いかりや長介の死因は原発不明頚部リンパ節がん?葬儀に志村けんは来なかった!?

いかりや長介が亡くなってから随分と経ちましたね。亡くなった当初は芸能界も大きな悲しみに包まれていました。死去の死因とはなんだったんでしょう?いかりや長介の生涯を紹介するとともに、死去の原因になった死因について調べていくことにしましょう。

いかりや長介の死因は原発不明頚部リンパ節がんだった?!

いかりや長介は、ザ・ドリフターズのリーダーで名俳優。惜しまれながら、2004年3月20日に他界しました。その死因は、原発不明頚部リンパ節がんでした。症状としては頚部やわきの下、股の付け根のリンパ節の腫れやしこりに伴った神経圧迫による痛みや発熱、全身倦怠感や体重減少、寝汗やかゆみなどが見られるそうです。

いかりや長介は、最初の入院で放射線治療などを行い、経過良好ということで7月には仕事復帰しました。しかし実は、その時には家族に「余命数ヵ月」と告げられていたといいます。近年、悪性リンパ種は高い確率で治癒できる様になりましたが、原発不明がんにはこういった現実があるのです。

いかりや長介のプロフィール

  • 名前   いかりや長介(本名 碇矢長一 いかりやちょういち)
  • 生年月日 1931年11月1日
  • 没年   2004年3月20日
  • 血液型  A型
  • 代表作
  • 8時だョ!全員集合!
  • ドリフ大爆笑
  • 踊る大捜査線シリーズ

ドリフターズの原点はコメディアンではなく、実はミュージシャンが始まりでした。いかりや長介も高校を中退し、製紙工場で働きながらハワイアンバンドを結成してしばらくやっていました。1964年に「ザ・ドリフターズ」と名前を改めて、荒井注、仲本工事、高木ブーを加えて再びミュージシャンとして活動を始めます。

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いかりや長介の死因、原発不明頚部リンパ節がんの治療法がない

003年5月にドラマ「高原へいらっしゃい」を降板して入院した当初、頚部にわずかなしこりが感じられるだけで、痛みなどの目立った自覚症状はありませんでした。いかりや長介が患った、頚部リンパ節がんを含む悪性リンパ腫の場合、腫れやしこり自体に痛みが無いことも珍しくないそうです。

また、風邪などの急性感染症によって引き起こされる、良性のリンパ節の腫れやしこりとの判別がつけにくいため、気が付かないうちにがんが進行してしまうケースも少なくないのです。いかりや長介のように原発不明、つまり、最初にがんが発生した部位が分からないと、有効な治療方法の当たりがつけにくいのです。

いかりや長介の死因、原発不明頚部リンパ節がんは自覚症状がない

いかりや長介の場合、2003年5月にドラマ「高原へいらっしゃい」を降板して入院した当初、頚部にわずかなしこりが感じられるだけで、痛みなどの目立った自覚症状はありませんでした。いかりや長介が患った、頚部リンパ節がんを含む悪性リンパ腫の場合、腫れやしこり自体に痛みが無いことも珍しくないそうです。

また、風邪などの急性感染症によって引き起こされる、良性のリンパ節の腫れやしこりとの判別がつけにくいため、気が付かないうちにがんが進行してしまうケースも少なくないのです。しかし、いかりや長介の場合は既に、原発巣が分からない程に多器官にがんが転移していたようです。

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いかりや長介の息子が死因や生涯を綴った本を出版していた

この方はいかりや長介の息子で碇矢浩一です。この方がいかりや長介の死去後にいかりや長介の闘病についての本を出版しました。息子の心残りはやはり、いかりや長介に孫を見せてやれなかったということだそうです。

今では孫の方はいかりや長介が元気だった頃のコントを見たり、俳優としてのいかりや長介を見ることができるので忘れられることはないでしょう。いかりや長介の闘病生活について書かれています。息子として父親の闘病を書くのは辛かったのではないでしょうか。

いかりや長介の生涯の資産や年収は凄かった?!

全盛期、加藤茶の年収は14億円だったそうですが、1974年からドリフターズ入りした志村けんは、24歳にしていきなり月収50万円。当時の大卒初任給が6万円程度だった事を考えると、笑いが止まらなかったはずです。ところが番組人気に伴って、1回1500万円の値がついていたドリフターズ。

しかし営業が増えても、メンバーのギャラは大きく動きませんでした。志村けんによると、渡辺プロ時代には均等配分されていたギャラが、「ドリフターズ事務所」が設立された途端に「6:1:1:1:1」になったといいます。当然6は、いかりや長介。実際の総資産や年収額は不明ですが、恐ろしい金額であることは間違いありません。

いかりや長介の葬儀に志村けんは参列しなかった

加藤茶は、葬式に駆けつけて弔辞を読んでいますが、その会場に志村けんの姿はなかったといいます。加藤茶曰く、仕事で来れなかったといっていましたが、真相はどうなのでしょうか。志村けんはデビューする前はいかりや長介の付き人していました。「ザ・ドリフターズ」に加入してから賃金のことでもめていたといいます。

長く一緒にいたからこそ我慢できないところもあったのでしょう。しかし自分の師匠が死去した時には、「やっぱりつらいですよね、応全部教えてもらったこともありますから。師匠ですからね」と話しているので、やはり心の奥底では師匠と認めているのでしょう。しかし、やはりお金の配分にはかなり不満があったし、複雑なんでしょうね。

いかりや長介の葬儀で加藤茶の弔辞

長さん・・・。随分急いで向こうに行っちゃったんだね。
あんた、最後の最後に嘘ついたよなぁ。

去年の12月に「大爆笑」のオープニング撮るときに久しぶりに会って、
「40周年の記念で「全員集合」と「大爆笑」、この2本撮りたいね」って。

長さん「いいね」って、「やろうよ」って、そう言ったよね。
うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。
だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね。

40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。

本当にご苦労さん。これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね。

荒井注さんが亡くなった時、長さん言ってたよな。
「俺も、もうじきそっちに行くから、一緒に酒飲もう」って。

本当にそんな日が来てしまったな。でもちょっと早すぎたんじゃないか?
もう少し我慢してほしかったな。

まぁ2人してつもる話もあるだろうけど、あまり深酒しないように。
それから、いきなりそっちから「全員集合!」と言われても、
俺たち4人は集まれないからね。

たぶんそのうち本当に「全員集合」になるかもしれないけど、
その時はやっぱりまた向こうでコントをやろうよ。

40年間本当にありがとう。そしてご苦労さんでした。
何も心配なくゆっくり休んでちょうだい。さよなら。

(引用元:朝日新聞デジタル)

いかりや長介の俳優業

いかりや長介はコメディアンという顔のほかに、俳優としての顔も有名ですよね。特に画像である「弁護士 猪狩文助」がいかりや長介の主演でした。火曜サスペンスや月曜ドラマスペシャルなどの、2時間ドラマを中心に出演されると、1997年「踊る大捜査線」での、主人公の青島俊作巡査部長(織田裕二さん)を指導する、

叩き上げの老刑事、和久平八郎役が、その渋い演技ではまり役となり、1999年「踊る大捜査線 THE MOVIE」では、「日本アカデミー賞・最優秀助演男優賞」を受賞。俳優としても、見事、才能を開花されたのでした。

いかりや長介の死因から葬儀までの生涯のまとめ

いかがでしたでしょうか?今後、いかりや長介のようなコメディアンで名優になれる存在の人間は中々出てこないでしょう。しかし、ドリフは永遠です!いかりや長介には安らかに眠っていて欲しいものですね。これからもいかりや長介の作品や出演作は永遠に受け継がれていくでしょう。