェル拍の舞踏会」を執筆すると、ラディゲは20歳の若さで逝去しました。わずか2作品しか遺さなかったラディゲですが、その典雅な文体に、天才三島は激しく嫉妬しつつ耽溺したそうです。

1963年のノーベル文学賞では最終候補?生きていれば受賞確実とも?

2014年スウェーデンアカデミーは、1963年のノーベル文学賞候補に三島由紀夫さんが入っていたことを明らかにしました。しかもその技巧において、極めて受賞に近い位置にあったと認めています。

この前後時期には、川端康成氏、谷崎潤一郎氏なども選考課程で名があがっていたとのことです。後の文学的評価では、三島由紀夫さんほどノーベル賞に近い日本人はいなかったと述懐されています。

「天才」「文豪」と称される三島由紀夫と繋がりの深い人物たち

「天才」や「文豪」の名をほしいままにする三島由紀夫さんの、交友関係について触れてみましょう。彼は非常に多くの人物と関わりあっていますが、中でも最重要と言われる人物は絞られます。

日本人初のノーベル賞作家・川端康成

まずは三島由紀夫さんの才能にいち早く気付き、強い後押しをしたのが川端康成氏だと言われます。三島は川端に師事するというのではなく、恩人として尊敬の念を持って接したと言われます。

川端康成氏が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した際も、我がことのように喜びあった間柄でした。

もう1人の幻のノーベル賞作家・安部公房

三島由紀夫さんよりも文壇デビューは遅かったものの、1歳年上の芥川賞作家・安部公房氏とも親交がありました。2人はその政治思想や作風においては全く別なベクトルにありました。

しかし雑誌「近代文学」を接点とし、お互いに一目置く仲だったと言われています。対談においても、従来偏屈な性格から、あまり文学界に親しい者がなかった安部公房氏は三島をこう評しています。

安部は三島をユーモア感覚のある「対話の名手」と評し、「けっして謙虚ではなかったが、意味のない傲慢さはなかった」

(引用:Wikipedia)

安部公房氏もまた、ノーベル文学賞に極めて近い存在という世界的評価を受けています。1993年の急死がなく存命であれば、受賞はほぼ確実だったろうと言われる点に共通項があります。

日本文学研究の第一人者・ドナルドキーン

外国人でありながら、他の誰よりも日本文学を愛し探求を極めた学者がドナルド・キーン氏です。キーン氏は早くから、日本文学の最高到達点は、三島由紀夫さんだと高評価していました。

ドナルド・キーン氏と三島由紀夫さんは書簡のやり取りなどをする友人関係にありました。また「宴のあと」などの著作を英訳し、三島文学の啓蒙にも貢献した人物です。

キーン氏は、ノーベル文学賞受賞が三島ではなく、川端康成氏であったことに大きな疑問を持っていたそうです。ノーベル選考委員の中に、強く三島を排除した人物がいたことを示唆しました。

「もしも」の仮定で、ノーベル賞受賞が三島の方だったら、川端も三島も自殺せずに済んだのではという持論を展開しています。

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